32栄光
スフィーダは、腹のものを出した。
息が酸っぱく、涙が搾り出される。
その瞳は、痙攣したように震える。
感情ではなく、生理的なものだった。
それほどの惨劇に、感情が追い付くのはまだ早く、嘆くには遅かった。
「陛下、陛下、お休みになられたのですか、お気を確かに!」
キルハも、それは同じだった。
身体から、魂の糸がぷつりと切れたように、動けない。
目の前は、闇だった。
目の前は、光だった。
ただ瞳に映るものを、そのまま映していた。
これは悪夢なのだ。
なぜ、こんな光景を見せるのか。
苦しみも悲しみも、すべてを奪うではないか。
希望のもとだったのだ。
忠誠を誓い、何よりも護り抜くものと決意し、あるべく進んだ道なのだ。
志の君主であった。畏れつつもどこか、父親のようにも感じていた。
その姿は、どこにあるのだろうか。
怪物にも立ち向かおうとした自分は、どこにあるのだろうか。
これは悪夢なのだ。
王妃はふらふらと、肩で息をしている。
立ちつくし、今にも溶けていきそうな氷のようであった。
巨人の暴れた跡が、無残にこの部屋を作っている。
木樽が、壺が、槍立ても、その破片が散らばる。
石床に漏れた油は、なおも火明かりを作っている。
弔うようにも残酷に、その成り様をじりじりと照らしている。
アキにとってもそれは、想像を逸していた。
異形の姿なら、モンスターや怪物を見てきた。
傷も、鮮血も見てきた。
これまでに自分につけられた生傷よりも、どの苦しみよりも、仮初めにも同じものではない。
それを、何と呼べばいいのだろうか。
誰が、軽々しく名前をつけられるだろうか。
ただ、王は息絶えた。
「陛下、おお陛下、今こそ立ち上がり、国を治めるのです!」
巨人は大声で王に語りかける。
それは、狂いの極みだった。
自らが握り潰し、床にドサリと落とした、その姿を覗き込む。
「ご改心なされましたな、きっとそうでしょう。ああ、良かった。お目覚めなされたら、それがバンズクラフトの始まりですな!」
「……陛下から、離れなさい」
王妃だった。
誰よりも先に動いたのは、王の自ら娶った女性だった。
政治に詳しくもなく、中流貴族の中では平凡で、特別に冴えているわけでもなかった。
それでもただ、王と惹かれ逢っただけで、妃となった。
王にとっては、幸せを望んだだけだろう。
女にとっても、傍らにいることを望んだだけだ。
あるがままに、互いを共にしたいと思っただけなのだ。
「もう、いいでしょう。怪物は怪物の、人里離れた所にでもお行きなさい」
「王妃、王妃なのですか。ああ、あなたがいて、陛下は勇気を持てなかった。あなたがいたから、弱くなったのではありませんか!」
「夫は人間なのです。弱く、脆く、愛しい人間なのですよ」
王妃は、横たわる王に、手を遣った。
遣れるところもないのだが、安らかな顔に、その頬に触れた。
「陛下に何をなさるのですか!」
「誰もが苦しむものです。だから眠るときは、もっと安らかにと、誰もが願うものですよ」
「陛下は我が手に、この力に目覚めるのです!」
巨人はその手をのばす。
力仕事もしたことがないような細い腕だった。
散らばった長槍を、その手で拾い上げる。
華奢な腕では持ち上げられず、石突きを床につける。
それでもしっかりと、穂先を立て、巨人を見据えた。
さながら騎士のように、王を護るように。
スフィーダは、その高潔さを目にした。
そして、駆け出す腕を、少女にとられた。
アキにとっても、気づかないうちに、少女を止めていた。
きっと、小さい小さい希望なのだろうと、そのか細い腕を、離さないように握っていた。
巨人の手が、宙から地を打つ。
怪物にすると、ほんの軽い力なのだろう。
人は脆いのだ。
それだけで、国は滅ぶのだ。
スフィーダは、そこで限界だった。
あと十年でも幼ければ、ぽつんと眺めていただろう。
あと十年でも育っていれば、顔を背けただろう。
アキは、寄り倒れる肩を支えた。
とても軽く、今にも溶けて消えてしまいそうな肩だった。
額の汗をじりじりと、火が照らしている。
重そうな睫毛は幕を閉じ、小さい鼻がようやくの呼吸をしている。
ほんの少しの互いの温かさが、命というものを知った。
信じる神がいれば、恨むだろう。
いなければ、奇跡を乞うだろう出来事だった。
指先が動いた。
――他に、どこが動く?――
他に、どこが動くだろうか、キルハは確かめるように、足を出した。
――もっと、動くだろう?――
憎しみが動いた。
刈り取られた忠誠心の、蛍火を消さないように。
わずかな光の粒を沸き立たせた。
煌びやかな光景だった。
まぶしく、色鮮やかに輝く王座の間だった。
城下町を練り歩く騎士団は壮観だった。
行進が大通りから王城に向かい、君主が迎える。
人ごみの片隅から、木によじ登り、ようやく眺めることができた。
この真っ直ぐな道のように、自分も進めるのだろうか。
新緑の枝葉が、柔い頬に風を吹きつけた。
きっと間違いはなく、勇気と正義は、真っ直ぐな道にある。
その瞳のずっと先に、自分の姿を見ていた。
心が開いたのだ。
新兵式で初めて間近にした王は、人を成した太陽のようだった。
兵士のひとりひとりに王が、飾り剣を賜与する。
そのひとりになれた自分が、誇らしかった。
その誇りを失うことなど、考えてもいなかった。
これが、栄光の投影なのか。
この相手を、永遠に恨むだろう。
断たれた夢を、永遠に求めるだろう。
――目を背けるなよ?――
キルハは、影を掴んだ。