六十一話 母と父
俺が放った言葉に絶句したままの母さんは、何も返せずにいた。それを否定するわけでも、肯定するわけでもなく、動揺したままの様子で固まっていた。
そりゃそうだ。そこまで興味のなかった俺だけでなく、大切なはずの瑞稀でさえ見落とすほどに愛していた男が、他の女と交際していた挙げ句、それだけじゃ飽き足らず更に他の女性に手を出そうとしていたんだ。
そんなことは瑞稀に手を出そうとしていた時点で気付くべきことだが、いい加減目を覚まして欲しいところだ。
食卓の向こうで立ち尽くし、現実を認められないまま俺の言葉を飲み込んでいた。
どういうつもりかは知らないが、こんな様子ではどうしようもないだろう。まさか自分が愛されているだなんて勘違いを、心の底からしていたに違いない。
もうどうでもいいことだがな。ただ俺は、理解云々よりも、家族としてできることをしただけだ。母さんに話す気力能力がないというのなら、それ以上ここにいても無駄だろう。
そう思った俺は、ソファから立ち上がってリビングから出る。
「とりあえず、付き合う相手は考えた方が良いかもね。それじゃ」
そう言って、俺は実家を後にした。家に向かい、ポケットからスマホを取り出して電話をかけるのだった。
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突如としてやってきた雫が、衝撃的な話をするだけして、すぐに出ていってしまった。あの子から告げられた言葉が、やけに胸に突き刺さってへなへなと力なく座り込む。
あの人が?私のことを愛してると言ってくれた葛彦さんが浮気?雫のことは疑いたくないけれど、あの人のことだって疑いたくはなかった。
でもこの前だって雫だけじゃなくて瑞稀まで、あの人に怒っていた。あの後に葛彦さんと話はしたけれど、あそこまで瑞稀が嫌がる理由が分からなかった。
触られたからと言っていたけれど、もしかしたら家族になるかもしれない人からのスキンシップだ、むしろ大事なことなのではないかと思ったからだ。確かに瑞稀はもう十五歳だ、多感な時期といえばそうだけど、それにしたって過剰ではないかとも思う。
もちろんそんなことは瑞稀に言ってはいないし、葛彦さんにもあまり瑞稀には関わらないようにお願いした。あの人はちょっとした反抗期だからと、決して瑞稀の態度に怒ったりもしなかった。
だからきっと、瑞稀は慣れない相手に過剰な警戒心を抱いてるだけだろうとも思う。葛彦さんがあれだけ理解をしようとしてくれているのだから、時間を掛ければきっと二人だって分かり合えるはずだ。
問題は雫の方だ。あの子は昔から瑞稀を甘やかすというか、過保護になっているきらいがあった。もちろん、働き詰めである私に替わって、妹の面倒を見てきたからという自負もあるからだろうけど、私も雫を甘やかしすぎたのかもしれない。
いや、むしろ何もしなさ過ぎたことが問題なのだろう。あの子はどこか、私を親と思っていないのではないかという節も感じられる。
瑞稀が怒って雫の家に泊まりに行ったあの日も、元夫の方に行くだなんて、よくよく考えればあり得ないことを言い出した。もしかして、大人を驚かせて優越感に浸ってる?
もしかしたら、雫は反抗期になったのかもしれない。そう考えると、スッと心が軽くなる。
そうだ、きっと雫は反抗期でイライラに少し振り回されているだけなんだ。そっとしておけばきっと元に戻るに違いない。
もし機会があったら、雫と一緒にご飯でもたべながらちゃんとお話をしよう。あの子だって根はとっても良い子だから、そこまで遠い未来なんてこともないはず。
葛彦さんも瑞稀も雫も、きっと大丈夫。
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突如として夕方に電話かかってきた。その相手は、先日 久しぶりに会った大切な息子だった。嬉しいとも思いつつ、なにかあったのかもしれないとすぐに電話に出た。
『もしもし』
「もしもし、雫かい?なにかあったのかな」
電話口の雫は、前に会ったときと比べて固い声色だった。もし雫が困ったというのなら、僕にできることを全力でやろう。
ずっと離ればなれで、養育費くらいしか何も力になってやれなかったから。それが、父としてできることだ。
『俺さ、父さんの方に籍を入れたい。母さんにはもう着いていけないからさ』
「──分かった。すぐにでも手続きを始めるよ」
雫から告げられた言葉に、僕はすぐに頷いた。いったい鎮香はなにをやっているのかと、憤りを感じる。不貞をして僕から親権を奪った挙げ句、雫にそんなことを言わせるなんて……
『ありがとう、父さん』
「なんてことないさ。よければ明日にでも役所にでも行ってくるよ。雫も今度話をしよう、色々と不満が溜まっているだろう?」
僕の言葉に、雫がうんと返す。雫の年齢は誕生日を向かえていないので十六歳だが、本人の意思が決定していれば問題なく姓の移動は可能なはずだ。必要な手続きについて知り合いの弁護士に相談してみよう。
このことはちゃんと、再婚した妻にも話しておかないとな。




