心配してくれる存在がいるということ
そこからの日々は本当に多忙を極めた。リザルドや仕えていたセルリアの親たちでもここまで忙しかったことは無かったと思う。
ゆっくりと目を開けたアライズはいつの間にか寝ていたのだと思った。寝てる暇など無いのにと思ったところで異変に気付く。視界に入るものがベッドでも政務机でもない。何故か政務室のカーペットだ。ちゃんと寝たのならベッドで目覚めるだろうし、うたた寝をしていたのなら政務机に就いているはずなのに。この状況に至るまでの記憶がはっきりしない。
緩慢な動きで体を起こすとあちこちに痛みが走る。自身の周囲には幾つもの書類と資料が散らばっている。時計を見ると時刻は深夜、窓の外は闇に染まっている。その様子を見ながら痛む頭に手を当てながら状況を整理していく。
手近に落ちていた書類を拾い目を落とすとこれから処理しようとしていたものだと分かる。続いてやはり比較的近くにあった資料を手に取る。書類を処理するに当たって必要な情報が記載されている。
そこでようやくアライズは何があったのかを思い出した。
次に処理する書類に必要な資料があり、書類片手に書庫に取りに行ったのだ。
いつもならセルリアに取ってきてもらうのだが、いつまでもアライズに付き合って仕事をしようとする彼女に「早く休め」と言い夕食後は自室へ帰した。「それならアライズ様も今日は終わりにしてお休みください」と部屋を出る直前まで言い張っていた彼女に資料を取ってきてくれなどと頼むことは出来ない。
自ら書庫へ赴き、書類を確認しつつ目的の資料を幾つか取って政務室へ戻ってきた。その時酷い目眩に襲われたのだ。視界が狭まり耳鳴りが大きくなっていく中、さすがにマズいなとは思ったが椅子に座れば何とかなるだろうと思い直し、どうにか政務机へと向かった。つもりだった。
しかし現状から察するに机へ辿り着くより先に意識が飛んだのだろう。散らばった資料と書類はそのせいだ。体のあちこちが痛むのも倒れた時にぶつけたに違いない。頭痛はまぁ、寝不足や疲れのせいか。
はぁと溜め息をつくと緩く頭を振ってから立ち上がり、まだややふらつく足で書類と資料を拾い集め今度こそ政務机に戻る。
「倒れるとは思わなかったな…。」
頭を押さえながら小さく呟く。そのままちらりと今しがた拾った書類に視線を向ける。続いて机上に積まれている他の書類の山を見る。
昼間は各所へ説明や説得に赴かねばならない。書類に手をつけられるのは日暮れ以降だけだ。和平の為の仕事以外にも七名家としての仕事ももちろん滞りなく進めなければならない。
アライズは再び揺れそうになる視界をブンブンと頭を振ることで強引に治めるとペンを手に取った。
政務室にノックの音が響き、アライズは書類から目を上げた。
「アライズ様、もう起きていらっしゃるのですか?」
入ってきたセルリアの言葉にアライズは背後の窓へちらりと視線を向ける。いつの間に日が昇ったのか朝になっている。
「…あぁ。」
寝てませんとは言えずセルリアの言葉に乗っかる事にしたが、その顔を見るなりセルリアの目つきが厳しくなる。
「お休みくださいと言ったではありませんか!」
嘘は瞬間的にバレた。何をもって寝てないことが分かったのだろうかと、急に書類から引き戻されボーッとした頭で考える。
「こんな日々を続けていたら倒れますよ!」
既に昨晩倒れましたとも言えるはずがない。
「…多少は寝たから問題ない。」
寝たと言うよりは意識を失ったと言うのが正解ではあるが。
「問題ないようなお顔ではありません…。」
セルリアの声のトーンがあまりにも落ちたので、アライズは彼女へ視線を向ける。するとセルリアの酷く心配げな視線とぶつかった。
「…大丈夫だからそんな顔をするな。どうせ悪魔は忙殺されても死にはしない、心配はいらない。軽くシャワーを浴びてくる。」
立ち上がってセルリアの元まで歩き、その肩を労るようにそっと叩くと出来るだけ優しくそう告げ、政務室を出た。
ツヴァイラは珍しく僅かばかりの罪悪感を抱きながら、自室の扉を開けた。立場や年齢も手伝って日頃は客人を待たせたくらいでは申し訳無くなど思いもしないが、流石に今日は待たせ過ぎた。こちらも急に入った外せない用だったから仕方ないと言えばそれまでだが、今は特に多忙を極めているであろう相手であることや、きちんと事前に面会の申し入れを行い訪ねてきた事などを考えると、いかにツヴァイラであろうと仕方ないと開き直れはしなかった。
「すまない、待たせたな。」
部屋に入るなり応接用のソファに腰掛けた後ろ姿に声を掛けるが反応が無い。まだきちんと関わるようになって日は浅いが、少々不遜なところはあれど、決して慇懃無礼な訳ではない事は分かっている。どうした事かとソファの正面に回ると、目深に被ったフードの奥でアライズが寝ていた。ツヴァイラが入って来た事にもまるで気付いていないようで、身動きさえしない。少しばかりその顔を覗き込むと、穏やかとは言い難い寝顔に疲労の色が濃く浮かんでいる。
「…まぁ、そうだろうな。」
ツヴァイラは小さく呟くと自分の執務机へ腰掛け、仕事に取り掛かった。他人をあまり得意としないのだろうアライズは人の気配に敏感なように思うが、自分の家でもないこの場所でツヴァイラが戻っても気付かないというのは余程疲れているのだろうと察しが付く。老婆心かもしれないが、せめて気が付くまでは休ませてやろうと思ったのだ。ちらりと覗うその寝顔は普段の表情より幼く見え、今は亡きアライズの両親の面影を感じた。
カタンとペンがテーブルに置かれる音でアライズは意識を引き戻された。
「…ん…。」
窓から差し込む日差しは既に夕暮れ時のそれだった。次いで室内の様子から自室でない事に気付く。
「目覚めたか。」
声を掛けられ、ようやくアライズは自分の状況に気付いた。ツヴァイラに代表会議の日程を伝えるためにディストゥリクト家を訪れ、急用で出掛けたという彼女を待っている間にどうやら寝てしまったらしい。
「申し訳ありません、ツヴァイラ様。」
慌てて立ち上がり頭を下げるが、ツヴァイラは気にした風でも無く執務机からアライズの向かいの応接用ソファに移動し腰を下ろすと、アライズにも座るよう目で促した。
「別に気にするな、元々待たせたのはこちらだしな。」
そう言ってメイドを呼び出すと二人分の紅茶を用意させる。それらがテーブルに並び、メイドが退室するとツヴァイラは小さく溜息をついた。
「だいぶ疲れているようだな。ちゃんと休んでいるのか?顔色が悪いぞ。」
湯気を上げるカップを持ち上げながら、呆れと心配が半々の様子で問い掛けてくる。アライズは俯き苦笑を浮かべた。
「あまり…、今はやらねばならない事が多くて。」
そんなアライズの様子に、思わずため息が零れる。
「そんなに自分を追い込んでまでも、人界と和平を望むのか。」
ツヴァイラとて和平に反対な訳ではない。むしろ追放された娘を思えば、気持ちは賛成に近いものがある。だがそれでも悪魔の持ち時間は長い。身を粉にしてまで急がなくても良いのではないかと思うのだが、アライズは俯いたまま緩く頭を振った。
「絶好の機会は今しかないのです。」
そこでふとツヴァイラは疑問が湧いた。
「何故、今なのだ?」
「この切り札は今の人界の王にしか届かない。」
「ほぉ…切り札、とな。」
無論、和平などとんでもない話を推し進めるからには何かしらの鍵を持っているだろうとは思っていたが、事ここに至るまでその話題に触れたことは無かった。興味を抱いたツヴァイラが聞かせろという姿勢を示したことに、言葉は無くともアライズは気付いた。
「…ツヴァイラ様は人界と和平を結ぶ際、最も難しい事は何だと思われますか。」
顔を上げずにテーブル上を見つめたまま、アライズが呟くように問うた。ツヴァイラはカップを戻し、足を組みながらふむと考える。
「最も、か。…人界側の王がどれほどこちらを信用してくれるか、信用に足るだけの証拠を示せるか、だろうな。」
「我もそれだと思っています。…魔界側の問題はこうして我がディスカナンに戻れた事で、ある程度クリアしたと言えるでしょう。」
アライズは顔の前で両手を組むと、そこに額で寄り掛かる。
「もちろん、本当の説得は此処からですが、今の七名家当主であれば聞く耳は持ち合わせておられる。…少々時間はかかるでしょうが説得出来るものと考えております。」
ツヴァイラはアライズの洞察に興味深そうな視線を向けるが、アライズは目を合わせる事無く続ける。
「ですが、人界の王となると話が違う。我ら悪魔がほいと尋ねたところで会わせてももらえないでしょう。また極秘裏に王を訪ねたところで人界には青騎士がいる事からも分かるよう、彼らにとって悪魔は敵です。どんな話であろうと聞く耳を持ってもらえない。仮に聞いてもらえたとて、何かしらの裏があると思われるでしょう。前向きに検討など有り得ない。」
そのくらい両者を隔てる溝は深い。
「…ですが、たった一つだけ、今の人界の王になら我に悪意が無いと信じてもらえる切り札がある。」
アライズは言葉を切って、窓の外へ視線を向けた。今は遠くにいる愛しい少女を思い浮かべる。
「我が人界で暮らしていた悪魔の森と呼ばれる森に捨てられていた赤子がいました。気紛れに我が拾い、育てた人間の少女…リルは、人界の王の娘なのです。」
その言葉にツヴァイラは珍しく目を瞠った。
「お主…、狙ってやっているのか?」
アライズは思わず苦笑を浮かべると、緩く首を振った。
「まさか…。たまたま街の片隅で拾ったハーフが貴方のお孫さんで、たまたま森の中で見つけた捨て子が人界の王の娘だっただけです。」
再び俯いたアライズにしばし怪訝な視線を向けていたが、やがてツヴァイラは溜息と共にソファの背もたれに寄り掛かった。
「私の孫と人界王の娘を偶然に拾うとはな…。」
「…彼女が王の実子であると王自らが述べられた。この事から王は彼女の存在を大切に思っているだろうと考えられます、彼女の存在が疎ましいなら発表などしないでしょうから。また、彼女を見てもらえば真っ直ぐに成長した事は分かってもらえるでしょう。そうであれば、彼女を育てた存在に、人間に対する悪意が無い事が分かってもらえるのではないか…、と考えております。」
元々魔界と人界で和平を結べれば世の中は変わるかもしれない、とは思っていた。だが自分は魔界から追放され、人界に対しても何一つ信用を示せるものはない。到底絵空事だと諦めていた。
しかしあの日、譲葉からリルが人界の王の娘だという話を聞いた時、もしかしたら実現できるのではないかと思ったのだ。この手で育てた彼女が人界の王への切り札になりうるのであれば、自分が取り返すことを放棄していた当主の座に戻ることで絵空事も現実としえるのではないか。リルが魔界と人界を繋ぐ架け橋となってくれるかもしれない。その結果が彼女に幸福をもたらしてくれる事を願って、アライズは動くことに決めたのだ。
「ですから、事は今進めなければならない。人界の王が変わってしまえば、この切り札に意味など無くなる。また王のリルに対する関心が薄れてしまっても同じです。この絶好の機会を逃すわけにはいかない…。」
疲れた顔の奥でその目には確かな強い輝きが秘められている。もう遠い昔に同じ輝きを見た事をツヴァイラは思い出した。
「本当によく似ているな。」
「…え?」
アライズが急な呟きにようやく顔を上げた。
「お主の父に、だ。同じ目の輝きをしている。…最も顔の造りは母似だが、目はお主の父そのものだな。」
似ているのだろうか。昔から他人が苦手だったので、そんな事を言ってくる相手と関わったことが無い為、自分では分からない。
「…これと決めたことを貫く為になら、自分を全く省みないところも父そっくりだ。もう少し自分を大切にしたらどうだ。」
ツヴァイラから向けられた思わぬ言葉にアライズが目を丸くする。その視線はやはり呆れと心配が込められている。
「自分を大切に…、ですか…?」
面食らったような表情で呟くアライズの様子に、ツヴァイラは溜め息をつく。
「…お主を案じて止める親を早くに亡くしたせいか?」
その言葉にフードの下でアライズの眼が見開かれる。
「身の回りにいる者たちは休むように進言はしても、無理矢理にでも休ませようとするものはいなかろう?」
確かにセルリアに「少しでもお休みください」と言われることは多いが、強引に仕事を切り上げられるような事は無い。無論、彼女もそうしたい気持ちはあるだろうが、主従関係であるアライズにそのような真似は出来ないだろう。
同じようなことは人界にいた頃、契架ともあったような気がするが、セルリアや契架の言葉に分かったと返しはするものの実際に従った試しは一度も無い。
「お主より上の立場の者が身近にいないせいだろう?無茶ばかりしておる。いくら悪魔が過労で死なぬとはいえ、お主を案じる者の声にももう少し耳を傾けたらどうだ。」
彼らがしてくる度々の進言がアライズの身を案じて言っているのだとは分かっていたが、自分の事は自分の裁量で判断してきた。
そうさせなかったのは晴人だけだった。晴人にはどれだけアライズが平気だと言っても、強制的に休ませられた。あれは過保護だと思いつつもどこか嬉しかったのもまた事実。ああいったものが親から与えられる愛情の形の一つなのだろうか。両親と過ごした遠い記憶を手繰ってみるが、既に時の流れの中で淡い記憶となってしまい詳細は思い出せなかった。
俯いたまま固まっていたアライズだったが、不意に額を押され、ソファの背もたれに倒れこんだ。
「何を…?」
いつの間にか目の前に立っているツヴァイラに驚いて尋ねながら体を起こそうとしたが、再び額を抑え込まれる。無論抵抗して身を起こすことは不可能ではないが、ツヴァイラの老体から込められるには意外なほどの力に逆らえなかった。それはひょっとすると物理的な力というよりはツヴァイラ自身が持つ圧力のような物なのかもしれない。
「お主の付き人に連絡しといてやる。少し寝ていけ。そのままでは本当に倒れるぞ。」
「しかし仕事がまだ山積みに…。」
「黙っていろ。そんな疲れた顔でよく言うわ。」
ツヴァイラの呆れたような冷たい言葉の奥に確かな心配の色を感じる。恐らく縁があったという両親の代わりに言ってくれているのだろう。
「ですが…、寝ろと言われて寝れるものでも…。」
先ほどは意識しないうちに寝ていたが、この状況からおいそれと寝れるほど図太い神経は持ち合わせていない。
「分かっておる。」
ツヴァイラが短く答えると、アライズに手を向け何事か小さく言葉を呟く。すると淡い色の光がアライズに向かって放たれる。何かしらの術だ、とアライズが気付いたのとほぼ同時にその意識は拡散してしまった。
「…寝たか。」
手を下ろしフードの下を覗き込むがアライズが反応する様子はない。ツヴァイラは向かいのソファに戻りながら指をパチンと鳴らす。するとアライズの体がすっと浮き上がり、ソファに横たえられた。
アライズ自身は何らかの術で眠らされたと思っているだろうが、実際にツヴァイラが行ったのはほんの少しばかり眠気を誘う術に過ぎない。そんな些細な睡魔でさえ抗えないほど、本人は無自覚なようだが、大分疲れているのだ。
「…しばし休むがいい。」
恐らくあの二人、リザルドとミーティアならこうしただろう、という事を今は既に出来ない二人の代わりに行ったに過ぎない。
「お主らの子供は無理が過ぎるぞ。」
これも何かの縁なのだろう。二人が見守ってやれない代わりは務めてやろう、ここ最近の付き合いの中でそんな心持ちになっていたのだ。
「…私も年を取ったな。」
以前なら他人などに興味は無かったが、いつの間にかいらぬ世話を焼くようになっていたようだ。あの二人の、特にミーティアの忘れ形見だ、ほっておくわけにはいくまい。
平穏とはお世辞にも言い難い道をたった一人で歩いているのだ、時には誰かが手を差し伸べてやらなければ、本当に人知れずに倒れてしまうだろう。そんな危うさを感じる。
残っていた紅茶を飲み干すと、ツヴァイラはソファを離れる。連絡しておくと言った手前、ディスカナン家に連絡を入れねばと執務机へ向かった。




