16魔・雨鼠
その妖しく光る紅い眼に、いつから見られていたのか。
いつから潜んでいたのか。
いや、それはどうでもいい。
今、それに捉えられていることが問題だった。
キルハはその先にたいまつを向けた。
眼の位置は低い。体躯はそう大きくはないと想像できた。
さっきの愚・猿怨に比べればだが。
「モンスターだ!」
紅い両眼は、こちらを見定めるかのように揺れ動く。
「くそっ、やっぱりいたのか!」
そして一層の妖しさに眼が光った。
瞬間、その牙が剥く。
キルハは少女の腕を引き、横にさけた。
たいまつをかすめ、その体躯が跳ね飛び、過ぎていく。
そして再び通路の闇に入った。
暗闇に身を隠すように。
たいまつが照らす、心もとない明かりの、その届かない外を測ったように。
爪を喰らったのだろうか、キルハの腕に痛みが走る。
たいまつの炎にじりじりと、出血が照らされる。
「魔・雨鼠だ!」
キルハの叫びに、またもや紅い眼が襲いかかる。
その眼の狙いを頼りに、身をよじって避ける。
「くそっ、速い!」
短い足が素早く向きを変え、石床を跳ね返るように飛び掛かってきた。
たいまつを片手に、引き抜いた茎剣【スラスト】は牙に当たる。
恐ろしく尖った前歯だ。
ただの獣であれば、このまま咥えさせた剣を押して斬れば口が裂けるだろう。
しかしこの魔・雨鼠は、怯むことなく牙を剥き出して、なおも押し倒そうとしてくる。
「小さいくせに!」
いや、獣にしては小さくはなかった。
大柄な人間でも押し倒せるくらいの体躯だった。
そのモンスターの身体に、たいまつを当てる。
獣毛の焼けつく生臭さが起こる。
魔・雨鼠は金切り声を上げて、またも闇に駆け出した。
そして再び、暗闇に紅い眼が揺れる。
怒りに狂ったのだろうか、歯をギリギリと鳴らすようなうなり声でこちらを捉えている。
「お前は逃げろ、来た道を戻るんだ。ただひたすら走れ、振り向かずに」
キルハは痛みをこらえて声を潜ませた。
しかし少女は、怯えるように戸惑っている。
たたずむ少女にたいまつを手渡し、そして剣を構えた。
紅い眼の揺れが止まった。
「走れ!」
妖しく光る紅い眼は、キルハに襲いかかる。
獣の神もまた、多くのモンスターを生み出した。
ゆえに蛮神と呼ばれて、忌み嫌われている。
人に手がつけられないほどに狂暴で獰猛なモンスターも、同じ様に忌み嫌われ、それ以上に恐れられている。
真っ向から立ち向かえば、余程の鍛錬を重ねた戦士でも、命を落とすからだ。
知らぬ神々よりも、たまにでも現れるモンスターのほうが、人々を恐れさせるものなのだ。
そのモンスターの突撃を、キルハは両手で握った剣に受けた。
さっきよりも激しいぶつかりに押し倒され、牙が迫る。
両肩に鋭い爪がしっかりと食い込み、血をにじませる。
激痛に耐えながらも、その牙だけは受けまいと歯を食いしばった。
キルハは少女を見送るように目線を向けた。
「でもいいぞ、これであの子は逃げられる。名前くらいは聞くべきだったか」
しかしその少女は、逃げれずに立っていた。
「お前、逃げろよ!」
「静かにして」
甲高い音が鳴り打たれている。
何度も、一定の拍子で、滴る水のように鳴っている。
少女は、逃げずにいたのだ。
鉄の檻の前で、キルハが渡した石くれを手にしている。
少女はその石くれで、ただ檻を叩いている。
「ならその石で術を使え!」
「私、術なんて使えない。そんな力なんてない」
石くれは鉄の檻を鳴らし、金属音を響かせている。
心臓の鼓動のように、水の滴りに合わせるように。
「私はずっと、我慢してきた、耐えてきた。もしそんな特別なことができるなら、逃げることに使っていたかも」
魔・雨鼠の挙動が変わった。
獲物を抑え込む腕力が抜け、別のほう、その檻を見ている。
そして、紅い眼を揺らした。
「そんな話どうだっていい、今すぐ逃げろ!」
「でも何もできないから、痛みに耐えれば、苦しいならその分だけ、希望があると思ったの」
少女はなおも、檻を打ち続ける。
そして、紅い眼が少女を捉えた。
「サーラが言ってたの。馬鹿みたいな決め事って。あれはきっと私に言っていたのね」
「何をしてるんだ、早く走れ!」
「同じ辛さなら、彼女みたいに少しは行動しようと思うの!」
魔・雨鼠が少女に走る。
たいまつの明かりに、その牙が剥かれた。
「精一杯、生きる努力をしようと思うの」
少女は石くれを檻の中に投げつけた。
力強く叩きつけられた石くれが、檻の鉄底にぶつかって音が生まれる。
地下中に響き渡るほどの金属音だった。
それを追うように、魔・雨鼠は向きを変えた。
モンスターが牙を走らせた先は、その石くれだった。
そして少女は檻の扉を押した。
やや錆びついてはいるものの、頑丈な鉄の格子を押し込む。
肉と毛の塊みたいなこのモンスターは、それを察したのだろうか。
獣のように、本能的に危機を感じたのかもしれない。
閉まっていく格子に、牙が襲いかかる。
重い鉄の檻が、嫌な音を立てる。
ギシギシと絡まるような金属音に、モンスターの奇声が混じる。
段々と閉じられる鉄の扉は、威嚇しながらの体躯に押し返される。
魔・雨鼠は自らが鉄をかじり鳴らす音に興奮し、さらに甲高い叫び声を上げた。
少女の手に、キルハの手が添えられた。
扉の一枚向こうの鋭い牙は、まだも抵抗を続ける。
モンスターにも決死の覚悟というのがあるのだろうか。
二人の手は、格子を力いっぱい押し込み、少女はかんぬきを下ろした。
最後の突進は、頑丈な鉄の格子にぶちあたって跳ね返った。
転げまわり、なおもがむしゃらに走り回っている。
出口を探すように、檻の中を暴れ回る。
しかしその紅い眼の獣の行き先に、逃げ場はなかった。
完全に閉じ込めた魔・雨鼠を檻ごしに見遣る。
腰が抜けたように脱力し、床にしゃがみ込んだ。
干からびたように喉が熱い。
呼吸の乱れた二人に、安堵のため息が重なった。
「音に反応すると思ったの」
「そうか、命を救われた」
息を落ち着かせると、しゃがみ込んでいた腰も揃って上がった。
「私はアキ。山賊じゃないわ」
「キルハだ。最初からそうは思っていない」