12愚・猿怨
キルハは子供のころ、武器屋を営む父親に、よくモンスターの話を聞かされていた。
若いときに用心棒をしていた父親の武勇伝だった。
どこまで本当かと思いながらも、モンスター退治の話を聞くのが楽しみだった。
父親はオーラム金貨を貯めて、息子に図鑑を買った。
そしてキルハは、図鑑にあるモンスターを、いつか退治する自分の姿を夢見ていた。
そのモンスターが現れたのだ。
通常であれば人里で見ることはない。
まして王城にも近い、こんな街の中で。
目前から、咆哮なのだろうか、地下に響き渡る。
石壁を砕いて現れたその獣、のような生き物は、野太い奇声を放った。
腹の中に打って響くほどの叫びだ。
激しく叩かれる太鼓の皮が、金属でできているように、高くも低くも聞こえた。
「おい、どうした、何だ今の音は!」
夜勤の見張り兵が地下に駆けてきた。
そしてその姿を目にして、その駆け出しを止めた。
いくつかのたいまつの、明かりの影でしか見えなくとも、その外貌に身を縮ませた。
頭は天井に付きそうに高く、肩幅は大岩のように大きい。
人の形とも取れるが、両腕は地面に付くほど長く、足が短くも見える。
前かがみに長い尻尾を立てながら、せいぜいの二本足ですり歩いてくる。
紅い眼を、妖しく光らせながら。
愚・猿怨というモンスターだ。
「化け物、モンスターか!」
見張り兵は震える喉をふり絞って、何かを手探る。
武器になる物を取ろうとしているのだろう。
しかしこの怯えた兵士が、どんな武器を持てば挑めるというのか。
兵士といっても常に武器を携えているわけではない。
「応援を呼べ!」
しかしキルハは違った。
王国騎士は、いつ何時でも剣を備えている。
そして騎士に憧れ、目指しているキルハも、それに倣っていた。
まだ少年の面影すらある目に、純粋な志を持っていた。
キルハは叫ぶ。
それは自らを渇する声だった。
腹の底から気合いを入れる、そして腰に手を遣る。
「からかわれもしたけど、役に立つもんだ」
キルハは鞘から真っ直ぐに、茎剣【スラスト】を引き抜いた。
片手でなぎ払い、両手で振り下ろす。
馴染んだ剣の間合いを確かめた。
この腕の長いモンスターの懐までの踏み込みを図ったのだ。
切っ先が届いても、かなりの筋肉質のようだ、より沈み込んで突くべきか。
「二歩、いや三歩は踏み込むか」
対峙した愚・猿怨は尻尾を高く上げ、威嚇しているようだ。
動物とモンスターの違いは、ひとつはその眼にあった。
血の色よりも妖しく、はるかに紅く、おぞましく光る。
薄暗さに二つの瞳が、紅い線を引いていく。
来るのだ、モンスターが。
そして獣臭さが、鼻の寸前まで攻め込む。
愚・猿怨の腕が、キルハへと打ち込まれた。
キルハは、迫るその危険に、半歩身を退いた。
半歩しか、退けなかったというべきか。
鼻先をかすめたその拳が、石壁までも振り抜かれ、石積に穴を穿つ。
壁の砕かれた石くれは、やはり人のものではない怪力のものだ。
茎剣【スラスト】の刀身に慣れていたからだろう。
間合いに入り込まれた瞬間に、何とか身を退くことができた。
間合いを取り直す暇もなく、愚・猿怨の次の長い腕が放たれる。
剣で受けるべきか。
人間相手ならそうしただろう。
感覚的に、それはまずいと身体が拒絶した。
キルハはさらに後ろへ跳んだ。
嵐に遭ったような拳の追撃が、再び顔前を過ぎる。
丸太の振り子のような、その長い腕は轟音を叩いた。
反対側の壁も打ち崩れ、パラパラと石壁の破片が落ちる。
「まずい。馬の後ろ蹴りよりもまずい」
実際にそんな比較にもならない破壊力が、紅く染まった両眼が、キルハを捉える。
「皆に知らせろ、愚・猿怨が城下に入り込んでいる!」
見張りの兵士に叫んだのだが、すでに逃げるように知らせに行っている。
反応はなくキルハの声は空虚な地下牢に響いた。
「逃げ場はないか」
そして背についた石壁に、切迫した心音が跳ね返される。
気合いと声を出し、覚悟を決める。
「だが、逃げる気もない!」
あの巨漢の山賊にも立ち向かったのだ。
経緯はともかく、この手で屠ったのだ。
その山賊よりも、一回りも大きく異様な姿に、茎剣【スラスト】を構えた。
「せめて、外には出さない。手負いにくらいはしてやるさ」
王城にも近い所に、モンスターが現れたのは由々しき事態だ。
それはそのまま王室への危険でもある。
せめてこの地下内で抑えなければならない。
キルハは切っ先を、その長い両腕に向けた。
どちらの腕が飛んで来るか、真っ直ぐに両手を構える。
左腕、キルハから見て右だった。
振りかぶった動きに、陽動は見えない。
落ち着いてみれば、粗暴に腕力だけを振り回しているだけだ。
モンスターが小細工などできるのだろうか。
たいまつの明かりを頼りに、その影に切っ先を合わせた。
踏み出す足に、迷いがあってはならない。
それは、騎士団長ディグベルクの助言だった。
そして、憧れるその先の男の技でもあった。
襲いかかる腕を目がけて、刃を走らせる。
攻めに追い付く攻めであった。
振り下ろされた左腕に、茎剣【スラスト】が斬りつけられた。
愚・猿怨が甲高い悲鳴を上げた。
長い腕に沿って、裂傷が血を噴き出す。
キルハは片頬にかかる鮮血に、暴れ狂う愚・猿怨を横に見遣る。
「団長なら、二つに裂いていたな」
肉を斬った手応えはあったが、まだ仕留めるには至らなかった。
キルハは次の斬撃に踏み込んだ。
傷を与えた左腕へ、そのまま突っ込む。
「そして、待ちもしない!」
死角だった。
人間相手なら絶対になかった反撃だった。
肋骨が軋むのを感じた。レザーアーマーの上からだ。
長い尻尾がもうひとつの腕のように、キルハの横っ腹になぎ払われた。
「ふっ、はっ、くそ、まだだ!」
一瞬、呼吸が止まり、衝撃はみぞおちに達した。
怯みを踏ん張って気迫を立てようとする。
しかし身体は追い付かずに、足腰に定まりがなかった。
いま攻撃を受けたらやられる。
愚・猿怨の尻尾が、巨大な鞭のようにしなる。
「来るか……!」
回復を早めるように、必死に息を繰り返した。
また反撃を狙うか、一度退くか。
そのどちらも、中途半端な足腰にはできそうになかった。
愚・猿怨の赤い眼が揺らめく。