27大広間の掃除
上階への大階段、ここを死守すべく、兵士は並列を組んでいた。
横に一列に、幅のある階段を塞ぐ。
その意図を、凶悪にして凶暴なモンスターは、わかるのだろうか。
階下の大広間を蹂躙した、幾多の赤い眼は、勿体ぶるように歩み出る。
一匹が足を出し、続いてもう一匹、もう一匹と、何本もの肢体をうごめかせる。
兵士は槍を剣を構え、悲鳴をこらえて待ち構える。
その腰は引け、武器を前にかがみ、恐怖から少しでも遠ざかるように。
騎士団長の放った勇ましい叱咤は、ある効果はあった。
しかし次々と同胞は倒れていき、負傷にもだえ、疲労は限界に近づく。
常に気を張っていなければ、構えた視界から、その後ろから、頭上からも、どこからでも襲いくる赤い眼の、猛撃に、恐怖に、精神力も尽きかけていた。
猛々しく武器を構える様は、敵を討つというよりも、自らの正気を保つためだった。
誰もが口にしないが悟っているだろう。
この数のモンスターに対し、勝機はない。
「逃げ出す者がいないのは、誉れというべきだな」
「正直いうと、俺は逃げたいんですけどね」
階段の向かい、城の前門を防ぐツェンベルクは、短剣を構えた。
片腕をぶら下げ、毒に侵された皮膚の痛みにも歯を食いしばる。
深いしわで、その蹂躙の先を睨みつけた。
折れた長槍を手にしたシーマは、ため息を柄に落とす。
もう、まともな武器すらないのだ。
流れ者だったこの身を、雇い入れてくれたことには感謝がある。
馬寮での馬の管理と、槍の腕を見込まれて兵団の仕事も引き受けた。
命を懸けるほどの恩義はないが、しかしここで逃げても寝覚めが悪い。
せめて、侵攻がわかっていれば。
兵士らが、宴会さながらに酔いつぶれていなければ。
そういうどうしようもない不満を、口に出しかけた。
そしてモンスターたちは、雄叫びを放った。
それが合図のように、いや、獲物の取り合いが始まるように、モンスターが飛び掛かる。
手当たり次第に近い者を、爪が牙が角が襲う。
暴虐の嵐だった。
兵士の怒号に打ち下ろされた刃は、肉に食い込んでもへし折られる。
突撃に吹き飛ばされた兵士が、階段へ叩きつけられ動きをなくす。
太い牙にしゃくり上げられ、中空に飛ばされた兵士が、角に突かれる。
隊列など、形もなく打ち破れた。
一匹や二匹が相手なら、耐え凌げたかもしれない。
だがモンスターが群れになると、人間の、決死の抵抗すらこうも無意味なのか。
悲鳴のある者はたじろぎ、ない者は血を流している。
そしてモンスターは、階段へと足を踏み入れた。
ツェンベルクの絶望感は、このような恐ろしいものが、なぜここにいるのかと、いま考えても仕方のない疑問を浮かべた。
そしてその瞳に、ひとりの女が映った。
広間の奥から出てきて、大階段へと、平然と歩いている。
モンスターの蹂躙する舞台へと。
流血の惨状の最中へと。
歩き方は律儀に、習った通りにするように。
背筋を伸ばし、足に合わせて真っ白なエプロンが揺れている。
なぜ、ここにメイドがいるのだろうか。
逃げ遅れたのか。隠れていて出てきてしまったのか。
なぜ剣を持っているのか。しかも二本も。
そしてなぜ、この暴虐を前に、普段通りにしていられるのか。
まるで、日課の床の掃除にでも来たみたいに。
「おい、メイド、逃げろ!」
ツェンベルクは目を丸くし、シーマは声を張り上げる。
メイドは声に気づき、丁寧にお辞儀をした。
ただし手には、剣を握っている。
そして赤い眼が、モンスターが、狙いをつける。
一匹ではない。その獲物、若いメイドは、敵陣に飛び込んできたのだ。
一匹どころのわけがない。
そして、そのモンスターのどれも、容赦をするはずがない。
その残虐を見せつけるように、モンスターの肢が床を蹴る。
上下に開かれた牙が、おぞましい形相で迫る。
そしてメイドは、一閃を放った。
牙が、頭が上下に分かれて、石床に落ちた。
メイドは足元のそれを、冷たく見遣る。
そして血しぶきの中でも、行儀よく立っている。
重なり合う奇声とともに、モンスターの群れが襲いくる。
怒涛のごとく駆け、跳ね飛び、無数の爪牙がメイドを囲む。
それは踊るようでも、ガラス窓を拭くようでもあった。
美しい閃を引き、二つの剣撃が舞った。
ひとつは透明のように白く光る剣。
もうひとつは怪しく黒い斑点の散る剣。
真っ白なエプロンが少し揺れた。
パンプスの踵が石床に行儀よく鳴ると、ひらめいたスカートがふわりと、もとの立ち居に落ち着いた。
メイドの周囲に、天気雨のように血しぶきが降る。
その雨は血だまりを作り、モンスターは崩れ込んでいく。
どれがどの血なのだろうか。
一面の血だまりに浸った赤い眼のそれぞれが、思い出したように沈んでいった。
メイドは、礼儀正しく姿勢を伸ばす。
そしてツェンベルクとシーマへと、丁寧に頭を下げた。
「少しばかり、床を汚してしまいました」
呆気に取られる兵士たちをよそに、メイドは辺りを見回す。
そして、階段の裏や通路の奥、まだいくつかあるうなり声を確かめた。
「……あなたの言葉は聞かない。ああ、もう、エプロンも、洗って落ちるかしら」
独り言だろうか、何やら呟いて、血のついたエプロンを一度はたく。
機敏に向きを変え、平然と歩き出す。
またも掃除でもしに行くように、普段通りに。
ただし手に持っているのは、モップなどではなく、二本の剣だったが。