38女王の騎士
アーチ状の窓から、朝日が柔らかく入り込んでいる。
光は霧のように、家具の装飾を包み込み、静かに輝かせている。
朱色の絨毯は艶やかに、琥珀色の刺繍が、角笛の紋章を堂々と浮かび上がらせる。
四方の壁にも掛けられた国旗に目を通し、キルハは、背筋を正して待機していた。
この応接室は来賓のためで、もちろん入ることも初めてだ。
一兵士の自分が、ここになぜ呼ばれたのか。
しかも女王が、ひとりを直々に招致など、やはり昨夜の件しか考えられない。
うまく報告をすることができるだろうか。
女王に気を遣って、婉曲に説明するところはどこだろうか。
腹にこもる傷も重いが、精神的な重圧にも支配されていた。
「キルハ、お掛けになっていれば宜しいのに。まさか、ずっとそうして待っていたの?」
「あっ……はっ、陛下。キルハ・ソルテン、参室いたしました」
女王の入室に、キルハはそのまま片膝をついた。
扉を開けた騎士団長が、女王の後に続く。
「無理をせずに、養生なさってください。呼び付けたのも、正直言えば、申し訳ないと思っているのですから」
「そんな……。王国のために兵が動くのは当然のことです!」
スフィーダは、傍らを見遣って、おかしそうにため息をついて見せた。
その傍らのディグベルクは、意にもせず真っ直ぐにキルハを見つめている。
やはり騎士団長はの貫禄は、不動のものだ。
いまだ慌ただしさの残る城内にいて、泰然と新女王に付いている。
その女王も、一晩でこうも変われるものなのだろうか。
何ごとにも動じずに、統治者として王務をこなしていると聞く。
これが、王族という血筋なのだろうか。
「キルハ、そのままで」
「はっ」
騎士団長の重厚な言葉に、キルハは目線を伏せた。
女王の無垢な足元は甲まで露わに、足首の後ろの純白のストラップには、小さな花飾りがちらりと覗いている。
そして団長の銀装飾の鎧は、簡易的に落とされているが、マントの裾と、革と鱗甲のブーツが動くのが目に入った。
「キルハ・ソルテン……で、よいのですよね。洗号は?」
「はっ、いえ、まだ崇派の典は決めかねていて……」
信仰する神への洗礼のことだ。
神々のうち、大抵はその土地の地神だが、ひとつを信仰し、その教義に合わせる。
小さな村などでは皆が同じ地神を祀るので必要もないが、都市規模になると様々な信仰が混じるので、慣例的にわけ隔てをする場合がある。
風習的なものだったり、祭式や生活習慣だったり、考え方の違いだったりだ。
もっとも、最高神のシグナレイナスを据えるのが大陸では共通なので、地神のどれかであれば、さほど気にはされない。
蛮神、血の神や獣の神などだ、それらでなければ、特に気にされることもない。
爵号をもつ貴族などは、箔をつけるためにもこの神の名を借りて付けている。
たとえば王族のスフィーダは、高神族の一柱の名を借りている。
庶民のキルハにとっては、それも特に必要はなく、滅多に聞かれることもない。
術を使えないのもあった。
神々の使いである精霊の力を行使できないので、自分にどういう加護があるのかをわからずにいた。
ディグベルクが朱鳥の火術を使え、火の神カルディネを信仰することは、ごく自然なことだった。
「これを機に、考えてはいかがでしょう。ええっと、ソルテンって、ご両親は何をなさって?」
「はっ、両親は城下で小さな武器屋を営んでいます。代々といったものではありませんが」
「そう、私も町へは忍んで行くけれども、そのようなお店では、残念ながら気軽に遊びには行けないわね」
「そんな、滅相もない。殿下……いえ、陛下のような高貴な方のいらすような場所ではないですから……」
コホンと咳払いがし、ディグベルクが二人を諫めた。
「ええ、わかっているわ。キルハ・ソルテン。あなたの忠誠を王家に」
「はっ」
当然の忠誠だったが、今のキルハには迷いがあった。
陛下、先王にも、その誓いをしたのだ。
もちろん、それは現王のスフィーダに引き継がれる。
だが、そうすると、失ったものを認めるようで、今まで大切にしていたものを後にするようで、真っ直ぐな忠誠心に、陰りをもってしまう。
穴の開いた誇りは、それで埋まるのだろうか。
「私のような、未熟な主君に戸惑うのはわかります。ですが王国には、あなたの力が必要なのです」
「とんでもない! 女王陛下は立派でおいでです!」
思わず顔を上げたキルハは、その宝剣を目にする。
突然の出来事はさらに、キルハを戸惑わせた。
スフィーダの手には、王国の宝剣が、その飾りを輝かせていた。
いくつもの宝石が、細身の剣を虹色に染め上げる。
「女王スフィーダ・セリナ・バンズクラフトの名に於いて、キルハ・ソルテンを騎士に任命します。……虹剣【センペル】の導きのもとに」
そしてディグベルクが、虹剣【センペル】の刀身に、青銅の勲章の紐を掛ける。
騎士の証である勲章だ。
キルハは、目を丸くした。
憧れの騎士、それを目指してきたのだ。
功績を上げ、試験に合格し、何年も先のことだと思っていた。
それが今、目の前にある。
「え、しかし……でも、何で俺が……」
先王であれば、何の迷いもなく目を輝かせただろう。
それを女王に対して、躊躇するのは不敬なことである。
断れるはずもないのだが、その戸惑いは、さらに無礼な態度だった。
「……忠誠を以って、拝号いたします。しかし、理由をお聞かせください。俺は……」
先王を護れなかった。
どうすればよかったのか、どうした行動が正しかったのか、苛まれていた。
大臣たちの奸計だったとしてもだ、自分に力こそあれば、結果は変わったのではないだろうか。
「俺は、力不足を痛感しました。騎士なんて身に余ります」
「力があれば、というのは、あの怪物も言っていたな」
ディグベルクが、キルハに目を据える。
「無論、戯言に過ぎん。だが、人の国は人で成り立つのだ。キルハ、お前は騎士として強くなれ。できなければ国を去れ」
「ディグ。……騎士団長、そうじゃないでしょう」
「申し訳ありません。……言葉が足りませんでした」
女王に咎められ、ディグベルクは佇まいを正す。
代わりにスフィーダが、キルハに語りかけるように言葉の身を寄せた。
「あなたは王命を遂げました。その武勲を称えて、という理由に致します」
山賊の討伐のことだ。
確かに、その頭目を仕留めたのはキルハだが、称号を得るほどの働きではない。
ましてや、それしか実績はないならなおさらだ。
それに、女王の言い方は、尻を端折ったようにも見える。
キルハの物憂げな表情は、やはり面に出ていた。
スフィーダとディグベルクは、互いに顔を合わして確かめる。
「キルハ、あなたならば、いずれは騎士になるでしょう。先を待たずに期したと思ってください」
「でも俺は、身分も低く、術も使えません……」
ディグベルクが声を渋そうに、ややためらうように、キルハに告げる。
「志と関係があるのか?」
「いえ……」
「まだ戴冠前にして、陛下に位号を授けられるのは問題があってな。書面上は、私の名を以って任命する。これでも恭爵位を持っているのでな」
即位の直後にして、君主が身分をいじるのは、政治的な問題があるのだろう。
それよりも、騎士団長が恭爵位、上級貴族だ、それに驚いた。
確かにその風格にをもってすれば納得はできるのだが。
その二人が、自分を推しているのだ。
もう平民ではない。
正式に、王国に仕えるのだ。
自称騎士、などとは誰にもからかわれなくなる。
それは少し、もの寂しい気もした。
女王は、虹剣【センペル】の切っ先をキルハに向ける。
刀身に掛けられた、青銅の勲章が揺れる。
これを、夢見ていたのだ。
この証を、先王から賜ることを。
虚ろな思いもある。
だがこれで、誇りを取り戻せるのだろうか。
「兵士、キルハ・ソルテン。騎士号を拝賜し、奉職に報いることを誓います」
騎士の証をその手に取った。
宝剣はキルハの肩に当てられ、女王が宣誓する。
正式に、王国騎士となったのだ。
ずっしりとした勲章は、やはり手には馴染まない。
これを夢見ていたはずなのに。
「礼式はここまでにしましょう。では、本題に入ります」
スフィーダは、宝剣をディグベルクに渡すと、応接間の中央へと赴いた。
ソファーに腰を下ろし、二人にも着席を促す。
それでもしばらく立っていた騎士二人は、スフィーダの睨めつけに、ようやく遠慮がちに腰を休ませた。
「礼式というのは、キルハ、あなたを騎士に任命することです」
「はい。呼び出しと聞いて駆けつけてきましたが、まさか、このようなこととは……」
「本来なら、王座にて執り行うのですが、今は立て込んでいまして。それと、呼び出したのはもうひとつあって……」
スフィーダは、キルハからその横のディグベルクへと、目を移す。
さすがのディグベルクも、こうして女王を前に、腰かけて対面するのは落ち着かないようで、浅く座り拳を握っている。
「仰せの通りに、目覚めてから声を掛けるようにと、メイドには言伝てましたが……」
「お疲れなのでしょう。あらましは兵士長から聞いていますし……彼女たちも、色々と大変だったようですね……」
スフィーダは表情を落とした。
まだ幼くも見える顔立ちが、窓からの朝日に淡く照らされる。
「呼んできましょう」
「いえ、もう少し待っていましょう。あなたたちも楽にして。二人とも傷が深いんでしょう? 寝転んでもいいのですよ?」
さすがにそれはと、二人の騎士は苦く笑った。