37ガラス細工
キルハが目を覚ました刻は、だいぶ静かになっていた。
昨夜はもっと騒がしかった気がする、と胴を起こして周りを見回す。
途端に、激痛が腹を襲って、耐えられずに横に伏せた。
腹の中だけでないが、特に腹の中だ。
臓物がえぐれるかのようにギリギリと痛む。
「ああ、巨人に、握られて……」
記憶を辿っていく。
薄闇の中、あれは、悪夢だと。
悪夢であればいいのにと。
「ああ、陛下……」
涙で溺れるんじゃないかと、天井を仰ぎ見た。
どうして自分は生きているんだと。
王女が王位を宣言し、そのあと自分は運ばれた。
王女はどうなっただろうか。
アキはどこにいるのだろうか。
団長はどうしているのだろうか。
シーマは、ツェンベルク兵士長は、他のみんなは。
そして王は、王妃は。
この痛む臓物とまとめて、心までも、どこかに握りつぶして捨ててしまえればいい。
それを代わりにできるなら、いくらでもそうするのに。
キルハが手当てされていたのは、食堂広間だった。
負傷兵は救護室では足らず、重体のもの以外は、ここに雑魚寝の状態だった。
ほとんどは、朝になってすっかり寝入っていた。
手当をしていた者、包帯を巻いた者、終わってからも怯えていた者。
閑寂かな墓地庭園で、布に包まり、導きを待つ者もいる。
もう一晩が明ければ、火を以って弔われるだろう。
神官たちも忙しなく働き、城内はどこも立て込んでいた。
夜明けの訪れにやっと、一息をついたところだった。
「起きたか?」
キルハは、思わず涙をこすった。
その腕も、上げるのがやっとなくらいの脱力感に沈みこむ。
「何だ、お前か……」
「調子はどうだ。まあ、良くも悪くも、呼び出しだ」
飄々として、相変わらずのシーマが手を差し伸べる。
多少の苛立ちに、手を荒く置いて立ち上がると、目がくらむ。
「大丈夫だ、血が足りないだけだ」
「すぐにじゃないぜ、呼び出しは。相手が相手だが、待っててくれるんじゃないのか?」
「いい加減なこと言うなよ。どこからだ」
「新女王様だ」
シーマはニヤリと笑う。
考えれば考えるほどに、この不敬を押さえつけてやりたい気分になった。
「すぐに行く。すぐにでも、行きたいんだ」
キルハは食堂広間を後にした。
現実を見なければいけない。
夢から覚めたのだから。
朝日は、王城を柔らかく照らしている。
王城の前門の格子は、まだ閉まられていた。
跳ね橋も上がったままで、旧市街との往来を塞いでいる。
代わりに小城門には、遠回りの出入りに高官たちが難儀の声を出す。
旧市街の官舎の役人は、訝しげに仕事につく。
それもなおざりに、王城で何かがあったらしいと、うわさを始める。
市政舎に現れたモンスター、閉ざされた城、新王の即位。
ただ、それが何を意味しているのか、その先は誰も口にしなかった。
散歩をする老人は、そんな丘の様子を見上げて、首をかしげている。
朝焼けを取り入れるように開かれる扉が、今日は動かない。
旧市街と町との壁門、つまり王城と城下町との境だ。
そこで、昨夜のいきさつは遮られていた。
「それも、いつまでもつか……」
「沈黙こそ語る、という言葉もございますから。内示だけでも迅速に行うべきかと」
「いずれ城下にも知られるでしょう、これだけの騒ぎになっているんです。なら、妙なうわさ話が立つ前に、こちらから宣布すべきですよ」
スフィーダも、おおむねは、この秘書官たちと同じ意見だった。
ただそれでも、言葉通りに賛同するわけにはいかない。
「問題は、公表の仕方です。役人と市民とで説明が異なると、懐疑を煽るでしょう? その、妙なうわさ話よりも後手に回ることも避けます。統率に不信を抱かせてもいけませんから」
同調は、言いなりだと汲み取られかねない。
あるいは、贔屓だ、と官同士の妬みが生まれる。
ほかの官吏に、疎まれさせないような調整も要る。
あくまで、受諾しつつこちらが決めた体でなくてはいけない。
意にそぐわなくても、納得はして見せなければならない。
決議に及ばなくても、王だけには理解してもらえたと、信頼されなければならない。
「壁門を閉じるのは、あくまでも城下町の安全のためだと、これは迅速に伝えてもらわないといけませんね」
今は宮内府だから、まだいいのだ。
これが府をまたぐと、地方貴族を相手にすると、王室すらその対象となってしまう。
採用のひとつが、余計な派閥を作ってしまう。
たとえ、自身の考えと一致したとしても、違ったとしてもだ。
それぞれの肩を持つような配慮がなければ、歪みができる。
かといって端から平等だと悟られると、矜持のあるものが去ってしまう。
この采配に気を揉む、父親の苦慮を知ってはいた。
知ってはいたが、こう早くも実感するとはと、スフィーダは、吐息を胸の内にする。
「王室は事実のすべてを公表します。先王の誇りを、強国を顕示するためにも」
父のように、母のように、立派に、高潔に。
清く凛々しく、風のように水のように振る舞った。
「ただし、謀反者は大臣三名に確定します。あとは内々に調べますから。動機は簒奪。モンスターの入手経緯は不明、例の怪物の件は伏せます」
事実すべてではないじゃないかと、顔に出さずに、自らを馬鹿馬鹿しく笑った。
「先王と王妃は、共に信頼と寄せた乱臣の手にかかった、とします。……国葬の日程も決めましょうか」
常に、心に氷を張ったようにしていなければ、潰されそうだった。
国を背負う重圧に、そして、失ったものの悲しみに。
「あ、それと。王領内には、手引されたモンスターを少なめに伝えてください。地方と国外には、多めに。先程の、信頼を寄せた、との文言はなくすように」
治安と国力の演出だった。
秘書官には、元財務大臣のペールもそうだったが、王室との付き合いが長い者が多い。
王族の、政務以外の様も見ている。
スフィーダをしてみれば、生まれてからの成長を見続けている者もいる。
奔放でわがまま、母親似の可憐さとは裏腹に、いたずらをしては侍従を困らせた。
才識に富むはずなのに、使いどころは興味をもったものだけ。
その興味も、打ち込んではすぐに飽きていた。
その王女が今、王位を継いだ立派な英姿となったと、胸を熱くする者もいた。
もっとこの少女を知る者は、その急な変わりように、胸がはりさけそうな痛みで見ていた。
騎士団長のディグベルクも、そのうちのひとりだった。
父親に連れられ、騎士団に入ったときに、まだ幼いスフィーダをを見た。
小花のような王女を、護るべき者だと、少年心に悟った。
その少女の胸のうちが、いまだによくわからない。
なぜ、こうも毅然と振る舞えるのかと。
目の前で、両親を無残な最期を見たのだ。
正直、泣き叫んで部屋に籠り続けても、無理からぬことではないか。
ただ、そうしたら王政の統率は欠け、混乱は長引いただろう。
王領の外の親族で、王位争いも起きるだろうか。
さらなる謀反がないとも言えない。
国外よりもまず身内から、国家としての瓦解になりかねない。
神々は、少女に何たる運命を背負わせるのかと、慰めの意味付けを考えてしまう。
今にも折れてしまいそうな、細い細いガラス細工の先端のようにも見えた。
「騎士団長。……ディグ?」
「ああ、申し訳ありません。キルハが駆けつけたようです」
呆けていたのか、自分から執務室を訪れたのに、呼ばれてしまった。
「少し休んで。怪我だって酷いのに。働きすぎよ」
「動いていれば治ります。陛下の身を案じずに、騎士団が務まりましょうか」
「じゃあ、そのキルハに、護衛を代わってもらおうかしら?」
「いや、それは……まあ、それもありますが、彼は私よりも手傷を負っていますので」
冗談よ、とスフィーダは、薄く笑った。
少しだけ、小花のような笑顔が見て取れたことが、ディグベルクの心痛を癒した。