24淀み
怪物にも畏れるものがあるのか。
ならば、更に哀れだと、ディグベルクは睨みを据えた。
カッツェの左腕は、穴を穿たれて、月蝕のような空洞ができている。
痛みなのか、紅黒い眼が歪む。
明らかに、少女の放った光に畏れていた。
そして紅黒い眼は、駆け行くキルハと少女の背に向けられた。
その行く先を、右の腕が追いかける。
カッツェの顔には、はっきりと焦りが見えた。
「追わせはせん!」
ディグベルクの応剣【ライジング】が、その前肢を遮った。
骨肉を断ち切るほどの大剣の刃が、巨腕に食い込む。
獣だろうと、より屈強なモンスターであろうと、この斬撃に耐えられたものはいなかった。
つまりこれが初めてのことだ。
ディグベルクの渾身の振り下ろしは、カッツェの肉の途中で止められた。
残忍なまでに盛り上がった筋肉が、岩をも断つ一撃に耐えたのだ。
「強く、この国、造る!」
「戯言は聞かん!」
怪物の執念と、騎士の気迫がぶつかり合う。
気迫は熱を、朱鳥の術の高熱を大剣に加える。
灼熱の刃が、食い込ませた怪物の肉を焼く。
最早、言葉ではなかった。
怪物と化したカッツェの咆哮は、何十もの獣を重ねた声だった。
その怪物の焦げる臭いが鼻をつく。
カッツェは悲痛の形相で、食い込んだ刃を払いのけた。
間を与えず、尻尾のうねりがディグベルクを襲う。
一瞬、ディグベルクの横目には騎士が映っていた。
カッツェのほんの一撃に、打ち崩れた騎士たちだ。
なすすべもなく蹴散らされ、息があるのかもわからない。
撥ねられた大剣を、そのまま尻尾に打ち下ろす。
守りを捨てた反撃だった。
しかし斬撃は、剛撃の尻尾に打ち負けた。
ディグベルク諸とも吹き飛び、石壁に叩きつけられる。
しかしその眼光は途切れることなく、カッツェの追撃に備える。
猛撃に、そのまま一撃を喰らわせようと構えた。
下手に防御を構えても、カッツェの攻撃は防げないだろう。
そして術、精霊の力は、武器にも負担が大きい。
特にディグベルクの得意とする朱鳥は炎熱を扱う。
この重厚な鋼の大剣でも、幾度となく使えばいずれ折れ果てるだろう。
ディグベルクに、先程の少女の放った光がふと気に掛かる。
炎に道を作り、カッツェの腕に風穴を開けた。
あれは術なのか、と。
しかしまずは、この場の怪物を討たなければならない。
「キルハを行かせたのは、正しかったようだ」
このカッツェには、並みの人間では歯が立たない。
何よりも急ぐべきは、王室の護衛なのだ。
反逆者のペール大臣は、今も王のそばにいるのだ。
ディグベルクは、それを塞ぐカッツェに、強く睨みをきかせた。
王室の居館は、オリウム灯油が明るく照らす。
そしてたいまつやランプの明かりが、暗い通路を歩んでいた。
王の居室から隠し通路に入り、裏へと向かう。
その一行は、細く暗い階段を下っていき、ときおり小部屋を通る。
そこからまた抜け穴に入り、階段を下りて進む。
古い城砦の跡だけあって、かなり入り組んだ造りだ。
侍従たちは明かりを手に、いくつ目かの部屋を照らした。
騎士団の副団長を先導に、王と王妃が並ぶ。
スフィーダ王女も、その後を歩いていた。
「今期の徴収ですがね、予想通りの額になりましたな」
やや広い部屋、倉庫のようなものだろうか。
そこでペール大臣が、王に追いつく形で声を掛けた。
「取れる所から取り、不満もないようです。まあ不満を出す輩からは取り立てていないということなのですがね」
財務の話だろうか。
しかしこんな時にする話題でもない。
スフィーダは、ペールの言葉を訝るように聞いていた。
「もっと徴収できるところがあると愚考しますがね、例えば、誰とは申しませんが上級貴族の一部などから」
「財務大臣は仕事熱心のようだ。その才腕に期待しているぞ」
「いえいえ、王命で賊の討伐をされたことこそ、英断の極みでしょう。山間の路は密輸に使われていたようですからな。卑しい貴族らは、さぞうろたえていることでしょう」
「大臣は達弁でもいらっしゃいますね」
「反対貴族もありますが、断固とした王権を重ねていけば追放もできるでしょう」
「考慮しよう」
王妃の婉曲な静止もなおざりに、ペールの口は続く。
「考慮、で何年が過ぎるとお思いですかね。ロワールが連盟の先に、属国にして済ませるとお思いですかな」
「大臣、戯れが過ぎますよ」
「連盟国への関税を下げたのも、従属を容認したようなものです。その負担は王派閥と陛下のお好きな、清き臣民に課されるのですぞ」
王は、その戯れでも、真摯に聞いていた。
ペール大臣の言い分は一理あり、事実であったからだ。
連盟とは名ばかりの、バンズクラフトの財源を狙ったロワールは、すでに関税権にも干渉してきている。
そうやって周辺国を取り込み、強大になっていく隣りの大国を眺めているだけだった。
「国というものは、常に岐路に立つものなのだ。選んだ道を進むしかあるまい」
「お認めなさらずに、強き陛下の姿に、お戻りください」
「大臣、申し上げは議会の場で仰ってください。こんな時に何ですか」
一行はすっかり足を止めていた。
王や王妃が歩みを止めたのであれば、副団長も困惑し、一同も何があったのかと気を揉んでいた。
倉庫のような部屋を、たいまつがじりじりと赤く照らしている。
「陛下は、本当は強き国を求めておられるのでしょう?」
スフィーダは、大臣の危険な雰囲気を感じた。
両親の袖を引き、副団長に目配せを交わす。
「ですが大変にお優しく、踏ん切りがつかずに、周りへの配慮を積み上げ、嘆かわしくも力は埋もれてしまった……」
「閣下、こちらへ。今は急を要します」
副団長はペールを遮るように、王との間に入った。
しかし呼びかけにも応じず、それは悦に浸っているようでもあった。
空虚を見つめ、論口に意気込む姿は、異様なものだった。
この変事、という緊迫感がそうさせたのだろうか。
「ペール閣下!」
「いえ、陛下に責任はございません。止まっていた年月がそうさせたのです。ならば直ちに撥ね除ければ良いのです。不肖ながら私の力が、陛下のお力添えになりましょう!」
ひそひそと侍従や官吏たちが、不穏さを口にする。
それは次第に、息の詰まったような緊迫感に変わっていった。
嵐の前の静けさのように、たいまつの照りがパチンと響いた。
「強権を振るえば良いのです。王なのですから!」
「閣下、気を確かに。陛下、どうぞこちらへ」
「ペール、どうしたというのだ……」
不本意ながらも歩みを進める王の顔が見て取れた。
王は、父親は、有能な官僚を信頼し切っている。
才覚や実績があれば、それは忠誠のために尽くすものだろうと。
そして多くの執務を各々に任せていた。
だが、皆が皆、騎士団長のように高潔ではないのだ。
性善本位というのか、官僚にとってはやりやすかったかもしれない。
国の発展を望むがゆえに、能力を重視したのは成功かもしれない。
派閥政治のなかで、味方を増やす手段だったかもしれない。
しかしスフィーダには、それは根拠のない信用とも思えた。
幼くも見てきたのだ、耳にしてきたのだ。
腐敗というのは、見えないところに起こると。
栄光が留まるほど、淀みも溜まっていくと。
行き違いは進むほどに、戻れなくなると。
「真の王の姿を、お見せください。国を正しく導く、統治者の姿を!」
空気が変わった。
吹くはずのない風が吹いた。
それは冷たく、心臓の熱をさらうように。
ペールの眼が、紅黒く光を付けた。