14不運
怯え疲れというものがあるのだろうか。
アキはただ、大きな血だまりを眺めていた。
この地下に揺れる明かり、壁掛けのたいまつが、それを赤黒く照らしている。
モンスターが沈んでいった血だまりだ。
いなくなったのか、退治されたのか、その最後は目を背けていたのであまり見てはいない。
ただなんであれ、やってきた兵士たちの様子からすると、命の危機は去ったのか。
見張りをしていた兵士は、血だまりをおどろおどろしく、棒でつっついて確かめている。
「何なのよもう、悪い夢だわ。全部が嘘みたい、あの日から全部が悪夢よ……」
さすがの勝ち気なサーラも、頭を抱えてうなだれている。
山賊にさらわれ、そのときの言い振りでは家族も亡くしたのだろう、助けられたと思ったら牢に入れられて、そしてモンスターに襲われた。
神々が吉凶の配分を間違えたんじゃないかと思うくらい、不運が続く。
自分と同じような苦しみを負ったサーラに、ただ手を添えるしかできなかった。
「待っていれば通りすぎるよ。今までだってそうだったじゃない」
「やめて、触らないで!」
アキはその手を払われ、慰めの行き場をなくす。
「みんな、不幸なのよ、気休めはやめて。これからも続くかもしれないのに、いえきっとそうだわ。安心なんてできない。希望なんて来ないのよ!」
サーラは顔をくしゃくしゃに嘆き悲しむ。
ならず者に殴打された青いあざは、少しは薄くなっただろうか。
しかしもう年頃の少女とは思えないほどに、疲労が皺に表れていた。
「当たり散らして悪いわね。そうね、生きているみんなで助け合わないと」
「いいの、きっともう少しの辛抱だから」
サーラの目線は周りを巡る。
同じようにうなだれ、疲労に放心している女たちもいる。
「女たちは上に移すか」
「しかし勝手に動かすのは……指示を待たないと」
「逃走されても始末書じゃすまないしな」
「モンスターのせいですよ、そうしましょう」
兵士たちは、自分たちの身の置き場の相談をしている。
アキが聞いていても煮え切らない会話で、責任に気を揉んでいるようだ。
この牢の、彼らに言わせれば拘置所だそうだが、すでに檻は壊されて倒れ、砕かれた石壁の残骸が散乱している。
サーラはその石くれを拾い、血だまりに投げつけた。
言葉にもならずに歯を食いしばり、憎しみを打ちつけるように。
泥にも似た血を付けて、ただ石くれは、音を立てて転がった。
陽に吊るされたシーツに石をぶつけても、物ともせずに返されるように、怒りや嘆きが、行き場を失くした無情さに襲われる。
どうあがいたらよかったのか。
どうあがけば希望がやって来るのか。
先の見えない、この地下のように、ただアキは拳を握った。
「彼女たちは、不運に巻き込まれただけです」
少年の声が、虚ろにしていた耳に響いた。
唯一、アキたちをかばうようにしてきた少年だ。
「この場から離して、地下を兵で固めましょう」
「それは衛長の指示を待っている。それと女たちの処遇は、夜が明けてから決めることだ」
「でも、もう拘置はできないでしょう?」
少年も兵士も、つられてアキも、壊された牢の格子を見遣る。
「この有様だからな。ならいい案があったら述べてもらいたい」
「いま言ったでしょう!」
少年は気を焦らすように兵士に言い返す。
一番の年下のようだが、気負いは大きいようだ。
逆に熱のない兵士たちは、少年に対策を丸投げしているようだった。
実際、この少年がこの有様の始終を見ていたのだから、当然かもはしれない。
突然に出現してきたモンスターへの、その対策への苦慮が傍目に見てもわかる。
少年は腰に手を当てて考えている。
まるで、他の誰かならどうするかを思い浮かべているように。
しかし寄せられた眉間は、考えを遮るように、勢いに任せたようなものに変わった。
「俺が様子を見てきます。皆はここで、地下と女たちを見張れっていればいいでしょう。彼女だけ、連れて行きますよ?」
多少投げやりな少年の発案に、兵士たちも顔を見合わせるが、結論はでないようだ。
地に着かない及び腰に、少年は焦るようにひとりで進める。
壁掛けのたいまつをひとつ取り上げ、その明かりを向けてきた。
照らされたアキに手が伸びる。
すっかり崩れた牢から、アキは少年に腕を引かれた。
立ち上がり、されるがままに少年について行く。
「何であんただけ……」
うなだれていたサーラが叫んだ。
行き場のない苛立ちは、振り絞るような声で、アキに向けられた。
「何であんただけ出されるのよ!」
「サーラ、出されるんじゃない。連れて行かれるの」
興奮した少女をなだめようとするが、自分でも連れて行かれる理由がわからない。
どこに連れて行かれるのかも。
ただ向かっている先は、地下を上がる階段ではない。さらに奥のほうだ。
「ちゃんと説明するから。私たちみんなが助けてもらえるように!」
「あんたってずっとそう、自分だけ他人と違うみたいに!」
サーラは悔しさを吐き出すようにアキに詰め寄ると、兵士に肩を抑えられた。
それでも表情を険しくアキに突き立てる。
「どこか自分だけ助かると思ってるんでしょう。ただ耐えて何もしないだけなのに!」
細い刃のように、槍に射貫かれたように、それはアキに突き刺さった。
弱い自分をさらされ、それは何よりも痛く、耳から胸に届いた。
「何を考えているかもわからない、生きたいのか苦しみたいのかもわからない、そんなあんたが、誰を助けられるの。信用できるわけないでしょう!」
サーラに、心を剥き出しにされた気分だ。
自分でも、何もできないことはわかっている。
弱いから、せめて心だけでも、幸福を願おうと。
でもそれは、他からみたら何もしていないことと違いはないのだろう。
ただ苦難に閉じこもっているだけだ。
「そうね。本当に、そうかもしれない」
いちいちこの傷が癒えるのを待っていたら何も変わらない。
これまでと同じ、苦痛を受け入れて、どこかで報われる期待を待っているだけだ。
痛みを重ねて、不運を嘆いて、それに浸っているだけだ。
それで心が強くなったように、勘違いをしていたのかもしれない。
「でも、みんな助かればいいと思っている。それは信じて。ならず者だと決めつけている彼らとは違う。私を信じて」
アキは、この少女のほんの少しでも、生きることへの気概を自分も持てたらと思った。
同じ境遇に同じチャンスがあるなら、きっと手にするのは彼女のほうだ。
必死に手を伸ばす、サーラのほうだ。
どうせ苦難に埋もれるなら、必死に手を伸ばすべきなんだ。
不運の重しに耐える我慢よりも、はい上がっていく勇気が欲しい。
種はいつか芽吹かなければならない。