18王女
王城の二階は、謁見の間が広がる。
元々が起伏の入り組んだ城砦であって、実際ははっきりとした階層ではない。
ただ建て増されたこの部分はこの限りではなかった。
開放的に造り変えられた王城の広さは、現王の、臣民に開いた王家の象徴であった。
惨状は、その王家への冒涜である。
大広間から、階段を駆け上がる。
走り抜けてきた王城は、さながら騒乱だった。
キルハがざっと横目にしたので六、七匹。
耳に届く叫び声も合わせると十を超えるだろう。
そのひとつでも、この先に進ませるわけにはいかない。
モンスターはすでに一階を蹂躙しているのだ。
せめてこの王座の間は、汚される前に死守しなければならない。
二つ並んだ王座に、人影があった。
その影は、王座にその腰を着かせていた。
悦に浸るようなにやけた笑み、その男に見覚えはあった。
「ああ、いや、違います。血で汚されていないか確かめていたんですよ」
キルハに気づいたその男は、慌てて王座から立ち上がった。
キルハの目に険しさが宿る。
この男は、この騒乱の中に何をしているのだ。
混乱に乗じて、王座に腰を掛けていたのか。
「閣下。許されることではありませんよ」
「ああ、そうですね、その通りです。愚かでした」
その男は通商大臣、王領内の経済すべてを取り仕切る長、ライナーだった。
彼は、確か下級貴族の出自だったか。
それながら王政の府大臣、枢密院の一員にのし上がったのは、本人の能力と、そして王の裁量によるものだった。
王は、世襲色の強い官の習慣を破り、実績をもって昇進させた。
いずれ城下町の自治会も、臣民議院として創り上げようともしているくらいだ。
この大臣のように、身分を問わず能力さえあれば、王政にも召し上げるのだ。
そのライナーが不遜を、ということに、煩わしくも思いあぐねた。
一兵士に過ぎないキルハは、何から片付けばいいのかと眉根を寄せる。
「決して簒奪だとか、そういうのじゃありません。ほんの少し魔が差しただけです」
「あとで報告します。それより、陛下はどちらでしょうか」
キルハは、悩みながらも、優先すべきことを心に据えた。
ライナーのにやけた顔は、なかなかに癪に障るものだった。
王城の三階部分、古くは砦として、今は王族の居室が並ぶ。
星空が美しく、フクロウが鳴き渡る。
窓を開けるときっと夜風も気持ちがいいだろう。
しかし今夜は、その星を見るのも忘れていた。
スフィーダは、母方の姓を名乗っていた。
「スフィーダ・セリナ・バンズクラフト」
そしていずれ来る名前を口にして、がっくりと肩を落とした。
両親、つまり現バンズクラフト王に、ようやく授かったひとり娘だった。
王位に就くことは、ある程度の分別がつく歳には理解した。
そして、そのまま歳が過ぎていくものだと。
勉学を重ね、王政の跡を継ぐことが、自分の人生を全うすることだと。
大切に実を育てるように、膨れていった心が、国に捧げるはずの心が、いつしか今にも弾けそうに、胸の内を踊らせている。
今日の最後の会話が、ディグベルクとのものだったので、そのままベッドに滑り込んだ。
侍従のメイドが出ていくと、足をばたつかせて枕に顔を埋めている。
なぜかはわからない。まだはっきりと、気持ちを整理できるほどの歳でもなかった。
まだ周りには、子供扱いもされる歳だった。
ただひたすら、騎士団長を思い浮かべていた。
「ああ、弟でも生まれたらいいのよ。王領にもいない親族なんて、当てにもならない。王位を継がせて、私は補佐をするの。地方行政官でもいいわ。ディグを近衛にするの」
柔らかい綿の詰められたベッドは、バタバタと音を立てている。
スフィーダはシーツの上で転がり、手は宙を掴む。
くるくると、輪舞曲を踊るように、想像の相手を膨らませた。
「ああ、メイドの話なんてするんじゃなかった。もっと自分のことを話したかったのに」
それをかき消すように、忙しくノックが鳴った。
楽しい夢を見ていた最中に起こされた気分だ。
枕にこもった声が、誰かに聞こえでもしたのかと、遠く離れた扉を見遣る。
「ええ、どうぞ、何かしら」
息を整えて、姿勢を正す。
今日最後の会話が、これで塗り替えられるようで残念に思った。
王女の部屋を訪ねる者は限られていたので、またその侍従が何か用なのかと迎える。
「変事でございます、陛下のお部屋へ」
「そう、わかったわ」
スフィーダは両手を広げ、侍従が寝間着を解く。
「着替えたばかりなのにね」
「痛み入ります」
いつもより気持ち手早く、着替えは済ませられた。
長い衣装をひるがえし、身なりを確かめる。
「変事って?」
「お伝えしてよいものか……」
「仰って」
「副団長は、モンスターだと騒いでおります」
ふうん、と素っ気なく返し、それ以上考えもしなかった。
騎士団長ではないのかと。
ならば知る必要もなく、言われたままに身を隠せばいいのだと、扉へ向かった。
「どうぞ、こちらへ」
額に汗を浮かべて、息も切れつつの声だ。
その騎士団の副団長だった。
いい歳だろうに、走り回った汗が皺から垂れている。
余程の急を告げることだとわかり、スフィーダは素直に、父親の居住いへと足を速めた。
この王室の居館は、入り組んだ城砦部分にある。
古びていながらも、しっかりとした石積みが、歴史を感じさせるものだった。
建て増されて新しく広がる階下とは造りが異なり、石の作りも骨董品のようにそびえる。
窓も少ないぶ厚い石積みを、星空は見えるのだろうかと考えながら早歩く。
「殿下、お早く」
「ええ」
最近取り付けられたオリウム灯油の明かりが、階段の下に伸びていた。
それは当たり前のことだが、この下は大臣らの執務室だ。
スフィーダはなぜか気に掛かって、もう一度その下を見遣ったが、副団長に急かされてそれを後にした。
王の居室には、いくらかの人が退避していた。
両親である王と王妃に加えて、その侍従や、この時刻まで残っていた官吏らもいる。
スフィーダの入室に扉が閉まると、王が髭をなでた。
少しばかりの騒がしさが納まる。
これが、王が何かを言わんとする癖だったので、皆は静まり言葉を待った。
「少しばかりの、騒動があったそうでな。階下は我が騎士団と兵士団に任せてある」
誰もが表には出さないが、動揺しているだろう。
それらを推し量るように、子供にでも語りかけるように、王は皆を見渡した。
それこそが、現バンズクラフト王の特徴だった。
「不時の事態だが、大したことにはない。だが万が一に備えて皆を呼んだ。誰もが欠けてはならぬ思いからだ。人こそ、この国の宝だからな」
王の言葉に、侍従や官吏も、皆が胸をなで下ろしている。
笑みさえ浮かぶ落ち着きようだ。
こういう姿こそ国を治める者、官民の上に立つ統治者の姿なのだろうと、スフィーダは目に焼きつけた。
そして、騎士団長の姿がないか、そっと目で見回したものの、さすがにその姿はなかった。
スフィーダはその身を案じ、そっと思いを胸にしまった。
「我が王国騎士団に任せれば、案じることはありませんな」
王の言葉を追うように、一歩を出したのは財務大臣のペールだった。
同じように、堂々とした振る舞いを並べるように、首を縦に振っている。
それに合わせて腹についた肉も揺れている。
彼も王政に仕えて長いが、常に初心改めるように政務にあたっている。
ゆえに官僚からの信頼も厚く、次期の宰相とまで言われている。
「うむ、その通りだ。だからこそ、我々は邪魔にならぬように、集められたわけだ」
頬をほころばせた王に、笑い声まで咲き出す。
副団長は、これに苦笑してもよいものかと、渋そうにしていた。
気丈に振る舞っていた母親も、緊張がほぐれたようだ。
だがスフィーダはわずかに引っ掛かるものがあった。
今期の徴税も終わり、後日にある祭典は、財務府の管轄でもない。
その府の長が、何の居残りをしていたのか。
彼は秘書官長も兼ねているが、外交の予定すらしばらくはない。
居残りまでしてこなす仕事が、何かあっただろうか。
そもそもペールは、王の自室に招かれて、こうも無遠慮にしている気質だったか。
そして、メイドがひとりいない。
新人だがよく気がつくメイドだ。
裁縫を教えてもらった後、仕事に戻った。
今日は夜勤だったはず。
ディグベルクと話し込まなければ、彼女を呼んでお喋りでもしていただろう。
そのメイドは、財務室に呼ばれた。
ワイングラスを三つ運ばせたのだ。
少なくてもあと二人、執務室に残っていた者がいるはずだ。
だが、ここにいる官吏の中に、大臣室に呼ばれるほどの人物はいない。
勘ぐりすぎだろうかと、スフィーダは悪い癖をやめた。
なかなか胸のざわつきは止められない。
「さあ、我が家へ案内しましょう」
おどけてかしこまる王に、皆が目を向けた。
そして木製の書架へと視線が移る。
目一杯にぶ厚い本の詰まった書架が動き出す。
王は装飾を好まないので、壁には簡単な風景画が描かれていた。
書架はその壁に沿って、ズルズルと横へと滑っていく。
そして、隠れていた通路が現れた。
この部屋には、他のいくらかの部屋にもだが、隠し通路がある。
昔からの城砦だけあって、隠し部屋や外への逃げ口が多く、そのすべてを知る者はもう存命していないくらいだった。
若干のどよめきは、隠し通路があったことではなく、王の戯れを盛り上げるものだった。
この城に仕えるものでも、そうでなくても、隠し部屋の噂くらいはどこにでもあった。
ただ具体的に発見できたものは少ないのだが。
この書架のひとつも、どの仕掛けで動いたのかと尋ねる官吏に、王は笑って返すのみだった。
副団長を先頭に、列を作って階段を下っていく。
隠し通路は、ごく普通に歩いて通れるほどの広さで、この入り口を見ていなければ、非常用のものなどとは思わないだろうものだった。
侍従たちはたいまつを持たされ、それのみの明かりが、古い石壁を照らして歩いた。
列をなした歩みの中、スフィーダは積もっていた猜疑心を口にした。
「お父様、ここにいる者で、すべてなのですか?」
「見回りを出したからな。声のあった者はすべてのはずだ」
「そうですか」
ならやはりお気に入りのメイドは、その変事とやらに巻き込まれたのだろうか。
スフィーダは胸の潰れる思いがした。