プロローグ
体が熱い。
重い瞼を開けると、液体の中に浸かっていた。壁に寄り掛かって足を前に投げ出した姿勢で、膝小僧が液面から顔を出すくらいの浅さだ。ぼやけていた焦点が次第に定まってくると、液体に粘性があることが分かった。
徐々に視界が明瞭になるとともに、意識も覚醒しつつあった。とりわけ最初に思ったのは身体の節々が痛む、ということだ。これまで経験したことのないありとあらゆる痛みを感じ始めているが、こんな痛みを伴う事故に遭った記憶はない。それに、この蛙の口の中みたいな場所に、何故自分が居るのかも分からなかった。
とにかく、この気持ち悪い場所から出たい。
その気持ちを燃料に、立ち上がろうと右の手を壁に掛けようとしたらーー
「う、うあ、ぁぁあ、あああああああ、ぐガ……!!」
尋常ではない痛みに襲われ、反射的に喉から絶叫が飛び出た。右手だけじゃない、立ち上がるために力を僅かでも込めたところ全てが悲鳴をあげた。激痛に硬直した身体は、ばしゃりと音を立てて俯せに倒れてしまう。
口の中に入ってきた液体が酷く酸っぱくて、思わず顔をしかめると同時に、このとき気づいた。
(これ、胃液だ)
目の前に浮かぶ、薄っぺらい何かが目につく。
酸で爛れて剥がれた自分の皮膚だ。
瞬間、複雑な痛みの中からヒリヒリとした痛みが首をもたげた。皮膚が剥がれたことで露出した肉の隙間から身体の内側へと、肉を溶かしながら侵入してくる胃酸へ強烈に意識が向かざるを得ない。
こうしてる今も、今度は顔の皮膚が溶かされていっているのだろう。自分が消化されていく様を想像してしまい、絶望が自身を襲った。なんとかしようにも、立ち上がることしかままならないこの体で、どうすればいいのか。
レイク・ディーフェンブルーの生はここで人知れず潰えることになると意識してしまうと、脳裏に浮かんだのはリーリアお嬢様の安否だった。
リーリアお嬢様。王国を支える最も貴き家の一つ、アクエル家当主の次女。
貴族界隈では、特段の事情がなければ年長者が家督を継ぐのが習わし(上から何番目の子供なのかによって受けさせられる教育の内容が変わるため、必然的に長男長女が家督を継ぐことになる。)の中で、リーリアお嬢様は誰にも分け隔てない性格から、周囲からの信望が厚かった。それは家内に限られることなく、友人関係であったり、領民であったり、広範囲にあたる。
故に、次女であるが領主にと望む声が多くあった。ご本人はいつも否定されていたが、この状況に危機感を覚えた者がいた。リーリアお嬢様の姉にあたるラフィーネ様だ。
リーリアお嬢様の暗殺を企て、実行されるすんでのところで察知し、脱出できたのはよかったものの、無関係の賊に囚われ、その過程において、レイクは大型の魔物の餌にされてしまった。
(そうか、ここは魔物の腹の中でした)
魔物に食われたけど運良く助かった、なんて話は聞いたことはない。レイクは自分の死を完全に悟った。
「神よ。いや神でなくてもいい。どうかリーリアお嬢様をお救いください」
この願いが届かないのなら、この心、この身体、すべてを悪魔に捧げても構わない。
レイクの死に際の願いが誰に届き、聞き入れたのかは分からない。されど事実として、レイクの意識が消失した瞬間、彼の両足は治り、徐ろに立ち上がると、白色に染まった右手が魔物の腹を内側から突き破り、同じように染まった左手が分厚い肉の壁に風穴を開けた。そうして肉壁にできた穴に指を立てて両の手で腹を引き裂いた。
拡がった穴から、光と絶叫が差し込む。そこから外へ出られないこともないが、今出たところで魔物に殺されるおそれがあるため、留まったのまではいいが、その後彼は信じられない行動に出た。肩まで肉壁に埋めて、そのままブヂブヂと音を立てながら肉壁に沿って歩き始めたのだ。
壁は汁を吹き荒らしながら引き裂かれていく。レイクが一歩を踏み出すたび、大地と大気から伝わる唸りが大きくなる。何度も天井と床が入れ替わったが、着実に前へ進んでいった。半周に差し掛かったあたりから徐々に鳴りは小さくなっていき、最後に孤は円になりーー
上を見上げると、夜空が白み始めたところだった。
木々はなぎ倒され、土は掘り起こされて凹凸ばかり。視線を横に向ければ、火災も発生していた。周囲は荒れに荒れていた。
どれも魔物が暴れた痕だ。
後ろには体を真ん中で上下に分かたれ、半分の10メートル弱になった巨体が横たわっている。まだ苦痛の声が聞こえるが、確認するまでもなく虫の息だ。
「これを、私がやったのか?」そう声に出そうとしたが、喉が動かなかった。それどころか自分の意志とは関係なく視界が右、左と変わる。自分の体が勝手に周囲を見渡しているのだ。
これは本当に悪魔に身を売ってしまったのかもしれない。そう心のうちで呟いたレイクの頭に、自分のものではない記憶の一部が流れ込んできたことで、再び意識を手放すのであった。