魔王軍の影、忍び寄る
王都フェルヴァリアの市場は、今日もにぎやかな喧騒に包まれていた。
色とりどりの果物、香ばしい焼き菓子、旅人の話、子どもたちの笑い声――
「わぁ……まるでお祭りみたい」
私は街の様子にきょろきょろと目を輝かせながら歩いていた。
「さくら、はぐれるなよ」
レオンが隣で軽く手を伸ばし、私のリュックの取っ手を掴む。
「だ、大丈夫。そんな子どもじゃないし……!」
「お前はすぐ迷う」
ぐっ……否定できない。
今日は久々の外出訓練という名目で、数人の騎士団メンバーと一緒に王都の防備や現地確認に出てきていた。
「団長〜、ここのアップルパイ、めちゃくちゃ美味しそうですよ!」
カイルがはしゃぎながら屋台の前で呼ぶ。
「さくら、こっちは新しい防具の細工店だってさ。覗いていこうよ」
セスがにやにやと誘ってくる。
「……おい、任務中だぞ」レオンの眉がぴくりと動いた。
(ああ、また始まりそう……)
そんな思いを抱えつつ、私は笑って誤魔化しながら、街を歩き続けた。
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その事件は、ふとした瞬間に起きた。
路地裏を曲がった先――突然、空気が変わった。
「……さくら、下がれ」
レオンの声が低くなる。
私の前に、黒いフードを被った人物が立っていた。背は高く、肌は青白く、眼だけがぎらりと赤く光っている。
「……聖女か」
その声は、男とも女ともつかない、不気味な響きだった。
「誰……ですか?」
私が問うと、フードの人物は口角をつり上げた。
「その娘こそ、封印を解く鍵……魔王様が目覚めるための扉だ」
「なっ……」
全員の動きが止まる。空気が凍りついた。
「貴様、魔王軍の……!」
レオンが剣を抜いた瞬間、フードの人物はふわりと身を翻し、屋根の上へと跳ね上がった。
「また会おう、聖女。いずれ、お前は選ばされるだろう……世界か、愛か、どちらかをな」
そう言い残し、黒い影は霧のように消えた。
「さくら、大丈夫か?」
「う、うん……でも……」
心臓が、いやな音を立てていた。
鍵とか封印とか……そんな、私にそんな重たいものがあるなんて――
「さくら、怯えなくていい。何があっても、俺たちが守る」
レオンの手が、私の肩をしっかりと掴んだ。
(でも、あの言葉……本当だったら……)
私はその夜、なかなか眠れなかった。
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翌日、王城では緊急の会議が開かれた。
魔王軍の影――今まで噂だけだったその存在が、ついに現実となった。
「奴らの目的は、聖女を手に入れること。それも……封印を解く鍵としてか」
王の表情は固く、ゼノ元団長も深くうなずいた。
「つまり、さくら殿を利用して魔王を蘇らせようとしている可能性がある」
「そんな……わたしが、世界を危険にさらすかもしれないってこと……?」
口にしたくなかった。だけど、否定できなかった。
その夜、私は一人で城の塔に登った。
星が瞬く空を見上げながら、心の中がざわついていた。
すると、背後から足音がした。
「こんな場所で独りってのは、らしくないね」
声の主は、ユリウスだった。
「……少し、考えたくて」
「怖くなった?」
私は、黙ってうなずいた。
「ねえ、ユリウス。もし……もし私が世界を壊す鍵だったら……どうする?」
しばらく沈黙が流れた後、彼は微笑んだ。
「それでも、僕は君を信じるよ。だって――」
彼がそっと、私の手を取る。
「僕にとっては、世界よりも、さくらの方が大事だから」
「……ユリウス……」
「ふふ、少しは安心した?」
彼の声は優しく、夜風に溶けていった。
(……世界か、愛か。どちらかを選べなんて、そんなの無理だよ)
けれど、選ばなきゃいけない時が来るのかもしれない。
(その時、私は――)
震える心を抱えながら、私はもう一度、星空を見上げた。