エピローグ
リルはゆっくりと目を覚ます。真っ先に視界に入るのはアライズの寝顔。一緒に暮らしていた幼い頃でも一緒に寝たことはなく、同じベッドにいるのが嬉しくてなんだかくすぐったい。もう一緒に寝る日々も数日、しかし慣れるのにはもうしばらくかかるのだろうと思いながらその寝顔を見つめる。
和平を実現させリルと一緒にいるために何年も奔走してくれていたのであろうアライズの顔には未だに疲労の色が残る。
ふっとアライズの睫毛が揺れ、黄色い目がぼんやりとリルを捉える。
「おはよう、アライズ。」
じっと見つめていた気恥ずかしさからリルがはにかんで言うと、しばしの間をおいてアライズがそっとリルを抱き締める。
「おはよう。」
その存在が現実のものであるのか確かめるような、そんな抱き締め方。
ここにいるよ、そんな思いを込めリルはアライズの胸に頭をつける。
「…全てが、夢だったのではないか。…毎晩、そんな夢を見る。」
アライズがぽつりと言う。
「…馬鹿だろう、こうしてリルはここにいるのに。」
その声には自嘲が強い。
リルはぎゅっとアライズに抱き付いた。
「大丈夫だよ、何度でもアライズが安心できるまで言ってあげる。僕はアライズの側にいるよ、ずっと。」
こんな孤独な日々をずっと過ごしてきたのだろう。ひょっとしたら一緒にいた頃でさえ見せなかっただけで、アライズはそんな孤独を抱えていたのかもしれない。いつも一人窓の外に向けていた寂しげな、不安げな目を思い出す。
そんな弱さを見せてくれるようになったのだ、少しは頼ってもらえるようになったのだろうか。
「…大好き、アライズ。」
支えるのだ、これからは。守ってもらうだけじゃなく。アライズの顔を見て、リルはにこっと笑う。
黄色の目に浮かんでいた不安げな色が消え、淡い笑みを返してくれた。
二人が着替えて大広間へ向かうと、キッチンから良い匂いが漂ってくる。キッチンを覗き込むと、契架と譲葉が仲良く並んで朝食の準備をしている。
拙い手付きで料理をする譲葉を、契架が優しげに見つめながら教えている。そんな微笑ましい様子に思わずにやけてくる。
「おはよう、リル。もうじき出来るから待っててね。いつから見てたの?」
こちらを見たわけでもないのに契架がそう言った。
「え、あっ、リル?また黙って見てたんでしょ…!」
「ほら譲葉、いいから手元に集中して。危ないよ。」
二人の様子をリルがにやにや見るのも最早日常茶飯事と化し、その度に恥ずかしさから譲葉が怒るのもいつもの事。
「今日は魔界へ行ってくる、向こうでの仕事が溜まっているだろうから数日帰らないかもしれない。」
四人で食卓を囲んでいると、アライズが言った。リルたちがここに来てから数日、アライズは一緒にいてくれたが、よくよく考えれば七名家の当主に戻ったアライズが人界でまったりと過ごしているばかりではいられないだろう。
「僕も魔界へ行った方がいいの?」
リルが問うとアライズはフォークを止め、やや難しい顔をする。
「…いずれはそうなるだろう。だがまだ向こうでの受け入れ準備が整っていないな。魔界に人間が踏み込んだことがそもそも無いしな。」
「そっかぁ…。」
まだまだずっと一緒とはいかないらしい。少し寂しい気持ちで視線を落とすと、アライズがリルの頭をそっと撫でた。
「セルリアに至急準備させるから、もう少しだけ待ってくれ。リルが魔界に来てくれることは共存の実現に向けて重要で欠かせない事だから。」
「アライズ様、お帰りなさいませ。」
ディスカナンの屋敷に戻るとセルリアが出迎えてくれる。政務机の上には予想通り大量の書類が積まれていた。
「処理できるものは対応していたのですが…。」
申し訳なさそうに言うセルリアにアライズは軽く頷く。
「構わない、分かっていたことだ。むしろ不在にしてすまなかった。」
すぐに書類に目を通しながら答える。素早く秘書の仕事に就こうとするセルリアにアライズは重要な事を思い出し顔を上げた。
「セルリア、こちらにリルが来れるよう至急準備をしてほしい。部屋や日用品の準備と…、魔界に入るための手続きに変更がいるな。人界との国交の開き方を話し合わないとならないか。代表会議が出来るように手配してくれ。会議の前にツヴァイラ様と事前の打ち合わせをしたいから、そちらの面会依頼も頼む。」
次々に仕事を口にするアライズにセルリアが眉をひそめる。
「それはどれくらいの日数を掛ける予定ですが?」
再び書類に目を向けながらアライズは考える。
「リルの受け入れ準備は大至急だ、一日でも早く頼む。ツヴァイラ様との面会も先方の都合に合わせた最短日数で手配してくれ。代表会議は打ち合わせがどうなるか次第だから至急ではないが、いつでも開けるよう準備だけは進めてほしい。」
「…それらと併せて、その書類や日常業務を行うおつもりですか?何日の滞在を予定しておいでで?」
人界へ戻らずに行うのであればセルリアとて素直に従ってすぐに取りかかるだろう。しかしアライズが人界へ滞在すればその間魔界での仕事は停滞する。魔界にいる間にこちらの仕事を片付けようとすれば明らかなオーバーワークだろう。
「今回は3日程度で片したい。長くても5日だな。」
「不可能でしょう!?」
「何とかするから、すぐに動いてくれ。問答している時間が惜しい。」
これ以上話しはしないと言わんばかりに、アライズは書類に取り掛かる。セルリアは尚も言葉を次ごうとしたがアライズの様子に諦め、少しでも助力できるよう自分の仕事を急ぎ片付けようと部屋を出た。
アライズの私室の隣の部屋を片付け掃除をし、部屋同士を行き来出来る扉を付けるよう工事の手配、並んでアライズの母ミーティアの部屋や持ち物を参考に家具や日用品を準備していく。
その合間にディストゥリクト家へ面会の依頼を出すと3日後と返事をもらった。
ツヴァイラから3日後を指定されたのでそれまでに全ての仕事を片そうと決めた。食事の時間が煩わしいので不要だと告げると、セルリアがお茶と一緒に軽食を持ち込んでくるようになった。
夜も仕事をしようとすると最早定番と化した「お休みください」を言われ、その度にセルリアこそちゃんと休めと部屋に追い返す。追い返したセルリアはちゃんと休んでいるようだ。
ふぅ…と溜め息をつき、書類から顔を上げた。椅子から立ち上がり伸びをすると視界の端に置いていかれたサンドイッチが目に入る。朝までに食べておかないとまたセルリアから小言を言われるのは目に見えている。皿を手に取ると窓辺に腰かけて食べ始めた。
こうして窓の外を見ていると、その向こうの景色はまるで異なるのに悪魔の森の館にいるような気になってくる。それもただ死にたいとばかり思っていたあの頃の気持ちが逆流してくる。
セルリアは寝ろと簡単に言うが、今はもう一人では寝ることも怖い。目覚めたときに傍らにリルがいないと、結ばれた事が夢ではないのだと思うことが出来ない。真実だと分かっているのに闇を振り払えない。
「情けないな…。」
リルに依存しているのだとは分かっている。それでもどうしようも出来ない。
「…また酷い顔をしておるな。もう一度無理矢理寝かしてやろうか。」
ツヴァイラと顔を会わせると開口一番そう言われた。
「それはちょっと…、今晩には向こうに戻るので問題ありません。」
ひきつった顔で断るとツヴァイラは大きく溜め息をついた。
「あの時言ったことが分からなかったのか?休めと進言されたなら受け入れるのもまた上に立つ者の務めだぞ。…そもそも心配をかけないことの方が重要だがな。」
「…ごもっともです。」
反論の余地などない正論だった。
「…眠れぬか。」
項垂れるアライズをじっと見つめていたツヴァイラが頬杖をつきながら不意に言った。
「それほどまでにその少女が必要なのだな。側におらぬと怖いのだろう?全てが泡沫のように思えて。」
「…何を、ご存じなのですか…?」
アライズの声は動揺に揺れている。しかしツヴァイラはふんと鼻を鳴らし視線をはずす。
「何も知らぬよ。ただそなたよりは随分長く生きているだけだ。」
つまらなそうにそう言って、再びアライズ視線を戻す。
「…すまなかった。印は押さなかったが、もっとちゃんと助けてやれれば良かったな。」
「え…?」
急な謝罪にアライズ目を瞬く。
「お主が魔界を追われること無くいられたなら、しなくてよい苦労が多くあっただろうに。」
「我が追放されたのはツヴァイラ様のせいではありませんが…?」
ツヴァイラがそんな事を此処に至って謝罪してくる意味が分からない。
「お主の父リザルドもそんな目をしていた。短命だったからだろう、自らの人生を受け入れたような諦めたようなそんな目だった。…私はその目が嫌いだった。」
突然ツヴァイラから紡がれる話にアライズは目を丸くする。
「子供のくせに何て目をするのだろう、と。ミーティアちゃんと出会ってからは大分変わっていったがな。…幸せそうだった。」
遠いところを見つめるツヴァイラの目が懐かしそうに細められる。
「幸せになれば良いと思ったものだ。二度と子供があんな目をするものではない、と。」
そこで一度言葉を切ると、後悔の混じる視線をアライズに向ける。
「…だが結局お主も同じ目をしている。リザルドにとってのミーティアちゃんが、お主にとってのその娘なのだろう。」
アライズは戸惑ったままその視線を受け止める。
「私の手が必要なら幾らでも貸してやる。…だからちゃんと幸せを掴むが良い。お主の両親の代わりに見守ってやるから。」
「…何故そこまで…?」
「ミーティアちゃんには借りがある。だがもう返せぬから、お主に返してやる。それにそんな目をする子供はもうたくさんだ。」
後半はややうんざりしたように言うツヴァイラにアライズは頬を掻く。
「我はもう子供では…。」
「私から見たら十分に子供だ。子供らしく無邪気にしておれ。」
子供らしい無邪気な自分はちょっと想像できないな、と思わずにはいられないアライズだった。
手を貸してやるという言葉通り、ツヴァイラに人界との国交を開くために魔界に入る際の手続きの変更案を伝えると全面的に引き受けてくれる事になった。
ツヴァイラとの話がすんなり進んだお陰で、ディスカナンの屋敷に早く戻れたので残っていた書類を無事片付けきる事が出来た。
セルリアにまた数日後に来ると告げ魔界を後にし、転移の術を使って悪魔の森の館に帰る。
思ったより早く帰れたとはいえ既に夜中、館のなかはひっそりとしている。
自室の扉を開けるが電気は着いておらず、リルも寝ているのかとベッドへ歩み寄るがもぬけの殻である。
アライズは少し考えてから、ゆっくりと部屋を出た。何となくだが、きっとリルがいるのは屋上だと思ったのだ。
その扉を開けるとギィっと鈍い音がする。屋上の淵に佇む黒髪の少女の姿に愛しさが込み上げてくる。
こちらを振り返った青い眼がゆっくりと見開かれる。
「アライズ…。」
「ただいま、リル。…いつぞやと立ち位置が逆だな。」
懐かしさに自然と笑みが浮かぶ。リルも嬉しそうに笑うとアライズに駆け寄って抱き付いた。
「…僕が抱き付くのはあの時と同じだね。よく此処にいるって分かったね。」
懐かしさの滲む照れ笑いでリルが言う。
「我がリルを思うときは屋上が多かったから、リルもそうではないかと思っただけだ。」
そんな他愛のない話をしてから、しばらくぶりの抱擁を解く。
「アライズ、疲れた顔してる。」
改めて真っ直ぐにアライズを見たリルがむむっと眉を寄せた。
「向こうではやる事が多い、忙しくてな。…それに少しでも早くリルに会いたかった。」
「…心配しなくても、僕はいなくならないよ。ちゃんと待ってるから、無茶しないで。」
何も言わなかったのにアライズの不安はリルに見透かされている。
「…それは、無理だ。我は…。」
しかしアライズはそこで言葉を切ってしまった。
「我は、何?」
リルが強い視線で先を促すと、アライズはふいっと目を逸らしてしまう。
「…カッコ悪いから、言いたくない。」
小さな声でそう呟くアライズの顔をリルは両手で挟み自分の方を強制的に向かせる。
「我は、何?」
同じ問いを口にして、真剣な強い眼差しがアライズを射抜く。
アライズは強情に視線だけをリルから逸らして、グッとフードを引いて目を隠す。
「…リルが隣にいないと眠ることさえ、怖い。」
言ってしまって、リルの顔を見ることが出来ない。失望しただろうか。それでもどれほど愛想尽かれたとて、手放してやることなど出来ないのだけど。
不意にふふっと笑い声がした。フードから手を離しリルに視線を向けると、嬉しげな笑みを浮かべていた。
「じゃあ、僕も早く一緒に行けるようにならないとね。…そしたら無理矢理にでも休ませるから。」
そんなリルの様子をアライズは呆気に取られたように見ていたが、やがて苦笑を浮かべた。
「…リル、君がいてくれて良かった。」
アライズの言葉にきょとんとしたリルだったが、照れたような笑みを見せる。
「うんっ。…死ぬまで一緒にいるからね。」




