リルの為の和平
人界中が騒がしい。それもそのはず、今日は魔界との和平が結ばれる会談の日だ。王都へと出向ける人間は皆こぞって会談をその目で見ようと集まり、足を運べない者も中継が流れるのを今か今かと待っている。但し、純粋に喜んでいる者は極少数で、多くは今後への期待と恐怖を半々で抱いているのだろう、表情は晴れやかというよりも真剣そのものだ。
和平を結ぶ会談がなされるとお触れが出たのは二週間前。以来、人界は落ち着きを失っている。誰もがこの先どうなっていくのか想像もつかないのだ。
そんなざわついた市井を、璃琉は王城の一室に設えられた窓から見ていた。今までに着た事もないようなドレスに身を包まされ終わったのがついさっき。華美なのは遠慮したいとの璃琉の申し出を受け、今日の為に用意されたドレスはゴテゴテし過ぎないすっきりとしたデザインではあるが、生地の質感から十分に高級品だと伝わってきて緊張せずにはいられない。何となく動いてはいけないような気がして、大人しく窓辺の椅子に腰掛けたまま、外を見ていることしか出来ない。
「アライズはどうしてるだろう…。」
さすがにこんな雑踏の中にはいないだろうが、どこかで会談を見ているのだろうか。術を使えば遠くの様子も窺えるはずだが、しかしアライズがこんな騒ぎに興味を持つとも考えにくい。
人と悪魔が共存の道を歩もうとしている。この事実をアライズはどう思うだろう。喜ぶのか、それとも興味ないのか。璃琉は率直に喜ばしいと思っている。これでアライズや孤児院の仲間たちも、すぐには無理でもいずれは迫害されずに生きていけるはずだ。街中では当たり前のように人と悪魔がすれ違い、話し、笑い合う。そんな未来がそこまで来ている。アライズがしようとしている事が何なのか、璃琉も契架も知らない。アライズにとって、この状況がプラスなのかマイナスなのかも分からない。
その時、部屋のドアがノックされた。
「璃琉様。お客様で御座います。」
「は、はい。」
様付けなど慣れない呼ばれ方に動揺しつつ返事をすると、ドアが開けられ見慣れた人影が入ってくる。
「わぁ、なんか別人みたいだね。」
「馬子にも衣装ってヤツじゃない?」
璃琉のドレス姿を眺める譲葉に、璃琉は溜め息ながら答えた。それでも雰囲気に圧倒されかかっていた気持ちが、解れていくのを感じる。それを知ってか知らずか訪ねてきた友人に言葉にはせず感謝する。
「私は契架と一緒に会談の成功を祈ってるね。」
譲葉が思いを伝えた結果は璃琉の予想通りで、その後の二人はこれまでと変わらないように振る舞っているつもりらしいが、その端々にラブラブさが垣間見える。そんなところも微笑ましい限りだと璃琉は密かに笑みを浮かべた。
「うん。まぁ、私が何かするわけじゃないけどね。」
「そりゃ、調印するのは国王様だからね。でも璃琉も貴重な人界からの列席者じゃない。」
譲葉の言葉に璃琉が小さく唸る。
「それがイヤなんだって…。もともと王女として育てられたわけでもないから、粗相とかしないように必死だよ。」
文句を言う璃琉に、譲葉があれっと声を上げる。
「そういえば、魔界からは誰が来るとか何人来るとか聞いてるの?」
問われて璃琉は目をぱちくりとした。
「あ…そういえば、知らない。確か、魔界に王はいないって聞いたけど…。」
「じゃあ誰が統治してるの?」
「七名家って言って、絶大な力を持つ名家が七つあるとか。」
璃琉の言葉に譲葉が目を丸くする。
「へえ、よく知ってるね。さすが王女様。王様から聞いたの?」
璃琉は緩く頭を振った。
「違う。」
そう、これを教えてくれたのは。
「小さい頃に、アライズから聞いた。」
何も知らずに当たり前に傍にいた。あの頃は知らなかった。人間と悪魔の違い、両者を隔てる溝の深さ。自分の気持ち、アライズの気持ち。何も知らなかったからこそ傍に居られた。何も知らなかったからこそ傍に居られなくなった。
今は多くのことを知った。だからこそ強く思う、会いたいと。
「…きっとこの会談が上手くいけば、会える日が来るよ。」
長年の付き合いからか口にせずとも伝わるのだろう、譲葉が優しい口調で言う。璃琉は頷く事しか出来なかった。
定刻までまもなくとなり、璃琉も会談場として設けられたバルコニーへ移動し、用意された椅子に腰掛けその時を待った。周囲に目を向ければ城の外には見える限りの範囲には隙間無く人々が群がっている。城の中も城内で働く者たちが、少しでも会談を見ようと窓辺に貼り付いている。
対して会談場に用意されている椅子は極少ない。人界サイドには璃琉と国の重鎮数人だけが座り、その背後には三人ほどの青騎士が控えている。会談場の中央に設けられたメインテーブルには王が、そしてその向かいに椅子が一つ。魔界の代表者なる者へ用意された席である。そして魔界サイドには、他の椅子は一つもない。つまり魔界の代表者はたった一人でこの場に臨むということだろうか。その意図は人間など取るに足らないという自信の表れなのか、それとも人間に対する信頼や害意のないことの証明なのか。
人々のざわめきさえも遠くに感じるほどの緊張感が会談場を包んでいる。璃琉が思わずごくりと喉を鳴らしたときだった。
ぶわっとメインテーブルの手前側に一陣の風が巻き起こる。突如として現れた小型の竜巻にも似た風に人々が色めき立つが、璃琉は強い既視感を覚える。
そう、この風は。いや、でもまさか…。二つの相反する気持ちが否応無く璃琉の心拍数を上げていく。
その風が生じていたのはどれほどの時間か。永遠とも一瞬とも取れる時間の中、高鳴る心臓に息苦しささえ覚え、思わず胸元を強く掴んだ時、ふっと風が収まりその中心から人影が現れる。その瞬間、辺りは静寂に包まれた。
大きな黒い翼を背に生やし、足元までを覆い隠す長いローブ。巻き起こった風に揺れるのは長い黒髪。その下で見慣れたフードが今日ばかりは外されている。長身の人影が閉じていた目を開く。長めの前髪の下には満月を思わせる黄色い輝き。
ふわりと風の残滓が収まり髪やローブの揺れが止まると、人影はゆっくりと会談場を見回した。その視線が璃琉の視線とぶつかる。
「…アライズ…。」
璃琉の極小さな呟きは届いてはいないはずだが、アライズが小さく頷いたように思えた。
「悪魔である事を見せ付けるようなご登場とは、恐れ入る。」
アライズに向かって王が声をかけると、それを合図にしたかのように人々の間にどよめきが広がっていった。
「悪魔が和解に来たと伝わりやすい方が良いかと思ったまでだ。」
そのまま長い髪とローブを揺らしながら、会談場の中央に設けられたメインテーブルへと歩み寄った。
「静粛に!これより人界と魔界の和平会談を執り行う!」
開始を告げる大臣の声に、人々の間に広がったどよめきはさざめき程度へと収まっていった。
会談が粛々と進んでいく。長きに渡った人間と悪魔の争いの歴史に、今まさに終止符が打たれようとしている。
しかし璃琉はそれどころではなかった。会談を進める大臣の声も人々のざわめきも、まるで耳に入らない。周囲の景色も調印を待つ書状さえも目に入らない。ただただその視線はアライズへと固定されている。
数年ぶりに見るその姿は、しかし記憶にある幼少期の頃からほとんど変わらない。微かな風に揺れる黒髪も伏し目がちな黄色い眼も裾の長いローブさえも、記憶から切り出したようにそのままだ。常に被っていたフードを下ろしている事だけが、唯一の違いと言えるだろう。時折聞こえてくる声が耳に届くたびに、心臓が締め付けられるように苦しくなる。
アライズしか見えない。アライズの声しか聞こえない。今すぐにでも駆け出して、幼いあの日のようにその胸に飛び込んでしまいたい。強い切望に視界が潤んだまま戻らない。
ようやく分かった。アライズが何を成そうとしていたのか。人間と悪魔の和解。その為にもうずっと奔走していたに違いない。どういう手段を用いたのかは分からないが、魔界の代表の地位を手に入れ、魔界と人界の権力者に話を持ちかけ、そして了承させたのだ。それがどれほど偉大な事でどれほどの労力が必要だったのか、少しばかり王女としての教育を受けたおかげで璃琉にも痛いほど分かる。
そして思う。自分がいかに無力で何もしてこなかったのか。アライズと一緒にいたいと口にしたところで、その為に何かをしようなどと思ったことも無い。つくづくその腕の中で守られていただけなのだ。きっとアライズはあの晩以前からこの日の為に手を尽くしていたに違いないのに。
もし、この先アライズの傍にいることが許されるのならば、変わらなければならない。守られるだけじゃない。アライズを守ると宣言した幼いあの日。その気持ちは今でも変わらないのだから。アライズを本当に守れる自分になるのだ。強く強く覚悟を決める。
璃琉が見つめる先で、国王とアライズが書面にサインをし、捺印をした。アライズが、悪魔が印を押す瞬間を人々は静まり返って見つめる。印が紙を叩く僅かな音さえも辺りに響き渡るようだった。そしてアライズと国王が共に書状を持ち上げ示す。
「ここに人界と魔界は平和条約を結んだ事を証明する。今後、両者によるいかなる諍いも起こす事はならない。」
国王は決して声を張り上げたわけではないのに、その声は何処までも真っ直ぐに届いた。押し掛けた国民たちは誰もが目の前で結ばれた和平に驚きを隠せず、唖然とする。しかし徐々にそこかしこから様々な声が聞こえてくる。驚き、歓喜、不満、怒り。それらは長く両者を隔てて来た溝の深さそのものを現しているようにも思えた。
「…様々な意見や感情があることだろう。」
アライズがポツリと言う。
「だが、少しずつでも真の共存が出来る日に近づけるよう、我々は努力を惜しまないつもりだ。」
そこでアライズは国王を真っ直ぐに見つめた。
「どうかその日の為に力を貸して欲しい。人と悪魔が共に歩んでいけるよう。」
その目に宿る真剣な輝きに、璃琉に向けられたわけでもないのにドキッとする。国王はその眼差しを真っ直ぐ受け止める。
「あぁ、分かっている。そのつもりが無ければ、このような書状に印は押さぬ。」
その返事にアライズはふっと口の端に笑みを浮かべると、書状から手を離す。そして向けられた視線は今度こそ、璃琉を真っ直ぐに捉えていた。
一つ、心臓が大きく音を立てる。静かにこちらへ足を進め始めたアライズの姿に、璃琉はいても立ってもいられず席から立ち上がった。そんな二人の様子に、王は小さくほぅと呟き面白そうに目を細めた。
二人の間はほんの僅かな距離なのに、アライズが近付いてくる時間は途方も無く長く感じた。なのに璃琉の身体は立ち上がったきり、凍りついたように動かない。この先の状況は自分が思うままなのかどうか。期待と不安で身動きが取れなかった。
歩みに合わせて揺れるローブと長い黒髪。満月を思わすその目には穏やかさが見える。その表情で分かった。この和平はリルの為のものだと。リルの為にアライズは多くの苦難を越え、この日を実現させたのだ。
アライズが璃琉の前で足を止めた。璃琉の顔を正面から見つめ、泣きそうな表情を浮かべる。
「待たせてすまない、迎えに来た。」
その一言が頭の中で意味を持つと同時に、堪えようのない涙が璃琉の頬を伝う。
「…アライズっ…!」
その感情のまま璃琉はアライズに抱き付く。幼いあの日のように、何も悩むことなくその腕の中へと飛び込んだ。アライズもしっかりと受け止め、何年振りとも知れぬ愛しい少女の体温を感じた。アライズの体温の低い手が、璃琉の黒髪を優しく撫でる。その感覚にどちらも言いようのない幸せを感じていた。
「もう二度と離さない。…構わないんだな…?」
アライズの声の中に僅かだかはっきりとした不安を感じた。璃琉は安心させるように、潤んだままの目に穏やかな笑みを浮かべる。
「…はい。」
長かった、ここに辿り着くまでの日々。一人きり走り続けてきたアライズに、先ほどの覚悟と共に今度こそ寄り添うのだと強く決めて。璃琉の表情にそれらを読み取ったのか、アライズの瞳の奥に揺れていた不安がそっと掻き消された。アライズも璃琉と同種の笑みを浮かべる。
そしてそのままアライズの顔が近付いてくる。璃琉が赤面するより早く、頬に柔らかく温かな感触が触れた。
「…逃げなかった君が悪い。」
それは一瞬の事で、頬にキスしたアライズがそのまま耳元に小さく囁いた。何が起きたのか璃琉が理解できたのは、アライズの顔が離れた後で、その笑みをポカンと見つめていたがすぐに顔中に血が上ってくるのを感じる。見る見るうちに璃琉の顔が真っ赤に染まっていく。しかし何かを言おうにも、口がパクパクするばかりで言葉が出なかった。
そんな璃琉の様子にアライズは楽しげなあるいは嬉しげな笑みを見せると、そっとその肩を抱いたまま国王へと向き直った。
「…そういうわけか、なるほどな。」
そんな二人の様子に王が言葉を投げてくる。冷静にあたりを見渡せば、他の参列者や城の方々から会談を覗いていた家臣たち、それに国民たちも皆、唖然とした表情で固まっている。唯一王だけが得心がいったというように頷いていた。その状況に気付き、璃琉の顔はますます赤くなる。
「今後の人生、リルと共に歩んでいきたい、そう強く願っている。許可は頂けるだろうか。」
璃琉の肩を自らの方に引き寄せながら、真っ直ぐに国王へと問いかける。その言葉は璃琉の気持ちと同様ではあるものの、そんな率直に口にされるといよいよ顔から火が出そうになり、璃琉は国王を直視できなかった。
国王は真っ赤な顔で俯く娘をしばし見つめ、フッと小さな笑いを漏らす。
「それは和平をこちらが反故出来ぬように、人質を取るという事か?」
投げかけられた言葉に璃琉は頭に上っていた血の気もサッと引き、驚いて顔を上げる。そんなわけがないと叫ぼうとして息を吸いかけたところで、国王の顔に浮かんでいるのが怜悧な鋭さではなく、状況を面白がる笑みであることに気付く。
「そんなわけがない。」
璃琉を引き寄せたままのアライズが、璃琉が口にしようとしたままの言葉を口にしたことに、言いようのない嬉しさがこみ上げてくる。二人の意志は同じであるのだと感じる事が出来る。
「人質などとは考えてもいない。そんな事は関係なく、リルを愛している。」
その瞬間、辺りに流れた静寂はとてつもない緊張か、それとも途方も無い感動だったのか。集まった聴衆すらも黙する中、国王が小さく呟く声が響き渡るように聞こえた。
「そうか、璃琉の為の和平か。」
国王はゆっくりとした足取りで二人に近付いて来ると、アライズに向かって手を差し伸べた。
「案外、私たちは似た者同士なのかもしれないな。」
「何?」
王の手に答えるように伸ばしかけたアライズの手が、思わぬ言葉に止まった。
「璃琉は母似だからな。女の好みが良く似ているのかもしれんと思っただけだ。」
からかうような笑みを浮かべる王の顔をしばし見つめた後、アライズは止まっていた手を伸ばし握り返しながら、ぼそりと呟く。
「そなたにも十分似ていると思うが。」
「ほう?その意見は興味深いな。」
握手を交わす二人の間に流れる空気に刺々しさはなく、むしろ言葉の応酬を楽しむような様子に、集まっていた人々は思わず毒気を抜かれた。そんな中、璃琉だけが顔を赤らめたまま、何処となく気まずそうに二人のやり取りを見ていた。




