28隠し通路
王の居室は、厳粛でいて静かだった。
この沈黙の部屋では、まるで外では何も起きていないようにも思えてくる。
お世辞にもきらびやかとも、また、格式があるともいえない。
少しばかり裕福な商家にあるくらいの家具が並び、それと所々に、ようやく歴史のありそうな調度品が、身分を示すように飾られている。
とても一国の主の住まいとは思えないくらい、華やかさとはかけ離れている。
「ここが、王様の部屋?」
アキから見ても、感想に戸惑うくらいに質素な部屋だった。
しかし現王の人となりを知る者から見れば、不思議ではない。
贅沢を好まず、倹約こそ官民の信用を得るものだ、為政者の理想だと、自らが規範となっていた。
きらびやかに着飾った領地貴族や他国の使節が訪れるたびに、秘書官の諫言にやれやれと重い腰を上げて、それに負けない凝らされた服飾をまとわされ、顔を苦くしていた。
キルハも、富をひけらかす貴族や商人を見かけるたびに、悶々とした気分になったものだ。
「陛下は、私財で民のために孤児院をお作りなさるほどだ。お前も口より手を動かせ」
「孤児院。わかってる、捜しているわ」
その王に、救われた人々はいるんだろう。
だが、民のためという割には、救われない人々だっている。
自分自身もそうだし、今も地下牢にいるだろうサーラだってそうだ。
自分のいた村だって、飢饉や徴税に苦しむ。
もしかすると、あの山賊たちも、落ちぶれた理由があるのかもしれない。
アキは、少なくてもここでは、キルハの前では言うべきではないと、言葉を飲み込んだ。
キルハは急ぐ。
がむしゃらに、並んでいる本棚を手当たり次第に手探る。
王の勤勉さを表すように、壁一面の本棚はぎっしりと書物が詰められていた。
そこに片膝を折って、一番下の段をもぐるように嗅ぎまわる。
「この中のどれかなんだ、早く捜せ!」
「捜しているわ」
「くそっ、怪しい本はすべて調べるんだ!」
「やっているわよ!」
団長の言葉では、書架の一番下の本だ。
隠し通路の、鍵か仕掛けか、わからないが何かしらがある。
王室の居館に、ましてや居室にまで足を踏み入れることは、本来であれば大変な非行だが、その節度も忘れるほどに焦っていた。
「取っ手《レバー》か、棒押単か、何かがあるはずなんだ!」
キルハは荒っぽく本を広げ出す。
鍵でも挿まれていないか、ひっくり返したり、叩いたりもする。
慌ただしく、隠し通路への足かがりを見つけようと、躍起になっていた。
隠し通路から、王や王妃、王女は抜け出ている。
そして共にしているのは、副団長と官吏や侍従といったところか。
そしてペール大臣。
怪物と化したカッツェの言葉の通りなら、ペールも乱臣、この弑逆の一味だ。
隠し通路で事が起きてしまえば、そこからさらに避難するのは難しいだろう。
よかれとした王の退避にも、事態は切迫してしまった。
キルハは苛立ち、調べた本を投げつけている。
アキにとって書物は、村にいたときの、唯一の慰めであった。
ごくたまに訪れる山間商からしか手に入らない貴重なものであった。
外の世界を知る本を、何度も何度も読み返して、物思いにふけることもあった。
そしてここに、大量にある。
王というものは、こんなにも本を読める身分なんだと羨ましくも思えた。
「歴史書が多いね。政治の本も」
「いいから捜せ、君主なんだから当然だろう!」
不満げにアキは、少しばかりは捜すふりをした。
いまいちこの状況に馴染めていないのは承知だが、キルハが、本を手荒に扱うこともやや不快だった。
この兵士は、騎士になろうとしている。大切にしているのが王様なら、自分にとっては書物こそ大切にしている。
その対象が、人だったり、物だったり、状況によっては食料だったり、権力だったり、装飾品だったりするわけだが。
この王も、読書に没頭したのだろうか。
少しばかり、会ってみたい気もしてきた。
丁寧に頼めば、この本を読ませてくれるのだろうか。
そういった身分ではないけれども。
そういう思いにふけながら、端の本棚、その一番下の本に目が行く。
古本でもきれいにしている中、その背表紙には汚れがついていた。
目立つほどでもないが、気にはなる。
汚れの形から浮かぶのは、靴のつま先、だろうか。
つまり跡からして、つま先で押したわけだ。
さすがに足で押すわけにもいかず、アキはその分厚い本を手で押し込んでみた。
押し込まれて、滑っていく本が、奥の壁までぶつかる。
そしてさらに、少し重いが、もっと動く気がする。
四つん這いになり、両手で体重をかけてさらに押し込んでいく。
「おい、何をして……」
キルハは、その音に気づいた。
石材がガチリとかみ合う音がした。
するとズルズルと、その本棚が動く。
風景画の描かれた壁に沿って、滑るように開いていった。
キルハは、急いていたのも呆けて、壁に開いた通路を見入る。
それはアキも同じだった。
必死で探していたものも、いざ発見すると目を止めてしまう。
目を合わすと、はっと、差し迫った状況を思い出して、その入り口に身を投げ込んだ。
通路は暗かった。
照明はなく、窓もない。
唯一の頼りだった居室からの明かりも、階段まで進むと消えていった。
それもお構いなしに、緩いらせん状の階段を下りて行く。
「陛下、お返事を!」
キルハは行く先も、足元すら見えない段を、返ってくる感覚だけで駆け下りていく。
掌で石壁を伝って、飛び降りるように王のもとへと急いだ。
「待って、待ってよ……」
アキは、照明を取りに戻ろうかどうか、戸惑いながらも後を追う。
階段でつまづき、手探りで壁を確かめ、響く足音を頼りに下りて行った。
キルハの必死で王に呼びかける声に、彼らが何のために戦っているかを、強く感じ取った。
生きがいというのか、忠誠心というのか、自分にはないものだ。
何かのために、誰かのために、などとは無縁だった。
自分も、神々や主君へ誠を尽くせば、このように迷うことなく突き進めるのだろうか。
誰かを愛し慈しめば、希望を常に手にすることができるのだろうか。
何かを守るために、困難に立ち向かえるのだろうか。
行く先を見たいと思った。
この少年は、歳は同じくらいなのに、強い信念をもっている。
この暗闇の先に、その信念は届くのだろうか。
苦難があったとしても、はね返すのだろうか。
今までに自分が受け入れてきた不幸を、彼ならどう切り抜けただろうか。
苦しさを耐えて、通りすぎていくのを待っていた。
痛みをこらえて、消えていくのを待っていた。
雨雲が晴れるように、冬が暖かく移ろうように。
待っていれば、次こそ幸福がやって来るのだと。
キルハなら、待たないだろう。
すでに持っているのだ。信念という、希望を。
きっとそれを守ることが、彼の幸福なのだ。
「私も、私の希望を見つけてみるよ」
アキは、暗闇をはね返すように、心の内を呟いた。