愛してる
名残惜しむ日向にこれからはマメに訪れるからと約束をし、ようやく孤児院を出た頃にはすっかり日も落ちていた。
「遅くなっちゃったね。」
木々の隙間から星空を見上げながら璃琉が言うと、譲葉が肩を竦める。
「ま、話が盛り上がっちゃったんだから仕方ないよ。あの二人なら何時になっても待ってるだろうから問題ないでしょ。」
譲葉の言葉に、二人の脳内には館で待っている様子が容易に浮かんできて、思わず顔を見合わせて笑った。
「譲葉、ありがとね。」
璃琉が不意に言うと、譲葉はきょとんと眼を丸くする。
「何が?」
「うーん…、上手く言えないんだけど…。」
璃琉は夜空を見上げながら言葉を探す。
「譲葉が私たちのところへやって来たこと、アライズを殺さないでいてくれたこと、私を見守っていてくれたこと、アライズたちの傍にいてくれたこと…とか、色々?」
「よく分かんないんだけど…。」
「全てが物凄い偶然の積み重なりで今があるのか、それともその偶然さえも用意されてた必然なのか…。分からないけど、私は譲葉と会えて良かったなって。きっとこの道のりで無ければ、今この瞬間、あるいはここから続く未来は存在してないから。」
ってこれじゃ、結局良く分かんないねと璃琉が照れたように微笑むが、譲葉は頷いた。
「分かんない。だけど、でも何となく言いたいことは、伝わるような気もする。…私もこんな未来が待ってるとは思わなかったなぁ。」
「そうだよねぇ。譲葉が契架とくっつくなんてねぇ?」
からかうように言うと、途端に譲葉の顔が赤くなる。
「もう!そういうの璃琉の悪い癖だよね、すぐからかって!」
二人の笑い声が森の中に響く。他愛もない話をしながら、待ってくれている人の元へ向かう二人の足取りは軽かった。
木々の向こうに館の姿が見えてきた。絶えず続いていたお喋りがどちらともなく止まる。正面の門に続く道に足を踏み入れると、すぐにこちらに駆けてくる人影があった。
「譲葉、リル!」
「契架!」
その姿に譲葉がパッと走り出す。そのまま二人はぎゅっと抱き合った。
「遅かったね、心配したよ。」
「ごめん、孤児院に寄って来たら、話が長くなっちゃって。」
二人の幸せそうな様子を、璃琉は微笑ましく見つめる。わざと少しばかり歩調を緩め、二人に再開を喜ぶ時間を作ってあげる。
歩きながら何気なく館に目をやると、屋上の淵に立つ影に気付く。僅かな風にも大きくシルエットを揺らすローブと長髪。フードの奥で陰る表情は窺い知れないが、その目は確かに璃琉を捉えたように見えた。その瞬間、言いようのない胸の高鳴りを感じる。
「譲葉、リル、行こうか。アライズ様もお待ちだよ。」
その声に璃琉がハッとすると、既に二人の側まで辿り着いていた。契架と譲葉はもう抱き合ってこそいないものの、その手をしっかりと握りあっている。繋いだ手に璃琉の視線が向けられていることに気付いた譲葉が、俄かに照れくさそうに顔を逸らす。そんな譲葉の様子には気付いたものの、理由には気付かない契架が不思議そうな顔をした。
踏み出す前にもう一度屋上を見上げる。東の空に満月が昇り始めていた。
懐かしい大広間に通され、とりあえずその場に荷物を置くと璃琉は直ぐに踵を返した。連れ立ってキッチンへ向かおうとしていた契架と譲葉が振り返る。
「行ってくるね。」
その気配に気付いた璃琉は、何か言われるより先に扉に向いたまま言った。
「うん。行っておいで。」
契架が優しい声で送り出す。
「心配ないよ、きっと。」
譲葉が明るく背中を押してくれる。
璃琉はほんの少しだけ首を回し、二人に向けて小さく笑顔を残すと広間を出た。
扉が閉まると、途端に屋敷の中の静寂が耳に付く。廊下をゆっくりとした歩調で歩み出す。かつて此処に住んでいた頃を思い出しながら。
まだ幼く、何も知らず何の力もなかった。いつもアライズのお古のシャツを着て、アライズにもらったうさぎのぬいぐるみを抱え、この広い屋敷の中という狭い世界で、知らないうちにいつでもアライズに守られていた。そんな日々。不満などなかったし、幸せだった。だけどその幸せの下で、アライズは苦悩していた。知らなかったし、気付かなかった。支えることも受け止めることも出来ず、最後まで守られ続けただけ。
璃琉の足が屋上へ続く階段を捉える。でも、今は違う。もう守られるだけの幼い自分とも、何もかも忘れ支えることも出来ない自分とも。ここに来るまでに色んな事を知った。色んな力を得た。そして気持ちは固まっている。
屋上への扉の前まで辿り着き、足を止める。あの日は逸る気持ちのまま、この扉を開け放した。一度は掴んだように思えたのに、結局再び離れてしまった。
…今日もまた、同じことが起きる?頭によぎる不安をぶんぶんと振り払う。そんな事は無い。自分に言い聞かせ、目を閉じ、大きく深呼吸を一つ。
本当に色んな事があった。幼少期から今に至るまでの数々の出来事が駆け巡る。守られていた日々、璃琉として過ごした時間、養成学校に青騎士…そして今、此処に立つ自分。
気持ちをしっかりと定めて、璃琉の目が開かれる。璃琉からリルへ。戻る時が来た。
扉をそっと押し開ける。いつかと同じ場所に佇む人物は、しかしいつかとは違い扉の開いた音を聞いても驚いた表情でこちらを振り向く事は無かった。その後ろ姿に魅せられるように固まったリルを、アライズはゆっくりと振り返った。
「リル。」
その名を呼ぶアライズはとても穏やかな笑みを浮かべていた。その声に引き寄せられるようにリルが歩み出す。アライズも屋上の縁から降りるとリルに向かって歩み、あと一歩で触れ合える、そんな距離を残して足を止めた。
「リル、…会いたかった。もう、ずっと…。」
アライズが少しばかり躊躇う色を見せながらも、抑えきれない気持ちを口にする。その様子と言葉にリルは残っていた一歩分の距離を踏み越え、抱き着いた。
「…アライズっ。会いたかった、ずっとこうしたかった…っ。」
自分に回されたリルの腕に応えるように、アライズもリルを抱き締める。二人はしばらくそのまま、お互いの存在を感じていた。長く離れていた時間を埋めるかのように。
「…本当に」
しばらくしてアライズが呟くように言う。その言葉と同じタイミングで腕が解かれ、ほんの少し距離を置かれる。
「本当に、いいんだな…?」
ここにきて尚、アライズの眼には不安と罪悪感が揺れていた。その怯えたような満月の眼を、リルの青眼がじっと覗き込む。
何の確認か、何に対する不安か。そんな事は分かり切っている。これでリルはアライズの物になる。文字通り、生涯添い遂げる存在となる。それはつまり、人間であって人間ではない時間軸を生きることになる。悪魔の時間軸に人間であるリルを巻き込む事への不安。
だからリルはその目を真っ直ぐに捉え、笑った。心からの笑顔。
「とっくに覚悟は決まってる。」
迷いなんて一つもない。アライズと一緒にいたい、それは小さい頃から変わらないリルの望みだったのだから。アライズだけのリルに戻る時が来たのだ。
「それでも『僕』はアライズが好きだよ。」
アライズの眼が驚きに丸くなる。そして優しく、嬉しそうに微笑んだ。先刻までの不安の色は、もう何処にも無かった。
「…愛してる。」
夜空に響くその呟き。
「僕も、愛してる。」
ごく自然に二人の距離がゼロになる。その唇が触れた瞬間、二人は眩いほどの光に包まれた。それは二人の後ろに浮かぶ満月よりも、もっとずっと明るい光。
唇が離れ、光も収束する。アライズはリルを抱き寄せた。
「…長いぞ、これから先は。」
「じゃあ、楽しみだね。」
その返事にアライズが虚を突かれたようにリルを見つめると、リルは嬉しそうに腕の中からアライズを見上げた。
「アライズとずっとずっと一緒にいられるって事でしょ?」
心からの笑顔を浮かべて、笑いかけるリルにアライズの表情も我知らずと綻ぶ。
「あぁ…、そうだな。楽しみだ。」
二人は揃って夜空に視線を向ける。二人の髪のような漆黒にアライズの眼のような満月が浮かぶ。その明るい色合いの周りで、リルの眼のような青い星々が輝いていた。




