39小鳥
森には、夜のフクロウに代わって小鳥の数々が、その囀りを響かせる。
王城の二階からもそれは聞こえていた。
生まれたての太陽を祝福するように、新しい一日を歌で始めるように、気持ちを落ち着かせる風の音色だった。
王城の周りは木立が包み、新緑の季節を物語っている。
閑寂な墓地庭園には、魂を鎮められるような木漏れ日が吹く。
徹夜明けの役人たちは、まぶたの動きを遅くし、昨夜の凶変を洗い流すように、朝日を感じていた。
それとは裏腹に、忙しなく身体を拭く姿があった。
石積みのアーチからの朝日は、部屋を広げ続ける。
「髪はどうしよう。綺麗にまとめないといけないのですよね?」
「櫛をお通しします。それで結構かと。ご所望ならお束ね差し上げますが、あまりお時間を取られるのもいかがかと……」
メイドが布を絞り、顔、首、背中と、順に汚れを落としていく。
顔には傷やアザがあったが、沁みるのを我慢していると、優しく微笑んで、軽く指を這わすように拭いてくれた。
「あの、他は、自分で拭きますから……」
「そうですか……どうぞご遠慮なく。手の届かない所は、何なりと申し付けくださいませ」
やはり、どうせなら夜のうちにやってもらったほうがよかったと、アキは縮こまった。
手桶の水は冷たく、身体を拭いていると一層に目が冴えていく。
布をゆすぐたびに、桶水は泥を濃くしていく。
これが、この数日ほどの辛苦の形なのだろうか。
全身についた不幸を落とすように、胴を、脚を布でこすった。
深い眠りの中で、炎に包まれる夢を見た。
逃げ場もなく、寸前の恐怖に脅えていた。
なんとか走ろうとすると、足が重くて力が抜けていく。
悪い夢であったのはわかっていたが、目覚めてしまうのもまた怖かった。
そよ風が頬をなでて、夢を払った。
今度は幻ではないかというくらいの、煌びやかな部屋に体を起こした。
窓を開けていたメイドの微笑みは、朝が訪れたことを告げていた。
「今日は良い天気になるでしょう。お手持ちの衣服も、乾くと思いますよ」
「それは、ありがたいのですけど、その衣装は……」
寝間着を床に、全裸もあらわに身体を拭く手を止める。
「儀典室の者からお借りしましたが……お気に召しませんでしょうか」
「いえ、あの、できれば、もっと普通の……失礼のない程度でいいのですが……」
困ったようにメイドは、その装飾の豊かなドレスを見つめると、替わりを見繕いに行った。
布を這わせる身体をよく見ると、至るところに打ち身や生傷がある。
こうも明るい部屋で、自分の身体を眺めたことがあったか。
自身について、よく見る機会があっただろうか。
傷ひとつない床を、朝日が照らしている。
滑らかな乳白色の床だ。
それを見遣って、無礼のないように清めなければと、手を焦らせた。
いくらこすっても、傷やアザは消せないのだが。
少なくても村では、傷を負わせられるようなことまではなかった。
ただひたすら、麻を抜き、皮を剥ぎ、繊維を取る。
糸にして、布を織り、刺繍を縫い付ける。
一日中、いずれかの作業をさせられていた。
山賊にさらわれてからを考えると、村での生活のほうがよっぽどましだろう。
もし村を出されなければ、今もそうしていたはずだ。
そのヘンプ彩布の密輸に、村を捨てられた身で、戻ることはできない。
戻って何になるだろうか。
外の世界を知った今で、同じような日々に耐えられるだろうか。
前と同じように、希望を待ちながら生きていけるだろうか。
心の動きを止めて、何も考えずに、働くだけの日々を送れるだろうか。
我慢できていたはずのことが、それに疑問を持ってしまえば、もう戻れないのだ。
これは救いなのだろうか。
あの少年、キルハが、その姿で教えてくれた。
あのサーラも、自分で自分を助けようとしていた。
いくら辛苦を耐えようと、動かなければ、期待は慰めでしかない。
希望は常に持ち得るものだ。
待たずとも、信念で持ち続けるものだと。
苦難は去ったのだ。
きっと、どうしようもなかったことは、すでに去ったのだ。
あとは、自分の力で、芽吹いて育つべきのだ。
同じ王城の二階、応接室には、女王と二人の騎士が待っていた。
キルハは、市政舎の地下でモンスターと遭遇したところからを話し、スフィーダとディグベルクは、考えを巡らせながら聞いていた。
そして、経緯がまとめられていくと、おぼろながらも全体像は浮かび上がる。
「モンスターの入手、そして檻からそれらを解いたのも、ライナーのようですね。他に徒党を組んでいたのでしょうか?」
「……取り調べでは、相変わらず三名だと。あの状態なので信用はできませんが。建設大臣だったカッツェが隠し通路を把握し、秘書官長でもあったペールが蛮神の儀式を準備できた、という点では、不自然はないかと」
「本当、考えてもわからないわ。弑逆でありながら王位は望んでいないようでもあったし」
「それは……人が狂ったとしかいえません」
「人は狂うもの、として覚えておきましょう。それより、あの怪物、それをどうやって屠ったのですか? お二人共、腕が立つのはわかりますが、副団長ですら、しばらく動けないんでしょう?」
「どうやってと仰られましても、そういったことは、陛下のお耳にはそぐわないかと。個人的には、キルハの武勇を聞きたいのですがね」
「あ、いや、俺は、なりふり構わずで……」
扉が音を打った。
女王は、待ちわびたとばかりに、中に入れるように声を跳ねさせる。
キルハは、誰が自分の他に呼ばれていたかの見当はついていた。
しかし、メイドに付き添われて入ってきたその姿に、一瞬だけ別人のように映った。
理不尽ながらも汗泥にまみれていた姿が、こざっぱりと清楚なものになっていた。
顔には青アザが残るが、それほど目立たなくなってきている。
髪も綺麗に、簡素ながらも編まれて、馬の尾のように揺れていた。
その衣服は、主人付きの礼装で、身体中を端正に引き締める。
形だけなら、乗馬競技でも出場しそうに、凛とした装いだ。
短い丈の上着は、前開きに襟を立てて、エリス銅の飾りボタンの色気を匂わせた。
中着のベストは胴をきつく、きっちりと革紐で編み上げられる。
ぴったりと脚に這うようなズボンは、蛍石を割ったようで、膝からはさらに細いブーツへと繋がり、コツコツと靴底を鳴らして歩き出す。
目立たない容姿だと思っていたが、これほど着映えするとは思っていなかった。
当のアキも、気慣れない服に困惑していた。
それ以上に、女王の身なりの品のよさ、それに仕える二人の中に、なぜ自分がこの場に招かれたのだろうかと、身も心もきつく挟まれたようだった。
お茶を淹れるメイドを伺うが、お菓子を並べ始め、助けの視線が合わない。
色とりどりの細工菓子は、小鳥の形に焼き上げたもので、銀やら白やらの薄い皿に盛られている。
まるで見たこともなく、さっき廊下で、特別なものなのかと尋ねると、そっけなく色添えです。と答えられたものだった。
テーブルの傍らに立ち、どういった振る舞いをすればいいのかと、ぴっちりとしたズボンの生地を、横につまんで頭を下げてみた。
メイドの仕草を真似たものだったが、場違いだったのか。
精一杯のあいさつに、皆が目を丸くする。
女王はそれに気づいたのか、口元に手を当てて吹き出した。
「ごめんなさい。いいのよ、アキ。楽になさって」
「はい……申し訳ありません。作法など存じ上げなくて……」
「よく眠れたかしら。お身体の調子はどう?」
「はい、せっかくのお招きにお待たせして、申し訳ありません」
こちらへと、スフィーダが横に促す。
さすがに、女王の隣りに腰を下ろすなどできずにいたが、少しばかりの不機嫌さを感じ取った。
口をとがらせた表情は、不敬にも、幼く可愛らしいものだった。
そして、どこか寂しそうにも見えて、アキは遠慮がちに浅く腰かけた。
「なかなかお似合いね。ああ、ちょうどいいわ。そういう話なのだから。その礼服は、そのまま受け取りなさいな。よろしくて?」
「儀典室の者からお借りしました。そう申し付けておきます」
アキは、その話というのはよくわからないが、メイドはまたも特別なことではないように言いつけを収める。
王族や貴族にとっては、これが当たり前の贅沢なのだろうか。
「ええ、話というのは、それです。アキ、もしよければあなたを、宮内府に招きたいと思っています。私付きの、そう、ちょうどその礼服の、主人付きに」