ロシア、ロシア、ロシア(カラマーゾフの兄弟(ドストエフスキー著)について)
ロシア、ロシア、ロシア。
ネットニュースもSNSもロシアで持ち切りの今日この頃。
話題の理由は言わずもがな。残酷な侵略戦争についてだが、そこから派生して、ロシアに関する色々なことに思いを馳せがちだ。
例えば、格闘技。もう引退してしまったが、ウクライナ生まれロシア育ちの格闘家、氷の皇帝ヒョードルの全盛期の強さはヤバかった。動きが速いとか、力が強いとかじゃなくて、動きが美しいのだ。イチローのバッティングフォームは、野球素人から見てもキレイと感じられるだろう?それと同様に、ヒョードルの動き、シャドーボクシングの所作は、素人目に見ても洗練された理想的な動きだという事を感じさせる。月並みな表現だけど、極めるとスポーツも芸術となるのだ。
あと、美人。ロシア人、ウクライナ人女性の美しさは、皆さんご存じの通り、日本男児の憧れといっていいのでは無いか?マリア・シャラポアのような女性と付き合いたかった、、、。
そして、個人的にはロシア文学にも思いを馳せざるを得ない。
トルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフ?だっけ(はつ恋という小説だけ読んだことがある、、、)?特に、トルストイとドストエフスキーは、世界史上最高の小説家争いで常に1、2位あたりを争う猛者だ(出典は不明)。
僕はドストエフスキーが好きで、特に後期5大小説は、ちょくちょく(本当にたまにだが)読み返したりする。中でも、僕が特に好きなのは、最終作、5番目の「カラマーゾフの兄弟」(以下、カラマ)だ。
簡単なあらすじをいうと
<ロシアの成金クソオヤジには、育児放棄した3人の兄弟がいた。そのうちの長男は、父を酷く憎んでおり、日頃から父を殺すと息まいていた。仲直りさせようと、心優しき末っ子が奮闘するが、逆効果。兄と父の関係は決定的なモノになった。その様子を、我関せず的な立ち位置で次男イワンは傍観する感じだった。
そんな中、そのクソオヤジが殺さる。当然、長男がまず疑われ、逮捕され、裁判にかけられるのだった、、、が、、、。>
てな感じかなぁ。
一番有名なのは、多分1番目「罪と罰」だろうが、個人的にはやっぱりカラマ。カラマが何がすごいって、1から4までの物語を内包しているところだ。「罪と罰」の主人公であるラスコーリニコフ的なカラマの次男坊イワン。2番目の「白痴」の主人公であるムイシュキン的な三男のアリョーシャ。3番目の主人公であるスタヴィローギン的な?異母兄弟(諸説あり)のスメルジャコフ。4はちょっと良く分からん、、、。
まぁ、一言で言うとカラマは大乱闘スマッシュブラザーズなのだ。
当然、色々な物語をガッチャンコしているせいで、一回目に読んだ感想はマジで良く分からんだった。一体何が面白いの?と、頭が???になったが、「人類史上最高傑作」だとか、「文学界のラスボス」だとか、まぁ、「全米が泣いた」みたいな分かりやすいキャッチフレーズに弱い僕は、何とかこの偉大な作品の面白さを理解しようと思って解説書なんかを何冊か読んでみたわけですよ。
そして、2回目を読むと、あら不思議。ちょっと味がするわけですよ。スルメイカ的な小説なわけですよ。ほんのちょっとだけ、世界の深淵を見た気がするわけですよ。そして、もう一つ不思議なことに気が付く。
この作品、「切り抜き」が可能なのだ。
どういう事かというと。本を手に取り、適当なページを開く、そして、そこから読み始めても、結構面白く読める。そう。これぞまさに切り抜き動画的な性質である。そのシーンそのシーンだけで、愉しめるのだ。かつて、夏目漱石も理想的な小説とは、適当にページを開いて面白い小説、、、みたいなことを言っていたような気がするが、ああこういう事か!と納得した。
長ったらしくてウザイ小説ということで、読むのがつらいのは分かるが、ある程度内容が頭に入ってしまえば、膨大な短編集として読むことができるので、1回目は頑張って読み切ってほしいものです。
さて、カラマの魅力を僕なりに語ってみたが、ここからが本題。
カラマが好きといっておきながら、難解なこの作品には、僕では理解出来ないことがまだまだたくさんある。
そのうちの一つが、<なぜ、イワンはそんなに罪悪感に苦しむのか?>という疑問である。
ネタバレだが(ぶっちゃけ、この作品はネタバレを熟読したうえで、読んだ方がいい、、、話しについて行けないから、、、)
父親殺害の犯人は、執事で異母兄弟(諸説あり)のスメルジャコフという男。
次男坊イワンは、中二病気質で、「神がいなけりゃすべてが、許される」だの「神は信じても神の世界は信じない」だの、後々、黒歴史となりそうなセリフを普段から吐きまくっている痛いやつなのだが、スメルジャコフはその言葉を真に受けていた。さらに可哀そうな男である。
迷惑なことに、イワンの言葉を拡大解釈してスメルジャコフは父親を殺す。
この辺のロジックも意味不明項目の一つなのだが、それは置いといて、、、。
そして、さらに迷惑なことに「殺したのはあなただ」みたいな責任転換をする。
分けわかんない。
細かいこと言うと、物語の初めに、「お兄さんに、お父さん殺されるかもよー」みたいなことを言って、イワンがやんわりと無視するみたいな絡みはあるんだけども、あまりにも理不尽な主張。
いやいや!イワン関係なくね!
と、僕は突っ込みたくなった。が、繊細イワンは、そうじゃ無かった。彼は罪悪感に押し潰され、酒におぼれ、精神を病んで、幻覚に苦しむ。有ろうことか、兄の裁判で「僕がやりました」なんて、叫ぶ始末。見てられない。
こんな感じで、<イワンあまりにも繊細で現実味ない説>が、僕の中で形成された。
つまり、共感できなかった、、、のだ。そして、この問題は、特に深く考えることもなく、そのままほったらかしにしたままだった。
ロシア、ロシア、ロシア。
Googleマップで調べると、日本から、八千から一万kmとくらい先の異国の大地。彼がイワンにそそのかされたのか、悪魔に論破されたのかは分からないが、巨大な文鎮で近しい人たちの頭を勝ち割っている。
ただ、諸々のニュースや書き込みや動画を見て、ほったらかしにしていた上記の問題に対する間違いに気が付いた。(諸々というのは、悲惨な映像だけではなく、反戦デモの映像も含まれる)
問うべきは、イワンでも、作者のドストエフスキーでもない。問うべき言葉は、<なぜ、イワンはそんなに罪悪感に苦しむのか?>ではない。
問うべきは僕。問うべき言葉は、<なぜイワンのように罪悪感を感じることができないのか?>ではないか。
この<問い>と<なぜ>という、疑問・問いかけを意味する言葉を用いた一文は、そのまま疑問文として捉えてはいけない。単純に疑問文として捕らえたならば回答は容易い。<自分に関係ないから>だの、<思考のキャパには限りがあり、そんなイチイチ考えられない>だの。そんな薄っぺらな回答は、今はいらない。まぁ、人間には限界があるからそれはしょうがない。
答えはいらない。これは、ただの独り言。自分に問い掛け、答えを保留しなければならない。これが意味するのは、皮肉めいた憐みの感情と、かすかな自己嫌悪。
その感情、自己嫌悪の根源は、一冊の書籍にある、
「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」(モフセン マフマルバフ著)
2001年。アメリカ同時多発テロの直前に、アフガンのテロ組織タリバンが世界遺産である大仏を破壊した事件をご存じの方は少ないかな?
当時は、大きな話題となって、世界中のメディアが注目し、避難轟轟。世界規模の大炎上事件だった。
しかし、このモフセンさんはいう。<アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ>
当時、アフガンは大飢饉に襲われ、それこそ子供を含め何万人もの人々が餓死していた。しかし、国際社会はその事実にほとんど関心を示さない。彼らが見るのは大仏だけだ。目の前で餓死していく子供たちの姿を見て、大仏は自らの無力さが恥ずかしすぎて、自ら崩れ落ちたのだ。ということだ。
今、戦争反対のデモに参加し、高らかにロシアへの非難を口にすることは、否定しない。というか、私もやってるし、やるべきだと思う。
それは、事態の収束に、少ないながらも貢献すると思われるし、殺されゆく人々を救えるから。ただ、それがクリティカルな要素になるかは微妙なところだが、、、。
上記のアフガンの場合はどうだろう。ロシアに比べれば、タリバンなぞ相手にならないのではないか?いや、戦う必要もないかもしれない。無害なパンを届ければいいだけの。ヤマト運輸が独力で解決できそうなレベルの辞退ではなかったか?声を挙げれば、クリティカルに、確実に助けられた子供たちではないのだろうか?
どうして、アフガンとウクライナの世界線は、交わることがなかったのか。二つの線は、厳密に魅かれた線路のように平行に伸びている。
今、その話関係なくね?
そう関係ない。僕はそのことを言っている。
終わったことを、今いってもしょうがなくね?今は、ウクライナのことに集中するべきだ。
そう。しょうがない。僕はそのことを言っている。もっと言うと、この事態が収束したとしてもアフガンを思い出す人はいない。
線路は完全に平行だ。だって、列車が走っているから。ちょっとでもずれようものなら、即座に脱線して大事故だ。
線路は地平の彼方まで、真っすぐに伸びている。ほら、地平の彼方へ目を向けてみよう。どうだろう?二つの線は交わっているように見えないか?(イメージしにくい人は適当に線路で画像検索してみてください)
そう。人は未来へと目を向ける。そして、交わるはずのない平行線が、いつか交わるという確信をもって、交点を目指す。
列車はずんずん進む。そして、地平の先にたどり着いたとき、足元の線は平行のままであることに焦る。そして、また前方を見ると新たな地平に新たな交点を見出す。そして、それを目指す。そんな行動を永遠と繰り返していくイメージが浮かぶ。
後ろを振り返ってみるといい。かつていた場所は、地平へと移行し、そして、そこで平行線は交わっているはずだ。
しかし、人はそうはしない。これは、歴史の話をしていない。そんなに地平線は遠くない。個々人の人生や生活レベルの話だ。
一件、歴史を勉強すべきみたいな口調だが、まるっきり違う。歴史が示す場所は、かつて、その人がいた場所ではない。歴史上の偉人という他人が立っていた場所で合って、本質的には自分に関係の無い場所である。
イワンは違ったのだと思う。後ろを振り返る。それどころか、彼は今自分がいる場所が交点になることを予感して、前に進んだ。
そんなイメージが浮かぶのです。彼の世界と我々の世界も、この線路のように決して交わらない。
イワンの世界は、人類全員が病んで、酒におぼれ、幻覚を見て崩壊する世界。
絶望的な、悪夢のような世界だと思うだろうか?この世界に入りたいか?いや、僕なら絶対にいやだ。
しかし、イワンの世界なら、あのアフガンの子供たちを救ったのではないか、、、そう、ふと思った次第である。
ごめんなさい。尻切れトンボの終わり方になるが、
<なぜイワンのように罪悪感を感じることができないのか?>
すごく抽象的な話になり、具体的な回答を提示することはできない。まぁ、僕は哲学者でも何でもないので勘弁。
ただ、シレッと却下したそもそもの疑問。
<なぜ、イワンはそんなに罪悪感に苦しむのか?>
については、回答が浮かんだ。
それは
〔カラマーゾフの兄弟がフィクション(小説)だから〕
という、なんとも当り前な答えである。
イワンは、想像上の人物である。ファンタジー世界の人間である。非現実な存在だからである。
だから、我々とイワンと我々の世界線も決して交わらない平行線にいるのだ。当り前だ。
ただ、どうしてだろう。イワンには、とても人間的な、、、現実的な、、、手触りを感じる。
もしかしたら、足元でも平行線は交わるのか、、、、。
そんな思いにさせてくれる。不思議な小説、、、それが、カラマーゾフの兄弟、、、、っていう感じの結びにします。
この悲劇が早く終わりますように、、、と、無力な私は、寝ぼけ眼で誰も読まない文章を書きながら祈っています。