13紅い眼の先
モンスターは何かを嗅ぎつけた。
血の匂いに気づいた野獣のように。
愚・猿怨は血の獣に属する。
血の神ロゼウスが生んだモンスターのひとつとされていた。
狂暴でいて動きは早く、怪力を持つ。
この狭い地下牢でなければ、走り回って相手を翻弄していたかもしれない。
そして穿たれた石壁が、その長い腕の力を表している。
それだけだと思っていた攻撃が、第三の腕のように、長い尻尾からも繰り出された。
揺らめくたいまつの明かりに、自分よりも一回りも二回りも大きな姿が半分の陰を作る。
地下牢の女たちは、端に集まってただひたすら怯えていた。
その牢をほんの少し見遣って、キルハは愚・猿怨に構えた。
自分に気を立てていれば、あの少女、女たちには向かって行かないだろうと。
「次はかわせないな」
ならばもう一度、間合いに入った瞬間を狙って斬りこむかと考えた。
キルハは剣の腕に自信はあった。
いつかモンスターをやっつけるのだと、年頃になった今も、勇ましい幼心は残っていた。
しかしいざ対峙すると、人間を凌駕した力に、気負いだけではかなわないのだと思い知らされる。
「せめて術が使えたら、違ったかな」
術を使えないからこそ、剣の腕をひたすら磨いていたわけだが。
だが今は、どう違ったのかを考えている場合でもない。
愚・猿怨は怪しく紅い眼を揺らしている。
長い尻尾をしならせて、また石壁を穿つのか。
キルハは呼吸を整えて迎撃に備える。
だが、一向に襲いかかって来ない。
「どうした、腕が痛むか。ひるんでいるのか?」
もちろんその様子はどちらでもなく、低い声でうなっては赤い眼を動かしている。
そして血がたぎったように、野太い咆哮を放った。
耳に腹にその叫びが響く。
壁掛けのたいまつも石積みの壁も、その音に震えるようだった。
そして長い腕が振りかぶられる。
この開いた距離だと、キルハには届かない。
だとすれば、それはキルハを狙ったものではなかった。
打ち下ろされた拳は、女たちのいる牢に向けられた。
愚・猿怨の腕は、鉄格子を打つ。
その鉄の棒よりも、支えていた石壁のほうが崩れた。
そして鉄の牢は外れ、単なる部屋になった。
女たちのいくつもの狂乱の悲鳴が鳴る。
暴虐と、その異形の姿への、逃げ場のない恐怖であった。
バンズクラフト王家は、民を大切にしている。
それは常日頃から、王が述べていることなのだ。
この国は臣民によって成っていると。
この女たちも、ここにいる以上は、守るべき臣民なのだ。
「くそっ、こっちだ、こっちへ来い!」
キルハは剣の切っ先を振って、このモンスターの注意を引く。
位置取りまで気が回らなかった。
王国の兵士が、騎士を目指す自分が、目の前の民を守れないのは、仕えた者の信用を失うも同然だ。
またも愚・猿怨の拳が振られる。
次は牢の中を狙ったものだった。
その巨体は、狭い入り口につっかえながらも、狂ったように腕を放つ。
鉄格子の外れた石壁が割れ、石くれが女たちに飛ぶ。
押し込められた女たちは這う這うの体で、狭い牢内を逃げ惑う。
紅い眼はひとりの少女を捉えた。
すでに裂かれた左腕を残し、うなり声とともに、もう片腕が振りかぶられる。
キルハは茎剣【スラスト】を斬りつけた。
さっきまでとは違って隙だらけだ。
背後から愚・猿怨の腿に斬撃が入る。
またも長い尻尾がなぎ払われ、キルハの胴に打ちつけられた。
「くそっ、こっちを向け!」
尻尾と石壁に挟まれながらも、その長い尻尾に剣を突き刺す。
女たちの悲鳴に、モンスターの叫喚も加わる。
愚・猿怨は、殺気立たせてキルハを見遣る。
しかし、またも少女に、その紅い眼を向けた。
「なぜ、そちらばかり狙う!」
キルハは躍起になって剣を振った。
両手を使い何度も打ちつける。
愚・猿怨の硬い筋肉を幾度となく叩き斬る。
邪魔だと言わんばかりに、長い腕が払われる。
咄嗟に伏せてかわし、尻尾の叩きつけを転がって避ける。
それでもまだ愚・猿怨は少女を狙う。
ひねった体から尻尾が払われた。
キルハは少女の前に走る。
少女を背に、剣を立てて足を踏ん張った。
打ちつけられる殴打に、必死にこらえる。
この少女が受けていれば、たちまち吹き飛ばされて骨まで砕けるだろう。
キルハは歯を食いしばり、もう肉が弾けそうな攻撃を耐えた。
紅い眼の先が、少女に移った隙を逃さなかった。
キルハは、愚・猿怨の懐に飛び込んだ。
憧れの騎士団長、ディグベルクならそうしただろうからだ。
茎剣【スラスト】の切っ先は、真っ直ぐに心臓に突き刺さった。
さらに力を加えて、ひねり上げるように足腰を落とす。
モンスターに心臓があればだが、傷口から噴き出す流血の量からしても、絶命に至ることは明らかだった。
愚・猿怨は絶叫を上げた。
今までのなによりも大きく恐ろしい叫び声だった。
その肉が、血が、とどめの感触を作る。
前かがみの巨体は、大きくのけ反って石床を打った。
巨木が伐り倒されたように、どっしりと崩れ落ちた。
そして、大樽を何杯もひっくり返したような量の、その血だまりの中に、モンスターは沈んだ。
沈んだのだ。
粘った血に溶けるように、赤黒い海に溺れ行くように、巨体は沈んで消えた。
紅く光った眼は、その沈む先の死の世界を見ているようだった。