バナナ・ボート・オブ・明代紫禁城
1426年、北京城の漢王府に不気味な声が響いていた。
「うほっほ!うほっほ!」
漢王府の主人、漢王こと朱高煦は男盛りの46歳。甥の朱瞻基にまんまと皇帝の座を掠め取られた腹いせに食を断って死ぬつもりだ。が、見かけは大人、中身はゴリラ、今日もバナナの誘惑に勝てない。
朱瞻基が飼育員として漢王府に寄こしたのが、身も心も剛腕剛健な新人御史の于謙である。彼の使命はゴリラ化した朱高煦を人間に戻すことだ。
「陛下も人がお悪い、人間に戻してから厳罰を与えるおつもりだ。」
于謙はバナナの房から1本をもいで投げた。華麗に宙を舞う46歳ゴリラ。空中でキャッチし、きちんと皮を剥くあたりは腐っても皇族である。食べ終わると于謙を一瞥した。
「うほ……。」
于謙は厳しいポーカーフェイスのままだ。
「欲しければ取りに来い。」
高煦は無言で睨むが、バナナの誘惑に勝てない。じりじりと間合いを詰めた。于謙のふところの10房のバナナを狙う。とたんに于謙は机に飛び乗り、この世の者とは思えない声音で呼んだ。
「朱~高~煦~~。」
ありえない。
皇族が臣下に諱で呼ばれるなど、ありえない。たとえ中身がゴリラでも、高煦は度肝を抜かれた。しかも于謙の声音は地底から湧くごとく冷たい。
「朱~高~煦~~。バナナ食うか~~朱~高~煦~~」
一ヶ月後、朱高煦は諱の圧に屈していた。毎朝、于謙が現れるのを心待ちにし、彼の手からバナナを受け取るまでになった。今や、「朱~高~煦~~」の声はゴリラを調教する鞭の代わりだ。が、于謙は失敗を悟った。
「朱高煦はゴリラになりきってしまった……。」
さすがは手加減が振り切れている于謙である。やりすぎたのだ。
「このままでは陛下に怒られるな……、かと言って元に戻すのも厄介だ。ああ、どこかに動物園はないものか」
「うほっほ~~。」
足元を見ると、高煦がお代わりのポーズで待機中だ。于謙は姿勢を正し、バナナを持ってない方の拳を胸にあてた。高煦は「ハッ!」と一声、後ろの紙に『帕里皮諸葛亮(パリピ孔明)』と筆を滑らせた。故事成語の一種だろうか、于謙は複雑だった。妙な芸を仕込んだ気分だ。実は高煦が自主的にやっているのだが。
「……朱高煦は今の方が幸せかもしれない。帝位の妄執から解放され、素直なゴリラのまま生きられないものか」
彼は朱高煦の長所を見出していた。根っから悪人でないのだ、皇帝家に生まれたばかりに策謀と暴力に傾き切った結果がこれだ。
今日もうららかな陽射しが注ぐ漢王府。于謙は朱高煦の髪を梳き、冠を付ける。服を整え、鏡の前に立たせる。笏のかわりにバナナを持たせて声をかけた。
「朱高煦、散歩に行こう!」
ゴリラはウキウキしていた。
「うっほ!」
于謙は出来るだけ紫禁城が見えないルートで皇城西苑を巡ったが、乾清宮の屋根が見えたとたん、ゴリラがドラミングを始めた。
「不、不!」
さっとバナナを取り上げる。肩を落とす高煦。なぜか通りかかる皇帝と皇后の輿。急いで高煦にバナナを持たせ、揖礼させる于謙。皇帝は頬をヒクつかせたが、孫皇后は朗々と笑っている。
その時、突然の雷鳴に襲われる北京。ゴリラは雷に吠えた。
「うほあ~~!」
太液池に飛び込む彼を追って、于謙も飛び込む。あちこちから小船が出て賑やかに大捜索が始まる。時々叫び声が上がる。
「うほっ!うほッ!」
「ごぼっ!ごぼっ!」
皇帝は憮然として、船に引き上げられる二人を眺めた。孫皇后は夫に聞こえるくらいの声で独り言を言った。
「そろそろゴリラは森へ返し、忠臣は本職へ戻すのが道理かも。まぁ、このままでもオモシロいですけど」
数年後、鄭和の大船団が長江北港を離れた。その中にバナナが大好きなあの男がいた。ほとんど喋らないが、素直に鄭和に付いていき、アフリカ東岸で船を降りた。別れるさい、男は「朱高煦」と言って笑ったという。同じ頃、山西と河南の地では、兵部右侍郎にして監察御史となった于謙が辣腕を振るっていた。やはり手加減は振り切れていた。
劇終(本国で絶対に検閲とおらない仕様)