ディスカナンの当主
「…大分、かかってしまったな。」
もうこの場所へ来るのも何度目とも知れない、魔界へ続く門の付近へと転移してきたアライズは、砂っぽい風に眼を細めながら一人呟いた。
突然のリルとの再会と思いがけない告白を受けたあの夜から早数年。アライズ自身の見た目にはやはりさしたる変化も無いとは言え、自身を取り巻く環境はこれだけの歳月を費やしてようやく大きく変えることに成功した。
胸元に入っている書状は全部で六枚。これら一つ一つを得る為に行ったあれこれはもう正直、思い返したくも無いほどの労力を必要とした。だがこれでようやく大きな第一歩。リルに約束した「幸せ」を現実のものとする為に欠かせない布石。
「まだリルは、我の事を…。」
その先は言葉にすることが出来ない。本当に待っていてくれているのか、その答えを知りたいとも思うし、知ってしまうのが怖いとも思う。あの夜以来、譲葉からもリルの話を聞くのはやめた。契架は何かしら聞いているのだろうと思うが、アライズの心情を慮ってかリルの話はしてこない。
しかしそれでいい。これが成功するのなら、それはリルが待っていてくれてもくれなくても、彼女の人生に幸せをもたらす事は出来るはずだから。
今にも壊れそうな儚い希望とあの夜の覚悟を胸に抱いて、アライズはフードを目深に被りなおすと魔界への門へと足を進める。今日はこの六枚の書状を持って、遂に水面下で進めていた事を明るみへと引き出す大きな転機となる。同時にアライズ自身の器を試される日だと言ってもいいだろう。
「…必ず、成し遂げてみせる。」
そう呟き、ディストゥリクト家当主ツヴァイラから長らく借りっ放しになっているカードを取り出す。これで門を通るのも今日が最後になる。
流石にこの場所に立つと様々な感情や記憶が込み上げてくるものだ。アライズは目の前の大きな屋敷をしげしげと見つめそう思う。かつての我が家、両親と過ごした温かい思い出の地。そして今はそれを奪い取った叔父が暮らすディスカナン本家。追放された日の怒りがこうしているだけで青い炎となって胸の中に燻る。しかし自分が年を重ねたせいか、それだけではない複雑な感情も覚えていた。
緊張はあれど恐怖は無い。取り返してみせる。ただその覚悟だけが今日の自分に必要な物だ。
胸に去来する様々な感情をゆっくりと落ち着かせると、アライズは覚悟と共にフードを剥ぎ取った。そして遂に足を踏み入れる。追放されたあの日以来となるディスカナンの地へ。
玄関扉を無断で押し開け屋敷に踏み入ると、丁度掃除をしていたメイドが酷く驚いた表情でこちらを見た。
「あの、どちら様でしょうか?困ります、そのように押し入られては…。」
年若いメイドの顔に覚えは無い。ヴィハイドが新しく雇った者なのだろう。
「我の名はアライズ。アライズ・トレスフィア・リズラヴァーゼ・ディスカナン。叔父上に用がある。」
アライズが鋭い視線を向けそう言うと、メイドは更に困惑した表情を浮かべる。
「え、あの、ディスカナンって…、叔父上とは…?」
「そなたには関係ない。また誰の許可も不要だ。」
正直、こんなところでメイドに構って浪費する時間がもったいない。困惑したままのメイドに冷たく告げると、アライズはそのまま屋敷の中へ踏み込んだ。
ヴィハイドがいるのは当主の政務室だろう。あの部屋がこの屋敷で一番「当主」という実感を得られる部屋なのだから。アライズの足は淀みなく進む。調度品こそヴィハイドの好みに替えられているが、間取りや構造はアライズがいた頃と変わっていない。迷うはずも無かった。
程なく辿り着いた政務室の前で、ようやく足を止めると深呼吸を一つ。あのメイドが誰かに何か言いに行ったのかは知れないが、此処に着くまでに誰の邪魔を受けなかったのは、玄関から政務室までの最短ルートを記憶していたからであろう。そしてこの中へ入ってしまえば、メイドだろうが衛兵だろうが、強引に踏み入って捕らえに来る事も出来ない。それが七名家当主の政務室と言う物だ。人の出入りは限られている。そんな部屋の扉をアライズは無遠慮に開け放った。
「誰だ!?ここは当主の政務室だぞ!」
案の定、政務机の重厚な椅子に腰掛け窓の向こうの広がる景色を眺めていたのであろうヴィハイドが物凄い剣幕で叫ぶ。例え筆頭秘書であろうとノックも無しにこの扉を開けることは許されていないのだから。しかしアライズにそんなものは必要なかった。
「…お久しぶりです、叔父上。」
「なっ…お前…っ!?」
アライズの姿が目に入るとヴィハイドは驚きのあまり椅子から転げ落ちるように立ち上がる。その目の見開かれようが、信じられないという感情をこれ以上に無いほど伝えてくる。
「何故、お前が此処にいる!?追放したはずだ!」
バァンと盛大な音を立てて、怒りのままに机を叩きつけるヴィハイドに対して、アライズはゆっくりとした足取りで政務机に近付く。
「確かに。貴方の根回しによって我は追放された。」
怒りで拳をブルブルと震わせるヴィハイドに対して、アライズはあくまでも冷ややかな態度を崩さない。
「だが今度は我の番だ。貴方からディスカナンを取り戻す。」
辺りの温度さえ下がったように思えるほどの冷たい声で言い、アライズは胸元から取り出した一枚の書状を政務机上に突きつけた。
「今更、何だと言うのだ!」
ヴィハイドはアライズを一睨みしてから、机に置かれた書状を荒っぽく手に取る。その内容を読み進めるにつれ、見る見るうちに憤怒の色に染まっていく。
「私をディスカナン当主の地位から罷免するだと…!?ディストゥリクトめが!」
読み終えた書状を力いっぱい机に叩きつける。
アライズが出したのはディストゥリクト家当主印の押された、ヴィハイドをディスカナン当主から罷免するという決定書だった。無論、ツヴァイラ本人への度重なる説得により得た物である。ツヴァイラはアライズのしようとしている事を理解し、同意を示してくれたのだ。
「やはり、お前の追放の書状に印を押さなかった唯一の名家はロクでもない…!」
しかし、そこでヴィハイドは一つの事に気付く。それと同時に表情にはいつしかと同じ勝ち誇ったような笑みが浮かぶ。
「だがこんな紙切れ一枚では、私をどうこうする事は出来んぞ!魔界の原則は七名家の半数以上の承認だという事も忘れたか!」
得意げな表情でアライズを睨んでくるヴィハイドに、アライズは冷めた一瞥を送ると続けて数枚の書状を取り出す。
「貴方は全く変わっていないのだな…。」
侮蔑とも憐憫とも取れるトーンで小さく呟き、残りの書状もさっと机に並べた。
「これで文句はあるまい。」
「なっ!?」
途端にヴィハイドの顔色が一気に青ざめる。
机に並んだのは先ほどの書状と同じ作り、同じ内容の書状が五枚。それぞれに違うのは各名家の当主の名前と印、そして家紋だけ。七名家中ディスカナンを除く六名家の罷免状に他ならなかった。
「これは…、どういう事だっ!?」
怒鳴るヴィハイドの青ざめた顔は、再び怒りによって紅潮していく。
「見たままだ。貴方が卑劣な方法で当主の座に納まった事、当主に就く為に必要な教育や秘術等何も会得していない事、我が当主としてディスカナンに戻った際にしようとしている政策。その全てを真剣に訴えた結果、各名家とも貴方の罷免と我の追放取り消し、並びにディスカナン当主就任に同意してくれたまでだ。」
アライズはどこまでも冷静な態度のままそう告げる。続いて取り出したのは今口にしたようにアライズの追放取り消しの書状と、ディスカナン当主として認める書状。いずれにも六名家分の証印が押されている。
「何だと…!?お前、どんな汚い手でこんなものを…!」
「貴様と同じにするな!」
アライズが初めて怒鳴った。その剣幕にヴィハイドの肩がビクッと揺れる。
「汚い手など使うものか。あるがままに誠意を持って対応したまでだ。」
最初からアライズを受け入れてくれた名家など一つもない。ツヴァイラの対応は一番好意的だったが、各名家の最初の対応は酷い物だった。それでもアライズは諦めず、何度も足を運び冷静にけれど必死な訴えを続け、何とか話しを聞いてもらえるように漕ぎ付け、そこから途方も無い時間を掛け一人ずつ説得をしていったに他ならない。
全ては魔界と人界の為、今は亡き両親の為、大切なディスカナンの家の為。そして何より、たった一人の愛しい少女の為に。
「魔界の原則は七名家の半数以上の承認。忘れたわけではあるまい?」
「ぐ…っ。」
先ほど自分が口にした言葉をそのまま返され、ヴィハイドは言葉に詰まる。
「だがあくまで追放はしない。荷物をまとめて郊外の屋敷に戻るがいい。」
「調子に乗りおって…!」
ヴィハイドは剣呑な目付きでアライズを睨みつけると、そのまま室内に控えていたメイドへ向かって叫んだ。
「今すぐセルリアを連れて来い!当主が呼んでいると言え!」
その怒鳴りように慌てたメイドが小走りで部屋を出る。すると程なく丁寧なノック音が響いた。
「入れ!」
再度怒鳴るように言うヴィハイドの声に続き、物音も無く扉が押し開かれる。
「お呼びでしょうか?」
さすが七名家筆頭ディスカナン当主の付き人であると思わせるだけの優雅さと丁寧さを持って頭を下げながら入ってきたセルリアは、顔を上げると同時にそこにいる人物に気付き目を瞠った。
「アライズ…様…。」
セルリアの小さな呟きに、アライズは微かに笑みを返す。
「セルリア!そやつを摘み出せ!そやつは追放された身でありながら、私を罷免しに来た狼藉者だ!今すぐ魔界から追い出し、ディスカナン当主の権限を持って、二度と踏み入れさせるな!」
そもそも六名家の証印が揃っている以上、罷免状は既に有効なのだが、あまりの怒り故にかヴィハイドは無茶苦茶を言っている事にも気付いていないのだろう。
「それでは、まさか…?」
セルリアがアライズを見つめながら核心には触れない問い方をすると、アライズはしっかりと頷いた。瞬間セルリアの表情が綻び、そしてすぐに凜とした仕事の顔になる。そのまますっと政務机に歩み寄った。
「我が主よ、どうぞご指示を。」
さっと頭を下げる様子に、怒りに釣り上がったヴィハイドの眉が寄せられる。
「だからそいつを摘み出せと…!」
「そうだな…。とりあえずこの屋敷に本来あるべきでない物を全て、郊外の屋敷へ送り返す手配をしろ。物も人も、な。」
そう言って、アライズが冷たい視線をヴィハイドに送る。
「了解しました。」
セルリアは迷わず返事をし、アライズの隣に並び立つ。
「セルリア、お前…っ!」
ヴィハイドが怒りに身体を震わすが、セルリアは動じなかった。
「我が主は正統なるディスカナン当主、アライズ様です。貴方ではありません。」
「何だと…!」
ヴィハイドの握った拳がぶるぶると震えている。
「貴様、いい加減にっ…!」
怒りのままにセルリアに向けヴィハイドが振り上げた拳を、アライズがすかさず伸ばした手で押さえ込む。
「いい加減にするのは貴様の方だ!」
静かな屋敷内にアライズの声が響く。その声にヴィハイドの顔色がはっと変わった。
「もう一度言う。既にこれらの書状は有効だ。貴方は当主などではない。」
アライズは振り上げた形のまま止まっていた腕をまだ離さずに静かに下ろす。
「自らがしたことは自らに返る、それだけだ。…郊外の屋敷へ戻ってくれ、叔父上…。」
そして言葉と共にそっと腕を離した。
「…貴方の過去は父上から聞いている。」
アライズがポツリと呟くように言うと、ヴィハイドの表情がハッとなった。
「もともとは祖父の愛人の子で、ディスカナンの事など何も知らずに育っていた事。父上の結婚に見切りをつけた祖父が強引に、貴方の母と引き離して連れてきた事。次期当主になる為と言われ続け、その為だけに我慢してディスカナンに留まっていたにも関わらず、結局当主の座に就けなかった事。そんな日々の中で少しずつ貴方は変わっていってしまったと。…全て父上から聞いた。」
アライズは俯きながら先を続ける。
「…自分たちが悪かったのだ、と父上は言っていた。自分も祖父も勝手過ぎたと。誰もが自分の事で手一杯で、誰も貴方の気持ちにまで向き合わなかったから、こんな関係になってしまった。もっと貴方が連れてこられた当初のように、自分だけでも貴方に寄り添うべきだったのに…と、後悔されていた。」
その時、ヴィハイドの目にはアライズの姿がリザルドに見えた。
「すまなかったと、いつかちゃんと謝れたら。もし今からでも遅くないなら、今度こそ兄弟として歩んで行きたい…。そう言っていた。」
ヴィハイドはしばし呆けたよう宙を見つめていた。
やがて机上の書類を荒っぽく手に取ると、同じく荒っぽい動作で扉へ向かった。扉を押し開けたところで不意に足を止め、しかしアライズたちを振り返りはせずに口を開く。
「…謝罪などはしない、私は私が望んだ事をしたまでだ。お前にも兄上たちにも悪かったとは思わない。」
その言葉にセルリアが少々むっとした表情を浮かべ何かを言おうと踏み出すが、アライズは表情を変えず小さな動きでセルリアを制し、ヴィハイドの背を見つめた。
「…だが、名家の下した書状は絶対だ。あの日お前が従ったように、な。そして一度出た決定を覆せた者はいない…お前以外に。そんな事が出来るとさえ、魔界の誰一人とて思わなかっただろう。」
ヴィハイドはほんの少し振り向いた。アライズと目が合うか合わないかの、その程度。
「…聞かせてくれ。今になって、そこまでの労力を注ぎ込んでまで、当主のこの地位を取り返そうと思った理由を。」
アライズはしっかりとヴィハイドの目を見つめた。例えヴィハイドがこちらと目を合わせていなくとも。
「魔界と人界で和平を結んでみせる。その為だ。」
きっぱりとした口調でそう言い切るアライズに、ヴィハイドは驚き目を瞠った。思わずアライズと視線がぶつかる。
「…そう、か。」
アライズの決然とした表情の中に何を読み取ったのか、ヴィハイドは背を向け扉の向こうへ足を踏み出す。
「やはりお前は兄上たちの子だな…。」
聞こえるか聞こえないかの小さな声でそう呟いた。
「荷物はまとめて送り返してくれ。」
扉が閉じきる直前にそう言い残し、バタンと軽い音と共に閉まる。急激に静けさに包まれた室内には、大きな窓から柔らかな日差しが差し込んでいる。アライズは窓の方へ向き直り、その日差しに目を細めた。
「セルリア。…先程も言ったように叔父上の物を全て、郊外の屋敷に送る手筈を整えてくれるか。」
アライズの言葉にヴィハイドが出て行った扉を見つめたまま止まっていたセルリアが、さっと頭を下げる。
「はい、了解しました。すぐに取り掛かります。」
返事を受け、アライズは小さく息を吐いて窓の向こうへ視線を走らせる。
「…戻ってきたのだな、ここへ。」
その呟きに込められた感情は様々な思いが綯い交ぜになった複雑な響きを含んでいて、セルリアは何と返したらよいかすぐに思いつけなかった。するとアライズは僅かに翳りのある笑みを浮かべて、セルリアを振り返った。
「これから忙しくなる。…頼りにしているからな。」




