友達
怪我も魔力もだいぶ回復してきた頃、アライズはとある術の実験を試みていた。その術とは「背にある翼を消す術」である。翼を消す事さえ出来れば、髪や目の色が見えないようにローブをかぶる事で一見しただけでは悪魔とは気付かれにくく出来るはずだという晴人の思い付きが切っ掛けだった。黒髪だけ、或いは黄色の目だけであるならば人間にもいるし、仮に髪と目を同時に見られても翼がなければハーフだと思われるだけで済む。人間社会におけるハーフの扱いも酷い物ではあるが、悪魔と比べればマシだと言えるだろう。
しっかりと思い描いて魔力を発動させれば消す事自体は比較的容易に出来たが、問題は消し続ける事である。常に消していなければ意味は無いのだが、さりとて常に術を発動する事を意識し続けていたのでは他に何も出来なくなりこれもまた無意味だ。意識をせずとも翼を消した状態を持続できる事、これがこの術の目指す最終形態である。そして日々の特訓は功を奏しつつあり、少しずつ意識をせずとも翼を消していられる時間は延びてきていた。
館の広い庭に出て、深呼吸を一つ。目を閉じて背中の翼に意識を集めてから、翼が徐々に透明になり消えていくイメージを思い描く。そのイメージに合わせるように自分の内から魔力を少しずつ開放していく。
するとアライズが思い描いたイメージ通りに翼が少しずつ透けていき、陽光に溶ける様に消えてしまった。鏡などは無いがアライズは自分の翼が消えた事を感覚で理解すると、張り詰めた魔力への緊張感は解かずにゆっくりと目を開け、息を吐いた。まだ翼への集中は解いていないが、ここから少しずつ意識を拡散させていく。集中を解く事に集中すると言う矛盾のような意識状態を制御しているときだった。
「あんたが、晴人兄さんが拾ってきたっていう悪魔か?」
不意に館の門の辺りからそんな声が向けられ、アライズは驚きに肩を震わせた。その瞬間、術も見事に拡散し一瞬のうちに黒い大きな翼が姿を現す。
アライズがそちらを向くと、少年が立っていた。見た目的にはアライズと同年代であろうか。陽光を受けてキラキラと輝くやや長めの銀髪が印象的な、美しくどこか儚げな少年だった。
少年はいきなり出現したアライズの翼に、怪訝そうな視線を投げかけてくる。何と答えたものかとアライズが口を開こうとした時。
「アライズ!ちょっとテーブル動かすから手伝って!」
館の扉をバンッとやや手荒く開けながら、晴人が顔を覗かせ少年に気付く。
「お、空亜!久しぶりだな、やっと良くなったのか?」
晴人の言葉に少年の視線がアライズからそっちへシフトする。
「久しぶり、晴人兄さん。」
「そんなとこに突っ立ってないで、中に入って待ってろよ。あ、それが悪魔のアライズな。」
空亜に向かって軽い口調でそう言うと、続いて再びアライズに視線を向ける。
「んで、こっちは俺の従兄弟の空亜。じゃあ、アライズはすぐに手伝って!」
晴人の要求通り家具の移動を手伝ったアライズは、リビングとなっている広間に足を向ける。開けっ放しの扉の向こうには、陽の差し込む出窓に腰掛け本のページを捲る空亜の姿があった。綺麗な銀髪が窓から入るそよ風にさらさらと揺れる光景に思わず目を奪われ、広間の入口に立ち尽くしたまま見入ってしまった。
「何かそんなに気になるところがあるのか?」
本に視線を向けたままの空亜が突然そう言うので、気付かれているとは思ってなかったアライズは僅かに驚く。
「あ、いや…、綺麗な髪だと思って…。」
特に上手い言い訳も思いつかないので、思っていた事をそのまま口に出しながら広間へと踏み入る。すると空亜は顔を挙げ、本を閉じながらアライズを真っ直ぐに見た。
「髪?」
「あぁ、綺麗だと思う。銀髪なんて初めて見たから…。」
すると空亜はふふっと苦笑を浮かべる。
「変わった事を言うヤツだな。」
自分の柔らかな前髪を無造作に掴みさらさらと流して見せる。
「そっちの黒髪の方がよっぽど珍しいだろ。」
「悪魔は皆、黒髪だから特には…。」
人間の髪の色は様々だが人間でありながら黒髪、というのは確かに極少数であり、そういう意味では空亜の銀髪も少数派ではあるが珍しがるほどの物でもない。とはいえ、つい最近まで魔界から出た事のないアライズにとっては黒髪など見慣れたものであるし、陽の光を弾く銀髪は美しい清流を思わすような珍しい物であった。
空亜は手にしていた本を出窓に置くと、そのままアライズに近寄ってきて躊躇うことなくその黒髪に触れた。
「へぇ…、柔らかいんだな。」
好奇心の向かうそのままに触る空亜に思わずアライズは目を丸くする。
「怖く…ないのか…?」
アライズの問いに、毛先へと目を向けていた空亜が顔を上げる。
「我は悪魔で、黒髪は悪魔の象徴で…、そんなふうに触って、怖くないのか…?」
空亜はじっとアライズの目を覗き込んだが、アライズは目をやや逸らしてそちらを向こうとはしない。
「…怖くは無いな、全く。」
これまた躊躇無くそう言い切ると、アライズが驚いたように空亜を見た。
「お前は確かに悪魔だが、それがお前自身を恐れる理由にはならないだろ。」
空亜はあまり抑揚の無い声で続ける。
「そんな傷付いた子供のような眼をした悪魔なんて、ウサギより怖くないな。」
「う、うさ…ぎ!?」
まさかウサギと比較され、しかもウサギ以下呼ばわりされるなんて思っても見なかったアライズが驚いた表情を浮かべると、空亜は微笑した。
「晴人兄さんが悪魔を拾って一緒に暮らしているとは聞いていたけど、想像していた悪魔とはずいぶん違うんだな。…この間の災禍を起こした悪魔なんだろ?」
空亜の遠慮のない言葉にアライズは俯いて小さく頷く。事実なのだから傷付く資格など無いと分かっているのに、それを突きつけられただけでこんなにも胸が痛い。
「…それは事実だ。否定の余地はない。」
「…悪魔も傷付くんだな。」
空亜の言葉は率直だが、そこに悪意や敵意は含まれていない。それがせめてもの幸いではあった。今、誰かに面と向かって糾弾されたら立ち直れないだろう。
「我のした事で傷付いた人間を思えば、我に傷付く資格など無い。あの災禍は紛れもなく我の罪だ…。」
俯いたままそれでもはっきりと自分のした事を受け止めるアライズの様子を空亜はじっと見つめていた。
「…そこまで思うのに、何であの災禍を引き起こしたんだ?」
空亜の声にアライズを責める色は無い。ただ静かに尋ねてくる。
「…分からない…。魔界を出てから時間が経つにつれ、段々全てがどうでも良くなっていった。世界は色褪せ、何も感じず、何も思わず…自分が誰なのか何なのかも不鮮明になって、…気付いた時には全てが終わった後だった。」
空亜の声や言葉に悪魔に対する嫌悪は無い。それでもこの話をしたら態度が変わるかもしれない。そんな恐怖でアライズは空亜の顔を見ることが出来なかった。
「…そっか。」
しばらくの沈黙の後、空亜が呟くように言った。
「…何で『悪魔』って言うか、知ってるか?」
「え…?」
予想外の問い掛けに顔上げると、空亜の真っ直ぐな視線とぶつかった。
「…魔力を持った悪しき存在、…だから悪魔。」
その視線に責める色が含まれているような気がして、アライズは視線を少しだけ逸らしながら答えた。
しかし視界の端に映った空亜の銀髪がふるふると左右に揺られ、アライズは驚いて視線を戻す。
「悪、って力強さを表す言葉でもあるんだ。悪魔って、人より強くて魔力を持った存在って意味らしい。」
魔界にいる頃は悪魔という呼び名について考えたことなど無かった。当たり前だが周りの全てが悪魔なのだから、そこに疑問の余地など無かったのだ。だが人界に追放されて以来、なんて否定的な呼び方なんだろうと思っていた。それでもそう呼ばれるに値するだけの罪があると痛感したからこそ、その呼ばれ方も致し方無いと受け入れてはいた。
しかし今、目の前に提示された意味は、決して悪魔を、アライズを否定しているわけでは無い。ただ事実を言葉にしただけだ。その解釈には思わず安堵しそうになる。
だが。
「そんな都合のいい考え…。」
甘えていいわけがない。自分も含め、散々人界や人間に危害を加えてきたのだ。事実がどうであっても、多くの人間にとって悪しき存在である事に変わりなどない。
「…そうだな。」
空亜は真っ直ぐな視線でアライズの視線を受け止める。
「でも、考え方は人それぞれで良いんじゃないかと僕は思う。」
そう言って空亜は視線を窓の方へ向ける。入ってきた風が二人の髪を揺らした。
「この風を心地いいと思う人もいれば、髪が乱れて鬱陶しいと思う人もいる。今日の天気が晴れで良かったと思う人もいれば、毎日暑いしたまには雨でも降ればいいのにと思う人もいる。」
空亜はそこで言葉を切り、再びアライズの方を見る。
「僕は晴人兄さんのように悪魔の事を知りたい、共存したいとまでは思わない。でも多くの人間のように悪魔なんて嫌いだ、憎いとも思わない。今、僕がこんな話をしているのはお前が悪魔だからじゃない、お前がお前だからだ。」
真っ直ぐにそう言って、空亜はふっと目元を和らげた。
「人の感じ方が様々なように、悪魔の感じ方も様々なんだな。…そんな風に人を傷つけたと苦悩する悪魔もいるんだ。」
アライズは空亜の言わんとするところが分からず、思わず空亜を見つめたまま固まっていた。
「だから、僕はお前が気に入ったよ。アライズ。」
「え…。」
「友達になってくれないか。」
その言葉は真っ直ぐにアライズの心を貫いた。友達などと、生まれてこの方一度も向けられたことのない言葉だった。魔界では筆頭名家の跡取りとして敬われあるいは畏れられ、セルリアなど心を許したものも少数はいるがそれ以上ではなかった。追放されてからは晴人と出会うまではロクに他人と関わったりもしていないし、晴人のことはもちろん大切に思っているが「友達」というよりは「家族」に近い関係性だと思う。
「友達…。」
その言葉を小さく繰り返すと、空亜はクスリと笑って手を差し伸べてくる。
「そう、友達。いいだろ?」
空亜の言葉がじわじわと心に染み込んで、今までに感じた事のない種類の感情が温かく満ちてくる。アライズはおずおずと空亜の白い手に自らの手を重ねた。
「よろしくな。」
「よ…よろしく、空亜。」
少し戸惑ったような、それでいて嬉しさを隠し切れない声でアライズも答えた。
「空亜は後にも先にもたった一人の我の友達だった…。」
アライズはそうぽつりと呟いて、不意に語るのを止めた。
「あの…、その晴人さんと空亜さんは今…?」
先ほどこの孤児院は日向の母と日向、そして日向の子供たちで切り盛りしていると言っていた。ここまでの話を聞く限り両者とも悪魔に対して害意を抱く人間ではない事は確かなのにこの孤児院に関わっていない。であれば日向の父である晴人とその従弟の空亜は今、一体何処で何をしているのか。契架は単純な疑問から口にした問いだったが、それに答えるアライズの声が一段低くなった事に気付く。
「…死んだ。」
「え…。」
その声を上げたのが契架なのかリルなのか、それとも日向だったのか、当人たちですら意識しない響きが静寂にポツリと落ちた。
「…空亜は不治の病に罹っていて、我と出会ったその時には既に先は長くなかったそうだ。友となってからほんの数年で亡くなった。」
アライズは誰の顔も見ようとせず、じっとテーブルの一点に視点を固定したまま話す。
「晴人も日向が今の契架くらいの頃に馬にひかれそうになった見知らぬ子供を庇って亡くなった。…人は悪魔よりずっと短命だが、それでも早すぎる死だった。晴人の死後、あの館を譲ってもらい、我は今まで住んでいる。また晴人が共存を願ったこの孤児院がちゃんと成り立っていけるよう、それ以降は出来る限りの援助は行っているつもりだ。」
それは誇るべき事柄でもあるはずなのに、アライズの声は自嘲の色が強く現れている。誰もどう声を発したらいいのか分からず、室内に満ちる静寂の中、アライズが目を閉じ消え入りそうな声で呟く。
「空亜も晴人も死んだ。だが同じ人界に住んでも、悪魔の人生はこんなにも長い…」
その悲痛な呟きに答えられる者などこの場にはいなかった。誰一人とてアライズより長い時間を生きていないし、アライズのこの先の時間を共にすることも叶わないのだから。
その時、庭に面している窓がやや荒っぽく外側から開けられた。バンッという音に四人の視線がそちらへ向くと、一人の少年がにかっと明るい笑顔を覗かせる。
「なぁなぁ、お前も一緒に遊ぼうぜ!」
その視線は真っ直ぐにリルに向けられていた。
「ぼく…?」
リルが怪訝そうに呟くと、少年は大きく首を振った。
「そうだよ!な、いいだろ、日向!」
「えぇー、ちょっと今は…。」
日向が困ったような表情でチラリとアライズとその膝の上に座るリルに視線を向ける。すると意外な事にリルの子供にしては変化の乏しい表情に期待に満ちた輝きが宿っている。アライズはリルの顔を見ずともそれが分かっているようで、苦笑を浮かべながら日向に向かって肩をすくめて見せた。
「あー…じゃあ、姫ちゃん。一緒に行ってみる?」
微苦笑を見せながら日向が問うと、リルは目を丸くしてからコクリと頷いた。
「よっしゃ!早く来いよ!」
声を掛けた少年が嬉しそうに叫ぶと、開けたとき同様やや荒っぽく窓が閉められる。
「じゃあアライズ君、ちょっと姫ちゃんを借りるよ?」
「あぁ。リル、楽しんでくるといい。」
アライズの言葉に押されるように、リルがぴょんと飛び降りる。
「うんっ。」
ニコリとアライズ仕様の笑顔を見せた後、日向に手を引かれながらリルは部屋を後にした。バタンと玄関の開閉音がして、程なく庭に歓迎の声が広がった。
部屋に残ったのはアライズと契架の二人きり。
「…契架も行きたければ、行って構わないぞ。」
アライズが不意にそう言い、契架は慌ててアライズの方を向く。
「い、いえっ。僕は大丈夫です!」
ぶんぶんと音がしそうなほど手を振りながら答えると、アライズはそうか?と小さく微笑みを残し、窓の向こうへ視線をやる。リルが日向を伴って子供たちと一緒に走り回っているのが見える。そんな様子を見つめるアライズの表情は限りなく愛おしそうで、なのにどこか隠し切れない痛みが混在している。
「…アライズ様。」
二人きりになった今なら気になっていた事を問い掛けるチャンスだと契架は呼び掛ける。
「アライズ様の望みは悪魔と人間の共存という事なのですか?」
ここ最近聞かせてくれた過去の話や今聞いた話で、少しずつ今まで知らなかったアライズ自身の事やこの世界の仕組みについて知ることは出来た。そしてここに連れてきたのは、まだ小さな社会ではあるがここは確かに共存で成り立っている見本のような場所だからだろう。
だが分からない。それを自分たちに教えて、アライズはどうしたいのだろう。どうすることを望んでいるのか。
するとアライズがぽつりと、凪いだ水面に一滴の滴が落ちゆっくりと波紋を広げるようなトーンで呟いた。
「…ただ、死にたかっただけだ。」
ようやく返された答えはしかし、契架には意味が分からない。
「それは、どういう…。」
「悪魔は寿命以外ではどのような方法を取っても死なぬ。だがこの世で悪魔を殺す力が一つだけあり、それを行使出来るのは二つの存在だけだ。」
契架の言葉を遮るように、あるいは聞いていないかのようにアライズは言葉を重ねた。契架はどう返すべきか、頭を物凄く高速回転させるが正しい答えが分からない。どうしても分からない以上は投げかけてみるしかない。だが契架の冷静な部分は気付いていた。恐らく何と返してもアライズの反応は一つなのだろうと。だからこそ疑問をそのまま口にした。
「一つの力と、二つの存在とは…?」
しかしアライズはそれ以上何も答える事をせず、窓の向こうを見ていた。それは契架の予想した答えと寸分違わない光景だった。




