序章の一 マリン=シピットの傍白
白い両開きの扉の前で、私は一つ大きく深呼吸をしました。
『シェルリースの皆さま、おはようございます。本日は星暦501年5の月、1日です』
機械か魔法かで拡声された女性の声が、建物の外で響き渡っています。
『密入国、密航によりご滞在の方へ、ご案内致します。当区は、聖石保護特別自治区です。ご自身の安全のため、まずはお早めにセントラル区役所、サウスポート、ドリス教会のいずれかへお越し下さい』
私は今、セントラル区役所の中にいますので、大丈夫だとは思うのですが。密入国者へご案内…とは、なかなか攻めた言葉を選択されていると思います。関所の機能が完璧ではない、ということを堂々と認めているようなものでもありますし。
『ライセンスカード、もしくは滞在証の取得にご協力をお願い致します。セントラルより、お知らせでした。バージャ・コン・ディオス、良い一日を』
放送が終わり、私は改めて扉を見つめました。この扉の先には、この地で最も偉い人がいらっしゃるのです。緊張しないはずがありません。スカートの裾がめくれていないか、衿が折れていないか、私はもう一度確認しました。
中で待っているのは、お髭のおじいさんでしょうか。それとも、厳しい表情の軍人さんでしょうか。男の人である、ということしか今の私は知らないのです。
(上手くやらなきゃ…)
ノックをしようと手を近づけた途端、その扉はひとりでに開きました。思わず声が出そうになりますが、どうにか耐えました。
部屋の中から、どうぞお入り下さい、と若い男性の声がします。
「失礼致します」
私は声に従い、その部屋へ足を踏み入れました。香が焚かれているのか、林檎のような香りがして少しだけ嬉しくなります。こんな良い香を焚く人です、優しい方かもしれません。
部屋の奥には大きめの机があり、深緑色の髪の男性が書類に目を通しているようです。壁には一つ一つ釉薬を塗って焼かれたような、色とりどりのキューブが敷き詰められていました。真っ白な太い柱との対比がとても素敵です。同じ厳かでも、もっと冷たい感じの部屋を想像していましたが、教会のステンドグラスを見ているような心持ちです。
机の前には立派なソファーがあり、私は深緑色の髪の男性から、そこへ座るように言われました。
「このシェルリースのシティーリーダーをしております、トゥキ=ヴェネックと申します」
大国に囲まれていながら、小規模とはいえ例外的に自治を維持しているのが、ここ、シェルリースです。国であるという宣言をしていないだけで、実質的には小国と言っていいのではないでしょうか。シティーリーダーとはつまり、国王のようなものでしょう。
せっかく消えかけた緊張が私の背中を叩きますが、屈するわけにもいきません。私は、ここの住民になるためにやって来たのですから。
「どうぞ楽になさって下さい」
この自治区をまとめていたのは、私が想像していたよりも、ずっと若いリーダーでした。
トゥキ様のお話によると、自治区でありながらシティーリーダーという肩書きなのは、この場所をセントラルシティーと呼ぶ、昔からの伝統に従っているのだそうです。
「では、始めましょうか」
ここで初めて、私に発言の機会が訪れました。
今更ですが、部屋に入る時に私の名前をお伝えするべきだったでしょうか。トゥキ様から先に自己紹介して頂いてしまったことを悔やみます。
「申し遅れてまして申し訳ござません!」
最初から噛んでしまいました。申し遅れてまして、って…ござません、って何でしょう。耳まで真っ赤になるのがわかります。
慌てふためく私に、トゥキ様はゆっくりで構いませんよ、と仰いました。
「私は、区民志望の、マリン=シピットと申すます!…申します!」
ああ、穴があったら入りたいです。誰か埋めて下さい。
「マリンさんですね。書類の方は確認致しました。星暦481年生まれ、20歳。肩書き登録は保育士、レベル31認定となりますね」
トゥキ様が聞こえないフリをして下さって、私は少し冷静さを取り戻しました。
肩書き登録というのは、職業または特殊技能を行政が把握するための制度です。
限られた人材の中で効率よく仕事が割り振れるので、シェルリースでは中心的な役割を果たしている制度のようです。なお、人によっては複数の肩書きを登録する場合もあるそうです。
他の国とも共通した制度のようですが、田舎から来たばかりの私は、残念ながら詳しくありません。
「書類提出時の肩書き別簡易試験と実務年数から、規定に従って算出したレベルになりますので、御了承下さい。更新の際に改めて、レベル認定試験を受けることが出来ます」
なお、レベル30超えは、ギリギリ見習卒業のレベルとのことです。…ところで、上限はどのくらいなのでしょうか。私には無縁のことなので、知らなくてもいいのですけれど。
「ライセンスカードの発行は、役所の二階で行えます。シティーミッション…仕事の受注に必要ですので、早めの手続きをお勧めします」
「はい、承知しました」
「さて、区民として受け入れるにあたり、二つばかり確認させて頂くことになっております」
トゥキ様は私が頷いたのを確認してから、ピッと人差し指を立てました。
「まず一つ。あなたがシェルリースに害なす者と判断が下された場合、我々はあなたを敵とみなし、相応の行動をとらせて頂く」
一つ目から、穏やかではない話です。
「これは、聖石保護特別自治区の自衛権として理解を頂きたい。それに依存はありませんか」
「ありません」
私は詳しくないのですが、自治区は聖石という十神教の教義上、大変貴重なお宝を保管していて、その役割から自治を認められている?とか…そんなのだった気がします。もっと新聞を読んでおくべきでした。
ちなみに、十神教というのは『最大多数の幸福を願う』という身近な教えで、国境を越えて世界中に教会があります。
とにかく、先ほどの放送にもありましたが、区民になるための手続きが特殊なのは、その聖石を護るためなのだと思います。
「ではもう一つ。あなたは魔導士ですか」
…きました。やはり、この質問はされるのですね。
心臓をギュッと握られたような不快感は、覚悟していても嫌なものです。
「いいえ、違います」
上手く笑えていたでしょうか、心配になります。
「この質問は、魔導士排除を目的とはしておりません。区民となられた後、公務員として仕事をしませんかと勧誘するためのものです」
トゥキ様は私の顔が引きつっていたのか、じっと私の顔を見ておられます。この先へ進むには、どうしても私自身で話す必要があるようです。
「私は魔導士ではないのですが、母が“目覚めた”ので、後々目覚める可能性があります」
口にしてから、吐き気を催してきました。恐怖感と嫌悪感で、体が震えそうです。でも問題ありません、この程度なら大丈夫です。あの時の酷い地獄に比べたら。
「なるほど。では、差し支えない範囲で、区民を希望される理由をお願いします」
私は、一向に収まる気配の無い吐き気に耐えながら、説明を始めました。ここからする話は、楽しい話ではありません。
(結論を先に述べず、まずは感情に働きかけること、です)
「私の暮らしていた村は、過去に魔導士と魔物、凶暴化したエルフによって破壊されたことがあります。村人の半数近くが重傷を負い、多くの人が亡くなりました。私の父と兄も、その時に亡くなっています」
「お悔やみ申し上げます。最近、そのような事件が増えており、我々も心を痛めています」
トゥキ様のお心遣いに感謝し、私は話を続けました。
「村でその魂を慰める祭…毎年行われる慰霊祭の準備をしていた時のことです。前触れ無く母の掌から緑色の炎が吹き出しました。驚いた私は、無我夢中で母に水をかけたことを覚えています」
「口を挟んで申し訳ない。その時にお母様は何をなさっていましたか?」
「私と二人で井戸から水を汲み上げていました。私は、母にその時汲んでいた水をかけたので」
「わかりました、続けて下さい」
「しかしその炎は消えず、湿気って燃えにくいはずの井戸の屋根は、瞬く前に燃え落ちました。普通ならばあり得ない現象を、私は目の当たりにしたのです」
緑の炎とこの世のものとは思えない叫び声。思い出したくもない地獄が、脳裏に浮かんできます。
優しかった人たちが…魔導士とエルフが豹変し、逃げ惑う人に襲い掛かっている映像が、いつまでたっても記憶から消えないのです。その時に村を覆いつくしたのも、緑色の炎でした。
「誰かが、悪魔が目覚めた、覚醒者だ、と叫ぶ声がしました。見られていたのです。私の目の前で起きたのは、明らかに魔法の暴発でした」
農業をしたければ農法を学べば良い。戦士になりたければ戦闘を学び、師の元で修行をすれば良い。けれど、魔導士だけは別です。
普通の人間は魔法が使えません。魔法を使うための魔導器官が、機能しないからです。
「私の家系に魔導士はいません。それなのに、母は魔導士に目覚めてしまった。魔法の知識がない私たちには、どうすることも出来なかったのです。緑色の炎は過去の悪夢として、村の誰もが覚えていました」
喉が渇いてきましたが、声はかすれていないでしょうか。
「母の手の炎は、それから程なくして消えましたが、魔導士を憎む人々に母は吊し上げられました。そして慰霊祭の捧げものにされ、理不尽な暴力の果てに亡くなりました」
(大丈夫、私は上手く話せています)
自分に言い聞かせるように、私は当時の気持ちを話すのです。
「母は井戸の屋根を燃やした“だけである”、と言えばそうなのですが、あの緑色の炎が全てでした。子である私でさえ、嫌悪と恐怖を覚えなかったと言えば嘘になります」
人にとって、魔物やそれに近しい魔導士は忌むべき存在なのです。
「私自身も、魔導士に対して良い感情は持てません。私は、私が“それ”になってしまうかもしれないことが怖くて、村を出ました」
ここまで話せば、私がどうして“滞在許可申請”でなく“区民申請”をしたかわかって頂けるでしょう。
「今もどうしようもなく怖いです。でも、もう家族のいない私には、行くところがないのです」
トゥキ様は何やら目を閉じて思案なさった後、パンッと手を叩きました。…少しびっくりしました。
「わかりました。詳細にお話し頂きありがとうございます。…と、まぁ面倒なのは以上っス」
急に砕けた話し方になられたので、さらに驚く私です。先ほどまで、深刻で楽しくない話をしていたはずなのに、上手いこと感情が追い付いていません。
「失礼します。終わりましたか」
背後で別の男性の声がしました。私が振り返ると、金髪に青眼のキラキラした美人が立っています。
「おー、今日はあと一名だな。…と、失礼。マリン=シピットさん、あとは区民の儀式で終了なんで、そっちの金髪イケメン野郎と世間話でもして、時間までお待ち下さい」
いつものことなのか、その金髪の美人さんは眉一つ動かさずに一礼しました。
「どうも、金髪イケメン野郎です」
「ふ、ふふふっ!…すっ、すみません、よろしくお願いします」
思わず笑ってしまい、私は慌ててソファーから立ち上がり、頭を下げました。確かに、謙遜など必要のない美人さんです。
「ラディアスと申します。普段はフリーターですが、この時間だけトゥキリーダーの下僕です」
「ちょっ、言い方考えろ!自分はそんな扱いしたことないっス!」
トゥキ様の先ほどまでの御様子からは想像出来ない慌てっぷりに、私はまた笑いそうになってしまいます。
「さて、待合室に移動しましょうか」
あちらです、とラディアス様は真顔のままで続けられました。
「せめて、冗談です、の一言くらいあってもよくねっスか?!」
「下僕は、逆立ちした時にしか冗談が言えないのである。十神話第四章、パトリエルの独白より」
ラディアス様の脈絡の無い言葉に、トゥキ様が戸惑っておられます。もちろん、私も戸惑っています。
「…ん、おぅ?」
「トゥキリーダーを煙に巻きたいときは、神話の一説を物知り顔で言ってやれば一発です。マリンさんも覚えておくと良いですよ」
そんな一説、初めて聞きました。勉強不足です。ラディアス様の小粋な冗談だったのかもしれませんが、相変わらず真顔なので判断できません。
いくらか緊張も解けたところで、ラディアス様に従って待合室へ入りました。
「本日はあと一名、先ほどあなたが受けられた面接を行い、最後に儀式を受けて終了です。住居はご自分で探されますか?こちらで手配した部屋ならば、本日入居出来ますが」
ラディアス様の淀みない声に聞き惚れていたせいで、私の返答は少し遅れてしまいました。
「あっ、はい!ありがたいです!あの…お金は…とりあえず標準の二ヶ月分くらいはあると思うのですが」
「支払いの頻度や方法は役所の窓口にご相談下さい。ライセンスカードの発行後はシティーミッションも受注出来ますが、ご希望であれば、シティーからも仕事をご紹介します。額は…」
それからラディアス様は、丁寧にシェルリースのこと、ここセントラルシティーのことを教えて下さいました。
私は出して頂いた林檎の香りの紅茶を飲みながら、明日からの生活を想像してみました。
長期ミッションを受注される、戦闘職の方のお子さんを預かるお仕事をしてみようかと思います、とラディアス様にお話しすると、それはとても良いお考えです、と仰いました。話を聞くと、保育士が不足しているようです。
「シティーの職員にも、やむを得ず子連れで出勤する者もいますし、すぐにでも仕事が決まるかと」
「それはありがたいです。あの…ラディアス様は、シェルリースがご出身なのですか?」
「そう見えますか。いいえ、ここへ来たのは数年前です」
少しだけラディアス様が困っているように見えて、慌てて謝罪しました。美人の困惑の表情は胸が痛みます。
「すみません、無遠慮にお聞きしてしまって。お詳しいのでそうなのかな、と」
「いえ、俺は大丈夫です。手軽な話題ですからね。ただ、シェルリースには様々な事情を抱えた人が集まっていますから、ご自身のためにも出身の話題は少し慎重になった方が良いかもしれません」
確かにその通りです。
私もあまり、自分の話はしたくありません。トゥキ様にはつい話してしまいましたが。
「これから区民になるあなたに言う事ではないかもしれませんが、ここは各国からの亡命者の受け皿でもあるのです」
また、聖石の存在によって十神教の保護もあるので、各国も簡単には手を出せないのだとか。害を及ぼす者は、そのことを逆手にシェルリースへ来る…追われる者も、追う者も、ということでしょうか。
「滞在手続きを無視する身元不明者、他国からの逃亡犯…犯罪者も正直、少なくはありません」
「例の怪盗とか…?」
私の唐突な問いに、ラディアス様はまた困惑したようでした。犯罪者は怖いですが、マリン=シピットの好奇心は抑えられません。そういうことにしておいて下さい。
「怪盗、ですか?」
「白羽根の怪盗です。帝国の“黄金の林檎”や“深緑の宝珠”を盗んだ、正体不明の怪盗。ご存知ありませんか?」
大胆にも予告状を出し、ターゲットを盗むついでに悪事を暴く義賊。ミーハーな田舎者だと言われてしまえば、そこまでですけれど。
「噂には、少し。もう一年も帝国が追っているとか。帝国の怪盗がシェルリースに逃げこむ可能性も、確かに無いとは言い切れませんね」
「そうですよね。ここに来る途中、新聞で記事を見たので気になって、つい…」
なるほど、そのお気持ちはわかります、とラディアス様はフォローして下さいました。
「色々脅かすようなことも申し上げましたが、ここを攻めて手に入れる価値があるものは、聖石くらいのものだ、とリーダーはよく言っていますよ。件の盗賊が狙うとすれば、それくらいでしょう」
ラディアス様はそう仰ってから、何か他に質問はありますか、と仰いました。
そこで、私は思い切って尋ねました。
「あの…料理が美味しいお店を知りたいんですけど」
ラディアス様は、私の質問に初めて笑みを浮かべました。…そう、ここまできて、やっとです。
「それならば、自治区北、“白月の湖”の畔にある、白緑亭がおすすめですよ」
うっ、その笑顔は反則です…!
(蛇足ですが、恋人はいますか、とは流石に聞けませんでした)
お読み頂きありがとうございます。
少しでもお楽しみ頂けましたら幸いです。
「序章」を冠した話はあと一話だけ続きます。
よろしければその先もお付き合い下さい。
それでは、また次回。