百話 楓の苛立ち
しばらく楓を抱き締めたあと、彼女はゆっくりと離れて俺の目を見つめた。どこか寂しげに優しく微笑んだ彼女は、目を逸らすことなく告げた。
「私、待ってるね。いつか雫くんが私ともう一度付き合ってくれること」
「楓は、こんな俺を選んでくれるのか?」
「うん。だって、どんな雫くんだって大好きだから。それに私だっていくらでも欠点くらいあるし、それこそ嘘ついたりしたじゃん?」
楓は優しくそう言った。
嘘とは、一昨日の電話でしたことを言っているのだろう。でも、そんな彼女に不快感は一切なく、好意が消え失せることはない。
前ほどの好意はないとしても。
「別にそんなこと気にしてないよ。それに、楓が知りたいなら、俺が隠しごとをしなきゃ良い話だからな」
「そうだよ!雫くんってば抱え込んじゃうから、いつだって私に話していいんだよ。そうじゃないと、いきなり別れるって言われて、すごくショックだったんだからね?」
「それは──」
──ごめんと言おうとしたところで、楓は俺の唇に人差し指を当てた。指の感触が唇から伝わってくる。
「謝ってほしいわけじゃないの。たしかにショックだったけど、なによりお姉ちゃんが雫くんに酷いことを言ったのが許せないだけだから。だからこのあと、しっかり話をするよ。内緒って言うのは無理があるからさ」
「それは……」
「悪いけど、これは私と雫くんの問題だけじゃなくて、お姉ちゃんも関わってるの。そこまで話を聞いて黙ってはいられないから」
力強くそう告げた楓に、俺はなにも言えなくなり、頷くことしかできなくなる。
彼女がそこまで言うのなら、俺がなにを言うべきでもないだろう。
「分かった」
「うん。とは言ってもお姉ちゃん、なにか意図があって言ったわけじゃないらしいけどね」
「え?」
楓の言葉の意味が分からず、首を傾げる。意図がないということは……どういうことだ?理解ができない。
「ほら、雫くんと麻沼先輩が一緒にいることがどうのこうのって言ってたでしょ?それで勝手に悪く考えて、暴走しただけなの。だってお姉ちゃん自分がなに言ったのか、覚えてないって言ってたし」
意味が、分からなかった。美白さんはあれだけイライラしていて、ひどく顔色も悪かった。
俺がなにか悪いことをしたから、彼女を傷付けてしまったのかと思っていたのに、そんなことなかったってことか?
そう考えると、なんだかすごくやるせない。
「なんかほんとにごめんね、雫くん……」
「うん、大丈夫……」
気を遣ってくれる楓に、俺は力なく返すことしかできなかった。
──────────
思えばアタシは、麻沼としっかり向き合ってこなかった。なんとなく軽薄そうだからと、彼のアプローチを無視して遠ざかり、彼を好む女の子たちを横目で見ながら、どこか軽蔑していた。
でもそれはただの食わず嫌いと大差なく、実際に麻沼と関わってみると存外楽しかった。
いつも気楽にしているようで、その実 苦労を隠していたり、自分の立ち振舞いに気を遣っていた。そんな気疲れを隠すために、彼はいつもにこやかにしていたのだ。
そんな意外性というのは、思いの外魅力的に感じるのだ。だからこそ、アタシの心は揺れていた。
どうせ可能性のない雫くんを好きでいるより、好きでいてくれる麻沼と仲良くした方がずっと幸せになれるだろう。
先ほど麻沼とカフェでのデートを終えて、家に帰ってきたところだ。恋愛経験のないアタシは、たったこれだけのことに浮わついた心を抑えられずに余韻に浸っていた。
着替えを終えると、部屋の扉が開かれた。
「おかえり、ずいぶん遅かったね。もう日が落ちたけど、生徒会ってこんな時間までやることあったっけ?」
扉を開けた張本人である楓が、扉の枠にもたれながら、不機嫌を隠しもせずに言った。
「ただいま。ちょっと用事があっただけだよ」
「へぇ。まぁいいけど、雫くんと話してきたよ。ずいぶん言いたい放題したみたいじゃん」
せっかくの余韻も、楓の物言いで台無しになる。しかし、それも過去のアタシが雫くんをひどく罵ったことが原因である。
楓の物言いに思わず怯むけど、なんとか受け答えに努める。
「それは、うん……雫くんには悪いことをしたよ。ちゃんと謝りたいと思う」
「謝る?それで許されるとは思えないけどね、謝るどころか土下座しても足りないよ?私が雫くんを振るだなんて、バカなこと言ったみたいじゃん」
呆れたように告げた楓に、アタシは息が詰まりそうだった。いくら勢いだけとはいえ、言っていいこと悪いことをというものがあるはずだ。
勝手に嫉妬に狂って暴走して、そんなことを言ったのかと、情けない気持ちになる。
「後さ、雫くんと麻沼先輩が一緒にいるとこを見たって言ってたけど、あれってただ先輩と偶然会ったから喋ってただけらしいけど?」
「え、そうなの?でも麻沼は、雫くんを気に入ってたみたいだけど……」
「だから?じゃあなに、雫くん嘘吐いてるって言いたいの?」
なんとなく気になったものの、楓の言い分はもっともだった。雫くんならばたしかに、誰に気に入られてもおかしくないだろう。
「そっそう言うわけじゃない!」
「……まぁいいや。それで、これだけのこと言って本気で考えてませんでしたで誤魔化すつもり?」
「誤魔化してるわけじゃない。本当に感情に振り回されていただけなんだ。もちろんそれで許されるなんて思ってはいないし、雫くんに素直に謝ろうとおもってるけど」
どんな理屈だと、自分でもそのおかしさに恥ずかしくなる。アタシの言い分は楓からすると、おかしいことこの上ないだろう。
納得させるなんて、不可能といっても過言じゃないだろう。
本当に、気が重くなる。




