36寝床
テーブルの上はまとめられ、会議は各府室で引き継がれることになった。
静かになった王座の間には、起きそうもないスフィーダが寝息を立てる。
侍女に担がれて、自室に入っていくのを見遣って、ディグベルクは腰を下ろした。
寝室の前、廊下の長椅子に腰掛けて、深く息を吐いた。
「あの、ディグベルクさん。身体は大丈夫ですか?」
アキには、きっと誰でも気付くだろうが、この威風のある男が、疲労や痛みを隠すように見えたのだ。
ここでスフィーダ女王を、ずっと警護しているつもりだろうかと、何となく気の毒にも思った。
「気遣い恐れ入る。だが、多少は丈夫にできている」
「私は王城のことを知らないので、どう言えばいいのか……。その、ただ無理はなさらないでください」
「あなたには救われた。陛下……スフィーダ様に付き添っても頂いた。感謝の言葉もない」
頭を下げるディグベルクに困惑し、自分もここに座っていいのだろうかと、長椅子を横目に入れた。
いや、いいわけがない。
一応は、王国民の端くれにしても、何の身分ももたない、山村の村娘なのだ。
王城に立ち入ることさえ、本来はあるべきでもないのだ。
この、廊下に何の気なしに置かれた長椅子でさえ、エリス銅だろうか、高価そうな細工で飾られているのだ。
足を浮かしたように黙考するアキに、ディグベルクは、思い出したように口を開いた。
「ああ、保護された女たちは、拘置から移されたようだ。王城のどこかで休んでいるだろう」
「そうですか、よかった……。王女、いえ、スフィーダ女王にお願いしたのは、差し出がましいと思ったので……。あの、私たちは決して、山賊の一味などではありません」
「そのようだな。私には、あなたがそうは見えない。部屋を用意させないとな、あなたも、お休みになられると良い」
軽くは笑ったのだろうか、この男は、表情がわかりづらい。
ただ、スフィーダの寝顔を送ったときの優しそうな眼差しに、きっと陰のない男なのだろうと思った。
分をわきまえさえすれば、何ごとも頼れる存在感がある。
それに、キルハだって慕っていたように見えた。
「あの、キルハは、無事なのでしょうか……」
「どうだろうか、当分は安静だろう。見舞いは……控えることをお勧めする。負傷兵が混雑しているからな」
アキの、とりあえずの心配事はなくなった。
他に聞くべきことはあるだろうか。
今日は休ませてもらうにしても、これからだ。
明日から、どうすればいいのか。
このまま、良くしてくれる、自分よりも若い女王に甘えるのもおこがましい。
自分を捨てた村には、もう帰れそうにない。
サーラは、どうするつもりなのだろうか。
拘置所から出されて、また騒いでいないだろうか。
城下町で職を見つけるのはどうだろう。
機織りならできる。そういう仕事があるだろうか。
それとも、ここで従事をさせてもらえないだろうか。
いや、躾もされていない自分に、それは無理だろうと、小さくかぶりを振った。
「この方、アキ殿に、空いている部屋へ案内を。スフィーダ様のお持て成しだ」
ディグベルクは、通りかかった女を、目配せで呼んでいた。
やり取りから見て、使用人なのだろう。
綺麗に整えられた前髪が、品のある女性だった。
真っ白なエプロンは新しく、丁寧にお辞儀をする。
やはり、自分は王城などにいるべき人間ではないと感じた。
身なりや振る舞いを比べるほどに、みすぼらしい自分が情けなくなる。
「それと、恥知らずを承知で言うが」
低い声が、重く廊下に響く。
その使用人に向けられたものだった。
ディグベルクの表情が、険しく変わる。
「婦人は、スカートの中に、剣でも忍ばせるものなのか?」
あの怪物と、獣の怪物と対峙した時の目つきのようだった。
この男の表情、声、そのひとつで、空気まで張り詰めたものになるのかと、アキは背筋に悪寒が走る。
なぜかはわからない。今にも剣を抜きそうな気迫に、下がって腰をつきそうになる。
掌の汗が、熱くなるのを感じた。
使用人の女が、にっこりと笑った。
そして、スカートの、両腰のスリットに手を入れる。
この場所に、スリットを入れるものなのだろうか。
「メイドとしての、嗜みでございます」
スカートから出したものは、ソムリエナイフと、編みかぎ針だった。
ディグベルクは、肩を落として、緊張を解いた。
「……すまない。気が立っているようだ。何なりと思っていい」
メイドは、丁寧に道具をしまうと、にこやかに答えた。
「いえ、メイドとしての武器ではございますから。お役に立てればと思っております」
今度はディグベルクが、身の置き場のないようにしているので、アキは部屋の場所をメイドに尋ねた。
メイドも気を遣ってか、軽く会釈をして、案内にその場を後にした。
無言で、廊下を渡り、階段を一度下る。
メイドは特に話すこともなく、コツコツとパンプスが鳴る。
それだけでも何か、気品を感じて、そんな女性に丁重にされているのを、アキは申し訳なく控えめに歩いた。
階段の途中で靴音が止まる。
メイドは何か、腹をさすったようだったが、再び歩き出した。
扉が開かれると、眠気が覚めるようだった。
メイドはランプを手に、据えつけの照明を灯していく。
暖かいロウソクの明かりが、うっすらとその部屋を見せていく。
「あの、私、寝床が用意されるほどにも思っていなかったので、何なら床の隅にでも……」
「スフィーダ様……いえ、女王陛下のお持て成しならば、この貴賓室が相応しいかと存じます」
メイドはアキを気にすることもなく、ベッドの整えを確認する。
じっと見ているのも気が咎めて、知っている限りの礼儀として、部屋を褒め上げるべきだろうかと、視線を歩かせた。
燭台すら煌びやかに、明かりが高級そうなテーブルから溢れている。
その光が、届くか届かないかくらいの壁には、浮き彫り絵画がいくつも飾られている。
滑らかな乳白色の壁は、石床まで続き、艶やかな朱色の絨毯を重ねていた。
朱色に描いた刺繍は色鮮やかな絵画のようで、琥珀色のフリンジで縁取られる。
中心には、角笛のような、紋章が施されていた。
対面するソファーは、さっきの廊下の長椅子よりも、もっと重厚なエリス銅の細工で飾られる。
アキにとっては、あまりにも艶美すぎて、ひとつを褒める言葉すら見つからなかった。
すっかり縮こまっていると、寝間着を渡されて、どうしたものかと迷いながら袖を通した。
「濯いでおきますゆえ、お預かりします。お身体をお拭きになられますか?」
「いえ、もう、そこまでは……大丈夫ですから……」
裸を見られるよりも、身を包んでいた、ボロの衣服を手にされるのが恥ずかしかった。
白かったラナ獣布の服は、汗や泥や、血もこびりついている。
髪もぼさぼさで、身体もだいぶ汚れている。
逃げるように断ってしまったが、この寝間着もベッドも汚してしまうんじゃないかと、できるだけ動かずにいようと思った。
あの絨毯だって、同じラナ獣布でできているだろうに、質が違いすぎる。
本当に、どうしていいのかわからない。
促されるまま横になってしまうと、柔らかい綿の詰められた寝床に、全身が埋まる。
さらさらとしたシーツは、リント雪布だろうか。
村で織っていたヘンプ彩布とは違い、手触りが滑らかだ。
「ご用は何なりとお申し付けください。では、ごゆっくりおやすみなさいませ」
律儀にも、見えないだろうところまで丁寧なメイドは、扉を閉めるまでお辞儀をしていた。
天井にはガラスの照明具が吊るされている。
灯されずとも、ロウソクの火を華美に散らしている。
窓にも、掌の大きさほどのガラスが、いくつか埋め込まれて、灯火を返している。
壁際のオブジェまでもが細やかな光を放っている。
人は星空をも作れるのか。
誰が、こういったものを欲しているのだろうか。
なぜ自分の住んでいた村とは、こうも違うのか。
国とは、一体何であろうかと、いくつかを考えて、眠りについた。