君の幸せだけを
「アライズ様、今なんて…?」
とりあえず譲葉と別れ館に帰ってきた契架に、いつもの窓辺に座りリルを膝の上に座らせるような姿勢で寝かせたままでいたアライズは衝撃的な発言をした。
「リルを日向の孤児院へ預ける。もう、ここへ戻すことは無い。…と言ったのだ。」
アライズは自らに身体を預け眠る少女の滑らかな黒髪をそっと愛しむように撫でている。契架のほうを見る事は無かった。
「僕は反対ですっ。何故、急にそんな…!」
リルの頭を撫でる手付きは途方も無く優しいのに、しかしその表情は深い苦悩に彩られている。
「…共に暮らす年月のうち、いつの間にか情が移った。もうリルに殺される事は出来ない。…またリルに誰かを殺すような経験をさせたくもない。」
その言葉は契架に向けているようで、独り言のようでもあった。
「そんな…、だからと言って何も孤児院へやらなくてもいいでしょう?それならこのまま此処で、三人で暮らしていけば…。」
「…もう一人置いていかれるのは、真っ平だ!」
アライズが不意に怒鳴るように言った。思わず契架がビクッとするが、アライズはやはり視線すら寄越そうとはしない。
「空亜も晴人も我を置いていった。日向も契架もリルもこのまま行けば、いずれ必ず我を置いていく。だがその時が来たとて、我はほんの少し年を重ねただけに過ぎないっ…。」
契架がアライズに拾われたのは四歳か五歳か、そのくらいの頃だった。リルだって拾った頃は赤ん坊だった。しかし自分たちがここまで成長しても、その間アライズの見た目にはほとんど変化が無い。それはこの先二人が大人になり、そして年老いていったとしても、アライズは今の見た目からほんの少しだけ年月を重ねた程度に過ぎないのだろう。そうして自分たちはアライズを残していなくなる。人の十倍の時を生きる悪魔と同じ時間を過ごす事は不可能なのだから。
「アライズ様…。」
ようやく契架はアライズの言う「死にたい」という気持ちに触れたような気がした。魔界にいたのであれば気にもならない事なのだろう。周りの全ては同じ時間軸を生きていけるのだから。こうして魔界から追放され、人間やハーフと触れ合い生きているアライズだからこその苦悩。
「人界で置いていかれるばかりの日々を過ごすのなら、死にたかった。しかし悪魔は自分では死ねないから、殺してほしかった。だがただ待っていても誰も殺しに来ない。それなら我を殺せる条件を揃えようとしたのに、今度はこのザマだ。情が移って殺させたくないなど…。」
アライズの表情は自嘲的だった。
「だが大事に思えば思うほど、失うことが怖くなる。それでも我が悪魔である限り、その日は必ず来る。いずれ失うくらいなら、自らの意志で手放す。そしてもう求めない。」
そう言い切るアライズの姿はあまりに哀れでちっぽけに見えた。
「…でも、そんなことしてリルの気持ちはどうなるんですか!リルはアライズ様が好きだって、ずっと言って…。」
アライズが手放したとしてもリルはきっとアライズを求めて戻ってくる。真っ直ぐにアライズを「好き」だと語る彼女は諦めたりしないはずだ。
契架の言葉に、アライズの顔には深い懊悩が浮かぶ。だが既に決めていたのか、目を閉じると酷く冷たい声が返って来た。
「我と関わった全ての記憶を消す。その上で日向の元に預ける。…そうすれば二度と思い出すことはあるまい。」
「な…!」
契架は今度こそ絶句した。そこまでアライズが覚悟を決めているとは思わなかったのだ。だが惹かれ合う二人がそんな風に別れてしまっていいのだろうか。そこまで考えて、契架はふと思い当たる。そう、たった一人だけなら人間でもアライズの時間を分かち合える方法がある。
「アライズ様とリルが結婚なさればいいのでは…?」
悪魔はキスを交わすことで寿命を二等分出来る。だからこそリルがアライズの頬にキスをした時、アライズは注意したのだから。もちろん、リルがもう少し大きくなってからにはなるだろうが、そうすれば二人で生きていけるのでは…?
契架はさも名案のように感じたが、アライズがちらりと一瞬だけ契架に寄越した視線は氷のようだった。
「…馬鹿を言うな。人の世で、何百年という時間を生きる辛さが想像できるか。周りの全てに置いていかれる気持ちなど、リルは知らなくていい。」
契架の考える程度の事など、アライズは既に思考済みだったのだろう。その上でアライズはリルを手放すと決めたのだ。もうその覚悟は覆せない事に契架は気付いてしまった。
「もしこのまま共にいれば、我はいずれリルを求めてしまうだろう。そしてリルもそれを拒むまい。…だが、そうあってはならない。」
アライズがリルを優しく抱き締める。
「我は悪魔で、リルは人間なのだから…。そんな事でリルを不幸にするわけにはいかない。…幸せになってほしいのだから。」
リルがアライズを愛しているように、またアライズもリルを愛しているのだ。それ故に、この決断を選ぶしか出来ないのだと。
「…リルの此処での記憶を消し、日向の孤児院に預ける。」
感情を無理矢理押し殺した声で言うアライズに、契架は小さく頭を下げる事しか出来なかった。
「はい…。」
「契架も共に行くか?」
そんな突然の問い掛けに、契架は慌てて首を横へ振る。
「いいえっ!僕はアライズ様のお傍におりますっ。」
リルの分もお守りします、声には出さずしかし心の中でそう強く誓う。
「…好きにするがいい。」
アライズは一瞬複雑そうな表情を浮かべたが、無感情にそう返した。そして腕の中で眠る少女に様々な感情が籠った、それでいて何処までも優しい視線を向ける。
その視線に気付いた訳でもあるまいに、リルの表情は心なしか微笑んでいる。
「…アライズ。」
リルが寝たまま言葉を紡ぐ。どう見ても寝言にしか思えないが。
「…何だ。」
寝言だと分かった上で、しかしアライズが優しく答えるとリルの顔に満面の笑みが浮かぶ。
「アライズ、だいすき…。」
あまりにもタイミングの良すぎる言葉にアライズは眼を丸くするが、だがリルに目覚めた様子は無い。その言葉が徐々に実感を持って伝わったのか、アライズはこれまでに見せた事のないような穏やかな笑みを見せた。
「あぁ。我も…。」
リルに顔を寄せながらその先は音にならず呟くと、その額に小さく口付けた。
そしてそっと唇を離すと、ごく小さな声で何事かを唱える。その瞬間リルの身体が青い光に包まれた。何が起きたのかを察した契架が思わず悲痛そうな表情を浮かべ目を逸らす。
光が収まってからもしばらくアライズは腕の中のリルを見つめていたが、やがて窓辺から立ち上がる。そのまま契架の方を見る事も無く、その場から転移してしまった。行き先は日向の孤児院に違いないだろう。
「…っ!」
契架は行き場の無い感情をぶつけるように、壁に拳を叩き付けた。窓の向こうには満月が浮かんでいる。
アライズがドアをノックすると、中から怪訝そうな声が返って来た。普段はこんな夜に尋ねてくる者はいないのだろうから、当然とも言えるだろう。
訝しげな表情でドアを開けた日向は、そこに立つアライズと腕の中のリルに気付くと目を丸くした。
「アライズ君?それに姫ちゃんも…。どうしたんだい、こんな時間に。…随分、酷い顔してるね。」
問い掛けながら、入ってと示すがアライズは緩く首を振った。
「いや…、リルを頼む。」
代わりにアライズが腕の中で眠ったままのリルを差し出すと、再び日向が怪訝そうな表情を見せる。
「どういう事…?」
訝しむ表情の中にアライズを気遣う色を察するが、アライズは眼を逸らす事しか出来なかった。
「訳あってリルの我らと過ごした記憶を消した。…これからは此処で育てて欲しい。」
感情を押し殺しているというより、感情そのものを何処かへ捨ててきたような平坦な響きの中に、深い悲しみを日向は敏感に感じ取る。すぐに詮索すべきか否かを迷うような表情をしたが、程なく意を決したようにアライズを見つめる。
「…分かった、姫ちゃんは預かるよ。心配いらない。」
「…頼む。リルの記憶が戻る可能性は無いだろうが、念の為当分我は此処には来ない。」
フードの向こう側に目を隠したまま、アライズがそっと差し出したリルの小さな身体を日向は優しく抱きかかえる。
「…君の幸せだけを、願っている。」
リルに小さく囁き、その姿を記憶に焼き付けるようにしばしリルを見つめた後、アライズは何も言わずに背を向けた。
「後悔、するんじゃないの?」
そのまま無言で立ち去ろうとするアライズの背に日向が言葉を投げかける。アライズは一瞬、動きを止めたがそのままローブを翻した。
「…もう、してるさ。」
そんな小さな呟きは巻き起こった風の音に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。




