老公爵の最愛
久しぶりの投稿ですので、リハビリ感覚です。
お楽しみいただければ幸いです。短編ですが登場人物が複数あり、少し読みづらいかもしれません。
ガタガタと風で窓が揺れた。
頑丈な公爵邸の自室。丘の上に石組みで建てられたその屋敷は城と言っても過言でないくらい立派なものだ。ストーブの熱で室内は暖かいのに、窓辺に寄るとひんやりと冷気を感じる。塗装された木枠にうっすらと水滴がついている。魔力を練り込まれて錬成された特殊なガラスは、冬の庭を綺麗に透過していた。
外部からは室内を覗き込めず、物理攻撃にも魔法攻撃にもある程度耐える特殊なガラス。
マリアージュの夫は、トヲジ領を治めるクレブス公爵である。十歳歳上の夫は、優しい。優しすぎて、自重しなければ、私は悪妻となってしまうのではないか。などと思う。
それくらい、よい夫なのである。
今迄は、領地を見ながら子育てを無我夢中でやって来た。結婚した頃は領内には荒地が多く、他領から流入して来た難民で溢れていた。もちろん、治安も悪く、殺伐とした空気が流れていた。
現在、公爵城から見る街は色とりどりの屋根であふれ、所々にあるバザールのテントに賑わいを感じる。
森までの平野も田畑となった。
なのになぜ、私はこんなに不安なのだろう。
一体何に、怯えているというのか。
本当はわかっている。
考えないように、していただけだ。
〝王都の公爵邸には、とても美しい愛人がいる〟
数日前に城の使用人に出回った噂話、である。
噂の域を出ていないもの。そして、夫は来週まで王都の公爵邸に滞在していて、現在、確認しようも無い。
そもそも、夫が帰って来たとして、面と向かって尋ねる事が出来るかと言えば、それは否だ。
「愛人を囲っている噂を聞きましたけれど?」なんて、聞けるだろうか。
もし、そうだ、と、肯定されてしまったら?
子ども達ももう成人した。離縁されずとも、もう、愛が無いと言われて放置されてしまったら?
考えるだけで、重苦しくなって、手に力が入らないような気がする。自制しようと努めるものの、自分の中の魔力が上手に抑制出来なくてフラフラする。
昔はもっと、私は強かったような気がする。
夫が居なくても一人で生きて行けた。少なくとも、もし別れてしまったとしても、切り替えて生きていくのは容易かっただろう。
優しく寡黙な夫だ。愛していると言われていた今迄の言葉が、その立場による義務的なものだったのかは、今となっては判断がつかない。
真に愛する人を見つけたんだと言われたら?そんな考えにゾッとするが、それはもう、私が引くしかないのだろう。
結婚前から見知っていたとは言え、私達は政略結婚だ。もし、本当に愛人がいて、その方とこれからを生きたいと言われるのであれば。
そうだな。私は南にある海の国に行くのもいいかもしれない。古くからの友人が、南の国の商人に嫁いでいる。温暖な気候の見知らぬ国の、色とりどりのネックレスやブレスレット。
この国で身につけるには、色鮮やかすぎて、なかなか合わせるのが難しい。それでも、宝石箱の中にそれらがあると、なぜか元気になれた。
私達は、物語に出てくるような激しい恋愛結婚ではない。好意はあったものの、貴族のしがらみによる政略結婚の側面が強いものだ。中立派の中の令嬢から娶られたのだ。それでも、自分なりに一生懸命夫とその領地の為に尽くしてきたし、その難しい立ち位置の夫を支えてきたという自負があったが。
あぁ。この一緒に歩んだ年月の中で、徐々に夫は心の奥底に入り込んで来たんだなと。
私、夫を愛しているから、他人に取られたく無いのだなと、わかった。
もし、そうなった時、自分が深く傷つかないように、心の準備をしておこう。
夫の存在は、私の心の支えになっていたのだな。今更、一人で立てるだろうか。痛々しく見えないように、振る舞えるだろうか。
痩せ我慢でも、美しくこの城を去ろう。
どんな舞台でも去り際は美しい方がいい。
グルグルと思考は同じ事を繰り返す。最悪な方向で。夫に別れを告げられ、捨てられた先の生き方を想定する。
自身の中の魔力が不安定なのを感じる。落ち着け、落ち着け。落ち着きなさい。
そう念じながら、ソファに腰を下ろす。
眼を閉じて自身の中を巡る魔力を鎮めながら、マリアージュはそのまま、意識を手放した。
★
「何だと?」
王都にある公爵邸で妻が倒れたとの一報を受け取ったリイガ・クレブスは執務机に落としていた顔を上げ、立ち上がった。
「今はどうしている?」
彼の腹心の部下であるルインはやや眉をひそめて報告した。
「医師の診察によると、魔力が安定しておらず、昏睡状態にあるとの事」
確認していた書類に立ち上がったまま、サラサラとサインを入れ、リイガは伝達魔法で邸内にいる彼の長男と次男を呼び出した。
そうしながら、卓上の書類の山を分別してゆく。
「これは可。これは来期。ここはまかせる」
「かしこまりました。レオナルド様には、そのように。」
ルインが書類が混じらないように、魔法で一時的な封を施す。
「失礼します。緊急のご用件とは?」
すぐに部屋に入ってきたのは次男ビジュール・クレブス。二十歳になる。マリアージュに似て細身で優しげな表情は男女問わず、その美貌で多くの者を魅了してやまない。だが、彼の内心は非常に計算的であり、自分によく似ている。
「マリアージュが倒れた」
リイガの一言に、その笑みは一瞬で消えた。
「心労ではありませんか」と、父親を睨み付ける。
「父上、どうされましたか?」
そこに、長男が入って来た。長男、レオナルド・クレブス。二十二歳。体格は自分に似て、大柄で陽気な男に育った。楽観主義的で無意識に人たらしなこの息子は、一体誰に似たのだろうと思う。
「母上が倒れられたそうだ」
ビジュールが、レオナルドをも睨み付ける。
「母上が……」
楽観主義のレオナルドもさすがに眉をひそめる。
「父上は早く領地へお帰りください。後の事は、兄上がなんとかします。私も必要があれば兄上を補助します」
ビジュールが怒っている。自分たちが、ではなく、長男がなんとかする、と言い張るあたり、多少の甘えもあるのだろう。レオナルドも少し困ったような様子はあるが否定はしない。兄弟仲が良いなと、少し微笑ましくも感じる。
「例の件は……」
「兄上が。責任を持って、解決いたします。ね。兄上」
ふふふと笑いながら、レオナルドに拒否権は与えられない。まあ、もとより、そのつもりで呼びつけたのだが。
「ルイン」
呼ぶと彼からサッと一枚の用紙が差し出される。いわゆる、委任状である。そこに自分の魔力を込めて署名する。
「レオナルドとビジュールの補助を頼む」
「心得ました。馬は用意させております」
深々と頭を下げる腹心と
「母上をお願いします」
と、頭を下げる次男。
委任状を受け取りながら
「謹んで承ります」
と言った長男の表情は、いつもと違い、若干強張っていた。
自室へ戻り、自領まで駆ける為に、服を着替える。外套を着用し、屋敷を出ようとした時、長女のリレイラが息せき切って追いかけて来た。
「お待ちください。お父様。私も、私も戻ります」
リレイラには直接伝えていなかったが、時間差で連絡が行ったのだろう。
「駄目だよ、リレイラ。君が一緒に行くと、父上が早く帰れない」
ビジュールがすぐに追いかけて来た所を見ると、次男が長女に伝えたのだろう。
「だって、お母様が!ひどいわお父様、私にすぐに教えて下さらないなんて」
そう言って、ほろほろと涙を流す。マリアージュによく似たリレイラの涙には、皆が弱い。
「ああ。悪い。リレイラ、元々、来週には領地に戻る予定だっただろう。お前は予定通り、予定を消化して戻ってくれないか」
「…わかりましたわ。お父様。お母様をお願い致します」
そう言うと、リレイラは下唇を噛みしめた。
「リイ。傷になるといけない」
たしなめるビジュールに、リレイラがしがみついて泣き始める。
「後はお任せください」
リイガは次男に向かって小さく頷くと、もう振り返らなかった。
王都の公爵邸は広い。そもそも、公爵邸の敷地を出るのにも時間がかかるが、王都を出るのには通常時間がかかる。街には人の往来があり、馬を飛ばせないからだ。
リイガは奥の手を使う事にした。転移魔法である。ただ、自領まで飛ぶと、魔力が枯渇してしまうかもしれず、王都の外までを座標として、街道側に用意していた家に転移する。
信頼できる平民を住まわせており、転移陣の発動に、少し驚いた様子が見えたが、ぺこりと頭を下げた彼と眼があった後、リイガはそのまま馬を駆けた。
そして、自分と馬に補助魔法を重ね掛けし、通常ならば三日の道のりを数刻で駆け抜けた。
☆
「気がついたか?」
ぼんやりと眼を開くと、夫の声がする。どうやら、夢をみているらしいと、マリアージュは思った。
私は眠っていたのか。ぼんやりしているからか、あれほど制御が効かなかった魔力は落ち着いている。
頭を撫でられる手が優しい。少しひんやりしていて。大きくて……
そこまで考えて、一気に現実に引き戻された。
「え?旦那様?なぜ……?」
混乱と同時に魔力がざわめく。
「落ち着きなさい」
額に手を当てられて、夫の魔力が流れ込んで来る。
「あの……」
「しばらく、黙っていなさい」
そういわれて、眼を閉じた。暖かい。
それでも、魔力はさざ波のように揺れ続け、安定しない。マリアージュは生まれつき、魔力の器に対して、魔力を生み出す量が多い。器を溢れ出てしまった魔力が体中をグルグル回り、体調を悪化させる。そのため、幼い頃はほぼ寝たきりであり、深窓の令嬢だと言われていた。
リイガは元、王族であるが、魔力の制御に長けていた上、条件が整えば接した相手の魔力を吸収することが出来た。そのため、王弟として、魔術師団に所属していたのだが、デビュタントに出席して魔力超過となり、倒れてしまったマリアージュを助けたのが縁でその婚姻が結ばれることとなったのだ。
あふれ出過ぎて困る魔力と、仕事の為、沢山の魔力を必要とした夫。
これが政略結婚でなくて、何だと言うのだろう。
「ビジュールが本気で怒っているのを、久しぶりに見た」
静かに、話しだす夫。次男に何があったと言うのか。話をする夫の顔をじっとみた。
「今回の事は、レオナルドが発案して、私とビジュールは嫌がったのだが。まあ、リレイラは面白がっていたな」
一体、何の事を話しているのか理解できずに困惑していると
「やっと力が抜けたな」と、言われて身体の中で渦巻いていた魔力が夫によって調整され、吸い上げられるのを感じた。
具合の悪さからは解放されるが、脱力感に襲われる。
「ガイゼル伯爵家の出戻りにポデュール婦人というのがいるんだが。寡婦なのを口実に、魔力を込めた禁止薬物をパーティーでばらまいていた。その取り締まりで、乗り込みたかったのだが、現場を押さえるのに、男女の組み合わせでないとパーティー会場に入れないような仕組みになっていた」
夫が王都での仕事の話をするなんて珍しいと思って話を聞く。
「レオナルドが行けば良いと思っていたんだが、あれの嫁は妊娠していて行けないし。そもそもレオナルドもビジュールも、今は顔が割れすぎている。最近、あまり表向き、には外に出なくなった私の方がかえって顔が知られていないという状況でな」
そこまで言って、夫は少し言葉を切った。
「レオナルドが、俺に現場に行ってくれと言うもので。代わりを立てようと思ったのだが、口が堅い者で、伝達魔法に長ける者に適任がおらず。結局、俺がその場に行くことになった。挙げ句、女性の方が突入時に危険にさらされるといけないということで。ビジュールを女装させた。それから、女装したビジュールが愛人などという噂が立ってしまい、屋敷の者への説明は終わったのだが、屋敷外に事の内容を伝える訳にもいかず、揉み消せる所はすべて潰したが、まさか、ここまでその噂が届くとはな。だから、何度も言うが、発案したのはレオナルドであって、俺では無い。俺は愛人など囲ってはいないし、浮気もしていない。いいか。俺の妻は君だけだ。今までも、これからも。ずっとだ」
よくもまあ、そんなに一気に話せるものだという勢いで、一気に話した夫は、最近一人称を私、と言う事が多いのに、本人も気がついていないのか途中から、それこそ若い時みたいに、俺、と表現している。
この、冷静で優しい人も、少し動揺しているみたいだ。なんて思うと、フフッと、つい、笑ってしまった。
「笑うな。いや、君が笑うのは良いことなんだが。なんだか違う。釈然としない。断じて、あれは本意ではない」
すねたような、そんな夫を見るのは久しぶりだ。
「お仕事は、大丈夫でしたの?」
「大丈夫だろう。ビジュールがレオナルドに責任を取らせると息巻いていたし。ルインが上手く補佐するだろう」
「まあ……。大丈夫かしら?」
楽天的でアハハと笑う長男を思い出して呟くと、覆い被さるように、ギュッと抱きしめられた。
「まあ、おかげで六日は君とゆっくり出来ることとなった。何か食べるか?午前中に倒れて、何も口にしていないのだろう」
そう言われてみると、喉がカラカラだ。空腹感は無いが。
「そうですわね。食欲は無いのですけれど。あまりに食べていないと、次の食事が入らなくなるといけませんね」
「粥と果物ならば入るか?」
「ええ。少し」
夫は隣から動かない。家令への指示は伝達魔法で飛ばしたらしい。
よく見ると、部屋のソファに外套が投げ出すようにかけられているし、その格好は、夫が馬で駆ける時の服装だと気がついた。
「あの。帰ってからずっとここにいらっしゃるの?」
「そうだが。どうした?ああ。すまん。外を駆けてきたから、埃っぽいだろうか」
ちょっとすまなさそうな表情の夫。
「いいえ。お日様の、良い匂いがしましたわ」
自然に出た笑みを見て、夫が笑う。
そこには穏やかな時間があった。
彼らが乗り越えてきた幾多の苦難や喜びの話は、機会があれば、また。
時代はすでに彼らの子や孫に引き継がれようとしている。
★
幾分暮らしやすくなった世界で、老公爵と呼ばれるようになった夫は、妻を膝に抱えて手ずから粥を口に運んでその幸せを噛みしめるのである。
十歳年下の妻は、昔も今も、少し甘やかされるだけで慌てて頬を染める。膝に抱えるなど、子供達がいると、絶対に許してくれないであろうが。その意地っ張りも可愛い。
だから、少しだけ。この可愛さを堪能しようと思う。
本来ならば社交に出るはずの公爵夫人を、一切社交の場に出さなかったのは自分の我が儘だ。深窓の令嬢という噂で良かった。元々、中立派の令嬢で、政治的煩わしさは最小限に抑えられた。妻は本当は健康を取り戻しているが、年々美しくなって容姿の衰えを感じさせないこの妻を他の貴族に見せるつもりも無い。
そんな内心を次男はとっくに気がついているらしい。楽天的な長男と、長女はまだまだだが。子ども達は何かあったら、全員が私より妻の味方をするだろう。
それでいい。
それがいい。
そんな事を考えながら食事を介助していると
「老人になったような気がして嫌だわ。何が楽しいんですの?」と、呆れたように言われた。
先ほどから、食事は自分で出来ますと言って聞かない。
「君がかわいらしいから仕方ない」
と言うと、見る間に頬を染める。
何度となく繰り返される似たような会話。
「からかわないでくださいっ」
と言いながらも口を開いて粥を食べる。
老公爵は、その最愛を腕に、ご機嫌である。
お読みいただき、ありがとうございました。
次作は、明るめのお話、30話ぐらいを予定して書き始めてます。
またお目にかかれますように。