9大臣
血の神ロゼウスは、人の血も獣の血も求めた。
神々は彼のためにメリデュナスの庭を与えた。
ロゼウスは庭の血肉を喰らいつくした。
それでも足りないと庭を出て、さらに血を喰らった。
喰らうごとに暴虐は増した。
そして氷の神の命を受けた、実弟のロウキスに敗れた。
ロウキスは山の神となった。
「戦いの跡地が、この平野になった」
ペールは神話の書物を閉じた。
それは大陸で広く語られる、堕ちた神の話だった。
この大陸では血神ロゼウスは蛮神と呼ばれ、忌み嫌われている。
「庭という名の牢獄ですな」
カッツェも何度となく読んだ神話だった。
もうすっかり老齢になったが、この白髪の分ほど聞いてきた筈だ。
「もっとよい庭を与えたらと、若いころはよく考えておりました」
「建設大臣らしいな。……君はどう思うかね?」
笑いながらペールは、もうひとりの男に尋ねた。
彼はこの三人の中では新参で、やや控えめに立っていた。
なかなかに度胸の座った男だと、建設大臣のカッツェが誘い入れた男だった。
「身の程に、ということですかね」
そのライナーも、もちろん知った神話だ。
子供のころによく聞かされたしつけ話だった。
欲を張るとその血の神にように退治されるというものだ。
「そうだ。身の程という理がある」
ペールは足元から、高い天井へと視線を移した。
たるんだ顎下の肉が伸びた。
王城内でも、財務府の執務室はひときわ豪華なものである。
それは王政の行政機関の中で、もっとも強権を有していることを表していた。
財務府は王家の秘書官も、例えば書簡の作成や外交補佐なども抱えている。
つまりその大臣であり秘書官長でもあるペールは、現宰相に次ぐ権力を持っていた。
「弱者には、弱者の身の程というものがある」
カッツェとライナーは、これも何度聞いたことかと薄く笑っている。
「そして強者には、強者の身の理というものがある」
構わずペールは熱を帯びた持論に浸った。
「貴族に振り回され、官僚の言いなりになり、民に媚び、連盟主のロワールにへつらう!」
ぶ厚い執務机に握りこぶしが打ち下ろされる。
大木を叩いたような低い音が、机上の瓶の数々を鳴らした。
ふくよかな腹の肉が揺らしながら、なおも強い口調は続く。
「王は何もわかっていないのだ、強き者のあるべく姿を!」
ペールは高い理想を持っていた。
その理想は国王に向けてもいた。
だからこそ窮屈な思いを、長年積んできたのだ。
はるかに強い王を中心に据えれば、おのずと国はまとまるのだと。
残りの二人は同意、というか愛想のように何度か頷く。
それは一理あると、肯定的に捉えていた。
迎合というものはこの大臣の嫌うものだった。
だからこそ、各々の理想を浮かべ、信用されてこの場にいるのだ。
考えが異なりながらも、この国の姿にそれを重ねているのだ。
「強き姿に変わってもらわねばならない!」
執務室にノックが響いた。
堅苦しい木の扉に、牛の頭をかたどった金具を鳴らす音だ。
「積年の願いだったのだよ」
ペールは扉に向かった。
牛はバンズクラフト王国での富の象徴である。
その富を、王領や諸貴族からの徴税や、王家の資産管理も担う財務大臣には、相応の報酬が与えられていた。
しかしながら、王は倹約を好んで質素にふるまっている。
あまり派手な散財は、王派の官民にうとまれるのだ。
王さえ強くなれば、臣下も強くいれるのだと。
王こそ権威を見せつけ、臣下を従えるべきだと。
そこには鬱屈した思いすらあった。
それも今日で終わりにしようと、装飾の重い木の扉を開けた。
城内の奥はさらに厳粛な空気がたたずむ。
王政に直接関わる執務室が並んでいるからだ。
廊下にも敷かれる絨毯に、ひとつ息を吐き出してパレットを止めた。
装飾のついたその荷台とワイングラスが、廊下の静かな明かりを返す。
メイドの女は緊張していた。
重厚な木扉の金具を丁寧に打つと、忘れていた息を吸い込んだ。
入室の声が掛かるのを待っていたが、扉を開けたのは大臣その人だった。
驚きを飲み込んで、習った作法を反芻するような思いでお辞儀をした。
「すまないね、こんな夜更けに頼んで」
「いえ、遅くまでご政務のほど恐れ入ります」
さらなる大臣の気遣いに、余計に驚いた。
まだ新人にも近い使用人に対して、次期の宰相とも呼ばれる高官が出迎えて、ねぎらいの声まで掛けたてきたのだ。
精一杯に言葉を選んで、パレットからトレイを持ち上げる。
空のワイングラスが三つ、執務室からの明かりに煌めいた。
「三つと仰せつかりましたが」
「ああ、そこに置いてくれたまえ。建設大臣と通商大臣も呼んでいてね。いいワインが入ったので振る舞おうと。ああ、政務じゃないから気にしないでくれたまえ。息抜きというやつだよ」
おどけたように言う大臣に、少し気がほころんだ。
銀に揺らめくトレイを、入ってすぐの促された小机に置いた。
あの衝立の向こうに、その二人の大臣がいるのだろうか。
少しだけ気になったが、これ以上は単なる使用人の応分とは違うと、丁寧にお辞儀をして退室した。
ぶ厚い木の扉を閉めて、ふう、とメイドは呼吸を落とした。
パレットに手を遣って、厨房に戻ろうとして頭をひねった。
「ソムリエナイフはあるのかしら」
お節介かもしれない。
しかし気の緩みから、もうひとつ心配りをしてもいいんじゃないかと考えた。
真っ白なエプロンのポケットを確かる。
王城ではさまざまな雑役をするために、ワインを開けたり、縫物に使う編みかぎ針などの小道具を携帯していた。
また呼ばれたら、この長い廊下を渡るのも時間が要る。
ともすれば、よく気が利くと褒められるかもしれない。
様子を確かめるくらいならいいだろうと、扉に手を掛けた。
しつこくノックをするのも失礼ではないかと、そのまま覗いたのだ。
長年の付き合いならわかったかもしれない。
ペールという大臣は、酒を飲まなかった。