30奇跡にすがること
その指一本だけでも、丸太が転がっているようだ。
ひざを折った巨人に、キルハは剣を突いた。
逆手に勢いをつけ、手の甲を狙ったのだ。
「なぜ、こうなる前に、改心なさらなかったのですか!」
巨人はその紅黒い眼から、涙をこぼす。
恐ろしい形相で、額の一本の角が、上下に揺さぶられる。
その泣きじゃくりは、苦悶にも懺悔にも似ていた。
キルハの剣は、巨人の皮膚で止まっていた。
うっすらと切っ先から血が見える程度だ。
術を使えば、もっと食い込ませたのだろうか。
いや、渾身の力を込めたのだ。
もはや、人のもてる力では敵わないのではないか。
キルハは再び同じ傷を突き刺す。
何度も、何度も、何度も。
そうして、やっと気づいたように、巨人は顔を向けた。
「邪魔を、するな!」
その手が、丸太のような指がキルハに広がる。
壁が迫ってくるように、逃げ場はなかった。
危険は察知できても、身体が反応できなかった。
そのような襲われ方など、考えたことすらないからだ。
巨人の手が、しっかりとキルハを掴む。
その丸太のような指で、腹を、背を絞めるように。
「キルハ!」
アキは掌に力を込めた。
あの光、あの術か何かわからないが、あの力があれば助けられる。
炎を破り、獣の怪物も穿った、あの光の剣だ。
だがどうすればいいのか。
どう意識すれば光を放つのか。
「ガランサス!」
キルハは苦しんでいる。
なのに、奇跡のように起きた力が、なぜ今出せないのか。
「応えなさい、ガランサス!」
その思いは、漠然としていた。
キルハを助けたいのか。
――助けてどうするの?――
キルハの護る、この王を護りたいのか。
――あなたにとっては、何者なの?――
巨人を討ちたいのか。
――それは何のために?――
それとも自分が助かるためか。
――なら、逃げたらいい――
曖昧な意志に、奇跡は起きなかった。
――奇跡にすがるのは、何て惨めなの?――
そう耳に響いた。
息ができない。
空気を止められたように圧迫され、ギシリとレザーアーマーが歪む。
肉が搾られるようだ。心臓に爪が立てられたようだ。
その、人の丈ほどの親指が、腹に押し付けられた。
苦しさが喘ぎにもならない。
この狂った子供の、人形のような扱われように、キルハは、死というものが浮かんだ。
それが苦しかった。
忠誠を誓った王を護れず。
その使命を果たせず。
憧れの騎士にもなれない。
死んだら終わりなのだ。
当たり前のようだが、命が終わるのだ。
夢が叶わなくなるのだ。
それが何よりも、苦しかった。
両手を握りしめる。
死をはね返すように。
その意志を消さないように。
投げ込まれたのは、光だった。
いや、明かりか、照明というべきか。
巨人の顔に、ランプ獣油が投げつけられたのだ。
ひざを折った巨人の、紅黒い眼に当たる。
ガラスが割れ、油に火が付いた。
投げつけたのは、スフィーダ王女だった。
眉間から上がった火に、額の角が炙られる。
巨人は、慌てたように手で炎を払おうとする。
キルハは放られ、石床に肩をつくと転がった。
体中の圧迫から解放され、もたつきながら息を吸う。
空気が肺をこするようだ。
今でも臓物が飛び出るようだ。
思わず咳き込んだ塊は血の味で、それが死を逃れた証だった。
かすれる息で身体を起こし、巨人を見据える。
濁流が耳を叩くような大絶叫だ。
巨人が、痛みが沁みるように、もがき苦しんでいる。
両手で額を覆い、燃える火に慌てふためくように。
火を恐れているのか。
それとも、その一本の角が傷つくことを嫌っているのか。
どうあれ、この機を逃せない。
「早く通路へ、今のうちに!」
「ペール、ああ、なぜお主ともあろうものが……」
「陛下!」
「退くのも王の務めでございます、お父様!」
王は、はっと我に返りキルハを、そして王妃と王女を瞳に入れる。
スフィーダの言葉に、ようやく意思を固め、その顎を引いた。
「通路を戻れば、団長がおります。安全とは言い切れませんが、ここよりはマシです!」
キルハは、アキにも目を投げ、一緒に逃げるように促す。
そして巨人が暴れ出した。
手当たり次第に、この部屋、倉庫のような石部屋を、暴れ狂う。
積まれた樽も、木箱も、槍立ても、なぎ倒される。
暴風が吹き荒れるように、あらゆる破壊が続く。
「陛下、この力を失う前に、ご決断を、国を、正しくするのです!」
「怪物が、国を語るな!」
キルハは、王を背に、剣を構えた。
もちろん倒せるということはないだろう。
しかし、これは誇りなのだ。
君主を背に護ることができるなど、そうそうある栄誉ではない。
打ちつけてくる木材の破片を、身を挺して防ぐ。
破片が飛び、槍が飛び、壺の中身がこぼされる。
たいまつから引火したのだろうか。
まき散らされた壺や樽の中身、何かの油が燃える。
火はゆらゆらと広がり、薄闇だった部屋に、明かりが波打つ。
その火を踏みつけ、巨人が迫ってきた。
一歩、二歩と、すり寄るような足で、王を追いかける。
「陛下、陛下、どうか強き道理に、お目覚めください!」
「近づくな、近寄らせない!」
キルハは、剣を打ちつける。
唯一できる抵抗だった。
押し迫る岩のようなつま先を、丘のように盛り上がる足の甲を、柱のようなかかとを。
しかしその刃もあっさりと、巨人はキルハを追いぬく。
頭が、肩が天井をこすり、石積みが降ってくる。
そして巨人は、波打つ炎に両膝をついた。
まるで王にひれ伏すような姿だ。
叩頭して、贖罪をするように、許しを請うように。
しかしその手は、王に伸ばされる。
「陛下、強き王の姿を、お見せください!」
「くそっ、陛下に触れるな!」
キルハは必死に、巨人の腕を斬りつける。
巨人の眼中には、王だけが映っていた。
その紅黒い眼に捉われ、その手に掴まれる。
王は逃げ出そうとするも、やはりその力は敵わない。
苦悶の表情を浮かべ、脂汗がにじむ。
ミシリと、音が鳴った。
「どうぞお近くで、恐れを、痛みを、ご辛抱ください!」
巨人は恭しくも、王を掲げるように締め上げる
緩まることのない、慈悲のない、その握りはなおも強まる。
「さあ、今こそ変わる時ですぞ。悪い虫など、絞り出して差し上げましょう!」
紅黒い眼は、その手を覗き込む。
無邪気に、悪戯の反応を試すように。
王妃とスフィーダが、嘆き叫ぶ。
王は、巨人の掌の中で、妻と娘を瞳に入れる。
最期の呼吸に、覚悟を決めたように、悟ったように、口を動かした。
「……毎日が感謝だった。お前には苦労をかけたな、こんなわしの妻でいてくれて。ああ、スフィーダよ、ディグベルクは良い男だ。わしよりもずっとな」
巨人は弄ぶように、その手を握りしめた。
「これが力ですぞ、陛下、おお、陛下、なぜ、返事がないのですか。陛下なくては、この国は滅びますぞ、さあ、陛下、今一度、国を!」
もう一度、ミシリと鳴った。