10血の契約
夜が始まり、王城の裏手の森には、フクロウが鳴く刻だった。
前門に近い城内の食堂広間からは、賑やかな明かりが外に漏れていた。
しかしこの執務室の並ぶ二階の奥は、その賑わいも届かずにひっそりと静まっている。
政務を終えた役人たちは、ほとんどが宿舎や旧市街の自宅に帰っていた。
メイドが部屋を覗くと、静かに執務室の明かりが漏れる。
しかしその明かりは、つい今しがた入ったものとは違う。
明るかったオリウム灯油のランプは消され、ロウソクの仄かな照りだけが落ちていた。
奇妙な様子に丁寧に扉を開けると、そっと体を滑り込ませて歩を進めた。
財務府の豪華な執務室も、こう薄暗いと不気味に感じる。
どうしたものかとメイドは、細かい彫刻壁や高価そうな壺にぐるりと目を遣った。
そして衝立の向こうから声が聞こえた。
ロウソクの揺らめきと、人の声とが混じっている。
「血の神ロゼウスよ、その子らもまた偉大なり」
「我のこの血を捧げ、我にその血を与えよ」
「子の名は巨人、獣人、悪鬼なり」
メイドは鳥肌が立った。
この向こうで何をしているのか。
おどろおどろしい呪文のような言葉が、明かりに揺らめいて耳に入った。
衝立の端から目を挿し込んだ。
そっと花瓶に花を挿すように。
確かめたかったのだ。何かの戯れであることを。
決して恐ろしいことではないことを。
この執務室の主であるペールがいた。
薄暗い影のみだが、丸っこい身体の線からわかる。ついさっき見た姿でもある。
そして彼の招いていた、二人の大臣も見える。
それ自体は大して珍しくもないだろう。
閣僚同士の申し合わせか、裏での駆け引きか、個人的に仲が良いのかもしれない。
それを勘ぐるのもメイドの応分とは違う。
ただ酒を飲み交わすことに、何も妙なことはない。
それがワインででもあれば。
「この血は我々の契りだ」
「同士よ、血を分けよう。力を得よう」
「我々の血を、王のために、王国のために」
ワイングラスが飲み干される。
ロウソクの揺らめきに、口元に赤い血が垂れる。
そして三人の大臣は、静かにその時を待った。
三つの影に囲まれた床に、火が付いた。
火事だと、メイドは人を呼ぼうと考えた。
しかし動けなかった。足が震えた。
怖れの先は、火が上がったことではなく、その身の毛がよだつ不気味さにあった。
何かが潜むような緊迫感に、全身から汗が噴き出る。
一瞬に血の気が引き、体温がさわわれる。
まだ見ぬ恐怖に、吐き気が催される。
しかしそのおぞましさにも、目が離せなかった。
火は床の上で留まったまま、円や線を描いていく。
生温い風が、渦を巻くように部屋中を駆ける。
それは、宵闇の草原にでも佇んでいるように思えた。
どこまでも続く、果てのない闇に包まれたようだった。
執務室中の紙束は飛ばされ、壺や置物は宙を舞い、奇妙なうなり声が地を走る。
悪夢のようだ。
何を見たのか覚えていない。
ただ恐ろしい姿が、あの執務室にいた。
メイドはその光景を、誰の耳にも入れてはいけないことだと、どうして信じてもらえるものかと、胸の内にしまった。
忘れたほうが心身のためだと、廊下を後にした。
裏庭に走り、腹のものを出した。
口の中が酸っぱく、そしてまた出した。
夜風に汗がさらわれていくのが、ただただ爽快だった。
体中の熱を冷まし、木の幹にもたれて目を閉じる。
そのままフクロウの鳴き声を、耳に沈み込めることにした。
「三匹の悪魔の力だ。この腹の中のうごめく感じは間違いない」
「思ったほどの違いはありませんな。ただ臓物が重いが」
「ええ、心がたぎるようです」
ペールの含み笑いは、こらえきれずに低い響きに変わった。
腹の肉もそれに合わせて揺れている。
「良いことだ、大変に良いことだ。明日から、いや今夜に、この国は変わるのだ!」
カッツェは、遠い目に恍惚の表情を浮かべている。
それは老人の耄碌のようだが、確かな意思の強さを感じさせた。
「王の変わりゆくさまが見えますぞ。驚き、戸惑い、それながらも改心し、強き砦を築く姿が!」
ライナーは辺りを見回した。
執務室中のものが、呪いの風で飛ばされて散らばっている。
血の神のその子らを呼び出す、悪魔の儀式に使った物品は数知れない。
薬やら生贄やらの名前を聞いても、調べてもよくわからないものまであった。
財務大臣でありながら、宮内府の儀典室にも通じる、この秘書官長でもあるペール大臣だからこそ、長年かけてそれらを調達できたのだ。
それはもはや、理想というよりは執念であった。
それが叶おうとしているペールと、そしてカッツェは、目の定まるところなく我に浸っている。
「準備だ。いや、宴だ。王に危機を与え、そして救わねばならない!」
「新しい国造りに、忙しくなるぞ。陳腐な町の城壁を壊し、どの国にも負けない、強固な城塞を築くのだ!」
愛国心というのは、それと力を得るというのは何と崇高なものかと、ライナーも我が内に浸った。
「では地下のモンスターを放ってきます。闇市で押収した、同じ血の神の獣もいますよ」
ライナーは執務室を後にし、はやる興奮を抑えながらその地下へと向かった。