20メイド
フクロウの声とは違う。
勇ましく、猛々しく、雄々しい。
その鬨の声に目を覚ました。
「やっと起きたか、お嬢ちゃん」
誰かが介抱してくれたのだろうか。
礼を言おうと身を起こした。
その前に粗相を詫びようと、その声を捜す。
記憶を辿りながら、何と不躾なことをしたのかと悔やんだ。
「奉公の身でありながら、とんだ不行儀をお許しください……」
「いいってことよ。気にするな、お嬢ちゃん」
大臣の執務室に忍び入った上に、王城の庭に小間物をまき散らしもしたのだ。
失態に涙が籠る。
その目で傍らを見遣るが、何の姿もない。
「お嬢ちゃんは何を望むんだ……その前にここだよ、ここだ」
目をこすり、辺りを見回し、背後までも振り返るが、声の姿は見えない。
とても信じられないが、声の元を、そのまま見下ろした。
すぐ横に、掌に乗るほどの姿があった。
その姿は両手をこちらに振り、滑稽でもあった。
体はガリガリに痩せた老人のようで、しかし幼い顔で、ニヤニヤと笑っている。
「よう、元気か?」
その剥げた頭の三本の角を見て、メイドは叫んだ。
「悪魔!」
腰をねじり逃げようとすると、その小さな悪魔は、ひざの上に飛び乗ってきた。
真っ白なエプロンの上で、奇妙な悪魔が腰を踊らせている。
「そう嫌うなよ、嫌わないでくれ。まあ嫌ってもいいがな」
言葉にもならない小さな悲鳴を出すのがやっとで、手ではたいて払おうとするが、小さな身を器用にかわされる。
「あっちに行って!」
「行きたいのはそうなんだけどな」
「取り憑こうとでもいうの!」
「もう取り憑いてるんだよ、お嬢ちゃん」
それはそうだろうと、なら早くこの膝から払いのけようと、手を振るが当たらない。
「何なの、あなた、どこから来たの!」
「愚問だな。呼び出したのはお前らだろう?」
「私は呼んでない!」
メイドははっとした。
ひとつ、それしかないが、あの光景が思い出された。
執務室で、財務大臣のペールらが行っていた儀式。
呪いの言葉、燃える炎、忌むべき血の神の名。
「あなた、ロゼウス……?」
「残念、愚問だな。ロゼウスは親父。俺は三男坊さ」
「だとしても、悪魔に変わりない」
「その力を求めたんだろう?」
「私は呼んでない!」
メイドは頭を抱えた。
小綺麗に揃えた前髪を掻きむしった。
この膝に乗る、妙な重さの悪魔は、血の神ロゼウスの三男だというのだ。
そしてそれを呼んだのは大臣たち。
それがなぜ、何のために、何で私に取り憑くのか。
「お嬢ちゃんのほうが、器がでかかったってわけさ。あまり深く考えるな」
「器で選ぶなら、召し使いより大臣でしょう……」
我ながら的を射たと思ったが、大臣に取り憑かれても困る。
王政を支える国の重臣なのだ。
ペールという大臣は、王からも信頼の厚い人物なのだ。
「そいつは勝手な決まりだな。だから俺も勝手に選んだ。兄貴たちも好きで選んで、他の二人に憑いたようだぜ」
「他の二人?」
メイドはもう一度、記憶を辿って息を飲んだ。
あの場には、三人の大臣、それに私が覗き見していた。
建設大臣のカッツェと、通商大臣のライナーだ。
この小悪魔の言うことを真に受けるなら、私と、三人の大臣のうち二人が、血の神の息子に取り憑かれたことになる。
「取り憑かれたら、どうなるの?」
膝の上で踊っている小悪魔に尋ねた。
「別にどうも。どうもしない。力を貸すだけだ」
「力って、何よ」
「力は力だ、愚問ばかりだな。お嬢ちゃんのことは愚問と呼ぶぜ」
また頭を抱えるメイドに、今度は踊りをやめた小悪魔が尋ねた。
「望みを叶えることが、力さ。愚問は何を叶えたい?」
そう言われてみると、自分は本当に愚かなのではないかと思った。
思いつかないのだ。
富、権力、独占、慕情、思いつくものがすべて霞む。
具体的に言葉にしようとすると、煙のように掴めなくなるのだ。
妙なことだ。そんなこと聞かれなければ、日常に多少は思いつく願望はあるのに。
例えば給金を上げてほしいとか、仕事を早く覚えたいとか、この仕事は、横柄な人も目に付く。少しばかり痛い目に遭わせたいとか、そういうものだ。
考えれば考えるほど、浅ましくも、何もかもを思い通りにしたくもなる。
「この国を平和に、争いのないように願うわ」
「愚問、どうやって平和にするんだ?」
「どうやってって、それを叶えてくれるんでしょう?」
「なら、知恵をつけな。俺の平和と、愚問の平和とは違う。俺は争いが嫌いじゃないぜ?」
悪魔が言うと、説得力があった。
きっと人間の感覚とは異なるのだ。
こいつの言う平和が叶うと、とんでもないことになるかもしれない。
「じゃあ、田舎の両親の、病患いを治したい」
「おい愚問、お前の望みを、聞いているんだ」
「私の望みよ。私の両親は……」
「身の上話はどうでもいい。愚問が、やることを聞いているんだ。お前自身がな」
こいつの言っている意味がわからない。
私の望みだろう。叶えたいことだろう。いくつでもある。
そのどれもが、きっと願っても叶わない、私の力ではどうにもできないことだ。
だから代わりに、この小悪魔が叶えるんじゃないのか。
「残りの二人、大臣は何を願ったの?」
またも暇を持て余して踊り出す小悪魔に尋ねた。
その細かな動きひとつひとつが癪に障ったが、知っておきたいことだった。
国の重臣である知識人は、どういう願いをするのだろう。
身分も、報酬も、知見も、大抵の人よりもはるかに得ている彼らは、いったい何を望むのか。
「国の平和だ」
ますます癪に障った。
自分が今さっき言ったことと、同じじゃないか。
「ふざけないで。いくら悪魔でも叩き潰すわよ!」
「奴らは、奴らのできることを願った。愚問とは違う」
自分のできること。
「できることを叶えるなんて、それじゃあ、力でもなんでもないじゃない。できるのに、望みですって?」
「いいや、力さ。なら愚問、お前にできることは何だ?」
「私は、王城にお仕えして、身のお世話をしたり……」
「していないのか?」
「してるわよ。頑張ってるわよ!」
「わからない奴だな。愚問、その一歩先を考えてみろ」
「その口を掌で、はたきたいわ」
メイドの手は空を切り、再び小悪魔は、憎々しく膝に乗った。
自分のできること、その先、今の仕事の先にあるもの。
ひとりの顔が浮かんだ。
「王女に、尽くしたい」
この国の王女、いずれ女王として跡を継ぐスフィーダ王女だ。
「王女の、手助けをしたい」
厚かましいのかもしれない、立場をわきまえない願いなのかもしれない。
しかし、あえて言うならば妹のような、その年頃の少女が、国を背負う重圧は自分には及びもつかないだろう。
女王になれば、今のようには暮らせないだろう。
今のようにただ可憐に、無邪気に、裁縫をしたりぬいぐるみを作ったりもできないかもしれない。
哀れと思うのも、分をわきまないことだが、せめて気苦労の慰めをしたい。
自分のようなものでも、敬愛する人間の、何か役に立ってみたいのだ。
「スフィーダ様の、お役に立ちたい!」
小悪魔はにんまりと笑って、そして消えた。
「俺は愚問の腹にいる。最後まで見届けてやるよ」
その腹の中に、そのずっと奥が、叩きつけられた感覚がした。
鈍い痛みに、また込み上げるものがある。
しかし、これで王女の身の回りの世話ができるのかと、淡く期待した。
言い遣わす前に、参じることができるのか。
裁縫をもっと上手く教えることができるのだろうか。
成人したらどんなワインを好むのか、そんなことも知っておかなければと、痛みに耐えていた。