21謀反
鬨の声は、頼もしくキルハの背を押した。
階下から騎士団長の声が聞こえたのだ。
もっとも尊敬し、目指すところのはるか先にある勇ましい声が。
それは迷いを捨て去るには十分だった。
謁見の間、王座の据えるこの広間は、王威の象徴でもある。
ここでの不遜や荒事は、忠義にも反する。
だがすでにモンスターは一階を蹂躙しているのだ。
「何の声だろう」
「お前は黙っていろ。これは王国の問題だ」
不安を紛らわせそうと聞いてきたのかもしれないが、その物柔らかな態度が、今は鬱陶しくもなる。
キルハに追い付いてきたアキは、強く遮られて居心地が悪そうに傍らにたたずんだ。
キルハは前を見据えて、その男に再び尋ねた。
「陛下はどちらでしょう、お答え願えますか?」
しかし返事はなく、薄い笑みを浮かべるこの男に、気味悪さを感じた。
通商大臣のライナーは、若くして閣僚まで昇りつめた切れ者だ。
若いといっても、キルハからすれば親ほどの歳だが、権威よりも功績で昇進した者として、王のその考えの表徴をする人物であった。
ゆえに上から疎まれようとも、精力的に王領の経済を駆け回る姿は、若い世代の官吏を活気づけるものだった。
キルハは怪訝な表情を隠せなかった。
そのライナーは、今度は足元を見つめてブツブツと呟いている。
この男は、その精力的な大臣と同一人物なのかと。
「ここで事を構えるつもりはありません。閣下も早くお逃げください」
「逃げる、とは何でしょう」
「モンスターの侵攻ですよ!」
やはりこの男は気味が悪い。
早くこのライナーを、どこかへ追いやりたい気分になった。
そしてキルハは気づいた。その手の傷に。
止血の目新しい包帯はぞんざいに巻かれ、赤く染まっている。
キルハが地下通路で襲われたときに、モンスターから受けた爪の傷に似ていた。
この身で受けたのだ、あそこの檻で、それと同じような攻撃を。
「お怪我をされていますね」
「ああ、奴らに襲われたようだ。実に恐ろしい」
「早くここを離れて、手当てをお受けください」
「離れる。いえ、私は見届けますよ」
モンスターに襲われてここに逃げてきたのだろうか。
ならなぜ、この男はここから逃げようとしないのか。
この男をどうしたものかと苦慮したところに、いくつかの靴音が駆けて来る。
キルハの後ろから、たくましい鎧の鳴りが現れた。
騎士団長と、そして騎士たちであった。
「キルハ、それにライナー閣下」
「団長、今、陛下の守りに入ろうと……」
「王室の守りは騎士団が固める。お前は階下で食い止めよ」
ディグベルクは、キルハとそこにいる少女を見遣った。
その少女は逃げ遅れたのだろうと、難しい表情を浮かべる。
そしてライナーにもその目は向けられた。
「閣下、なぜここに。退避の報は聞こえませんでしたか」
「ああ、聞こえたのですがね、モンスターが恐ろしくて、執務室に籠っていたのです」
ライナーは部屋に籠っていたのに、モンスターに襲われた。
この男の言っていることは一貫性がない。
キルハの浮かんだ猜疑心をまとめると、恐ろしい答えになる。
ライナーはアキを見遣り、キルハの訝りを跳ねのけるように言った。
「妙なことではないでしょう、そちらの方も逃げ遅れたようですし」
「俺たちは、市政舎からモンスターを追ってきたんです」
「市政舎から。ああ、地下で繋がっていたのですね」
「閣下、俺は地下とは言っていませんよ」
確信とまではいかない、もちろん証拠もない。
キルハは覚悟を決めた。
「俺は一兵士ですが、一兵士でも王家へ忠誠を立ててここにいるんです。謀反を企てる者があれば、斬ります。相手が誰であっても、その覚悟はあります」
キルハの物窺いを察したのか、ディグベルクも目を険しくする。
その二人の睨みは、ライナーを捉えた。
「閣下を厳重にお守りせよ、厳重にだ。残りは王室の護衛に回る」
ディグベルクの指示を、推し量った騎士たちが動いた。
それはライナーを囲み、守るように、そして逃がさないように。
保護とも、拘束ともいえる、動きを封じるものだった。
もしもこの男が、この惨状の首謀なら、決して逃がしてはいけない。
今はまだ確証はないが、片付いてから吐かせればよいと、ディグベルクは考えを据えた。
ライナーはなおも薄く笑っている。
「兵士殿。忠誠は、私にもありますよ」
不気味な含み笑いだった。
鎧の騎士たちに囲まれておきながら、勝ち誇ったような、さげすむような嘲笑だ。
「当然でしょう、だから進言を重ねたのです。この国の闇を払おうと!」
その目は狂気をも感じさせるものだった。
視点は空を見つめ、仰々しく両手を広げて声を張り上げる。
「あなた方も知っているでしょう、この城下町の地下を、裏の世界を。だが、何度と申し上げても改善策を投じない。その王の体たらくを!」
豹変した大臣に、いや、これが本性なのか、取り囲んだ騎士たちも、ディグベルクさえ困惑して眉をひそめた。
「陛下を信じたかったから、騙されて働いていたのですよ。ですがもう限界でした。王は都合の悪い助言には耳を傾けない。何が開かれた王政ですか、その耳はずっと閉じているんです!」
「その戯言は謀反と捉えてもよろしいな!」
騎士団長の声に、キルハは震慄した。
このように激情をあらわにするような人物ではなかったからだ。
キルハが知らなかっただけなのか。
大岩を据えたような不動の風貌の底には、味方をも震わせる熱情があった。
ディグベルクの、そのたぎった熱量が、応剣【ライジング】を構える。
身の丈ほどの大剣を据え構え、刀身に炎が燃え上がる。
大岩を断つほどの重量の武器に、朱鳥術の炎が生まれたのだ。
その熱量に、威風に、何よりもその気迫に、誰もが目を瞠った。
その場の誰もが戦慄した。
迫力に押されながらもライナーは、震える声を振り絞った。
「騎士団長殿、精霊の術などでは、国は導けないのですよ……!」
ライナーは苦悶にも見える表情だ。
顔中の皺をひねり出すように、負の感情を吐き放つように、世界を憂う老人のように。
そして眼光だけは、理想を求める若者のように。
「国を導くのは陛下です、より強く正しく改心する、バンズクラフト王なのです!」
物々しく、ライナーは両腕を広げた。
「私は血の神の三子、悪鬼の力を持ったのですよ。さあ、その力をお披露目しましょう!」
血の神、というライナーの言葉に、騎士たちは意表を突かれたように固まる。
キルハも、突拍子のないその台詞に、困惑した。
忌み嫌われる神の名、その力を持った、どういうことを意味しているのか。
ディグベルクは構えを警戒のものに変えた。
騎士たちも武器を構えて備える。
キルハも剣を構え、何をしだすのかと睨みを据えた。
ライナーは、高い天井へ両手を掲げ、何かに呼びかけ続ける。
だが、待てども一向に何も起きない。
ライナーに何も起きないのだ。
「どうした、血の神よ、悪鬼よ、その力を、願いを叶えよ!」
「狂人に構っている間はない、捕らえよ!」
ディグベルクは号令を出し、大剣の構えを解いた。
怒りにも哀れにも映る目で、この騒乱を謀っただろう者を冷たく見遣った。
「なぜだ、神よ、血の契約はなされたはず!」
騎士たちに後ろ手にされたライナーは、天井を仰ぎ見て嘆く。
誰が想像できたであろうか、少なからず尊敬や信頼もされていたはず。
王も、信望があったからこそその地位を任せたのだ。
その通商大臣は、今や謀反の罪に問われて泣き叫んでいる。
「ああ、この国を変えてくれ、友よ、血の盃を交わした兄弟よ……」
「血の盃、兄弟だと?」
ディグベルクは、王女との会話を思い出した。
ライナーはこの時間まで執務室に残っていた。
夜勤のメイドが呼ばれた執務室は、財務府ではなかったか。
ワイングラスを三つと言ってなかったか。
ライナーに詰め寄ったディグベルクは、その胸ぐらを掴む。
首を絞める勢いで、残りの反徒を問いただした。
「誰だ、あと二人いるのか!」
しかし、虚ろな表情でうわごとを重ねるライナーに返答はない。
ディグベルクは苛立ちを突き飛ばして踵を返した。
「急げ、居館だ!」