1捕らわれの少女
夕暮れは近く、それは希望の光が強くなることを示していた。
「雷雨が来るって、みんな言ってる」
「来なかったら?」
「どちらでも関係ない。来るって言っていることが重要だから」
サーラは、水汲みの男が見えなくなるまで歩いてから、もう一人の少女に答えた。
それは脱走の算段だった。
とても算段と呼べるほど綿密なものではないが、着の身着のまま働かされる少女には、それくらいの考えしか浮かんでいなかった。
アキはその気概を持った少女に、頼もしくも、言動の短絡さに不安も感じていた。
もうずっと後ろにいる水汲みの男を見遣ると、ひとまずの仕事を終えて岩の上で大あくびをしている。
日差しはそれほど暑くはないが、木漏れ日というほど優しいものではない。
二つの影が、汗を落としながら枝葉の間を突き進む。
アキは、すでに数えることをやめた何度目かの先を見据えた。
ここにさらわれてまず必要だったのが、我慢の仕方だった。
まぶたに滴ってくるしずくを手の甲で拭い、打たれた腕の生傷に眉をしかめる。
よろけた途端に、頭上にかついだ桶の水が、波を打つ。
腫れた足元を崩しそうになって 弱った脚で必死にこらえる。
険しい斜面の踏み跡に、汲んできた川の水がわずかにこぼれた。
「やめて、少しでも足りないと回数が増えるんだから」
「ごめんなさい」
アキは、慣れない重労働に、気持ちよりも身体がついていかなかった。
サーラも、アキと目を合わせずにひたすら山道を登っている。
それは無駄な体力を使わない、言い換えれば心を衝突させない方法でもあった。
「本当、馬鹿みたいな決め事ね。どうせあいつらの機嫌次第なのに」
アキは集落の、隠れ家と呼んだほうが当てはまるのか、そこの男たちへのサーラのもっともな言い分をただ黙って聞いていた。
「知ってる? 町には水車ってあるの。水路っていうのもある。こんな労働なんかしなくてもいいの。馬鹿な山賊どもよね、奪って使うしか能のない……」
そこまで言うと、サーラは後ろを振り返って声を低くした。
昨夜だろうか、新しく付けられた唇の傷を震わせる。
「あんたは良い身分のお嬢様みたいだし、そのぶんは可哀想だわ。でもね、あいつらは人を人と思っていない。だから、ここでは身分だとか関係ないのよ」
サーラは涙ぐむ両目を隠すように、再び山道を進んでいった。
――私を求めなさい――
「私の家は、小さな村でヘンプ彩布を作っていただけ」
「それが関係ないって言ってるの。私だって、ただの町商人の娘よ」
怒りとも嘆きともいえる表情で振り返ったサーラは、アキの顔に目を据える。
目の周りには、連れて来られたときに付けられた青あざがまだ残っていた。
そのアキもまた、若い頬に切り傷が目立っている。
前髪で隠れた額にも、紫色の腫れが毒を持った花のように浮かんでいた。
サーラはそれまで通りに歩みを進めてながら、徒労を吐き出すように言った。
何かに気づいたようだ。アキもそれを察した。
「ヘンプ彩布って、さぞ儲かったんでしょうね」
「そんなことない。ほとんど税で取られるから」
「貴族も王族も大馬鹿者ね。そのオーラム金貨で領地争いをするんだから」
「そして、また税を取られる」
「そう、だからもともとは私たちのものなのよ」
二人の少女は目を少しばかり合わせて、岩場を踏みしめる足を速めていった。
他愛もない世間話をしながら。
――私を求めなさい――
いくつかの国を分けるメリデュナス山脈は高山が連なっていて、なだらかな稜線をもつ尾根の白雪と、ふもとの深緑とが遠目には美しい。
しかし、いったん踏み入ると、深い緑と灰色の崖に囲まれて視界は狭まる。
この辺りを隠れ家とするならず者も少なくはない。
この踏み跡の先には、ひとつの集落があった。
今そこを棲み処にした男たちは、街道の荷馬車を狙い金品を巻き上げ、人をさらいもする。
高台に人知れず、周りを谷で囲まれた小さな村落、いや、それすらも奪われたものだ。
元々の村がどうだったかは知らない。アキやサーラがさらわれてきた時には、すでに略奪で生計を立てる山賊たちの、ねぐらになっていた。
二人は、半壊もそのままの小屋に、同じようにさらわれた女たちと押し込まれていた。
「行ったわ、諦めたんでしょうね」
サーラの憎々しい声は、二人の後ろに向けられたものだった。
アキは、痛めた足の速度を落として、後ろを見遣る。
川で水汲みと見張り番を兼ねているあの男が、ついて来るのをやめたことに安堵した。
「でも、次に下りたらちょっかい出されそう」
「戯れ程度ならいいわよ。そろそろあんたにも順番が来るから」
アキは枝葉をかき分けながら息の継ぎ間に尋ねる。
「順番?」
サーラは答えの代わりに、青あざの中からの瞳でアキを見据えて、先ほどの話の続きを始める。
「今夜の雷雨に紛れて逃げるわ」
サーラの潜ませる声は、静かな光のようだった。
――私を求めなさい――
「でも、うまくいくとは限らない」
「じゃあ今すぐ逃げ出す? 水汲み男の前を通って」
「逃げ出して谷に落ちた人もいる」
「それとも、崖にいる山犬の餌にでもなる?」
「捕まったらもっと酷い目にあうわ」
アキはいくつかの腹の打撲が疼いた。
連れて来られた時の、白いラナ獣布の衣服には、血の塊が赤黒く固まっている。
「それともモンスターに食べられるかしら?」
サーラも同じように、血なのか泥なのか判らない染みが、体中にこびりついている。
アキは、先ほどからの耳鳴りを振り切るように、サーラの早足に続いた。
裸足の潰れた肉刺に踏みつけた枯れ枝が、血を滲ませる。
「雨だろうが雷だろうが打たれても構わない」
――私を求めなさい――
「そのときは雨の神アルセドの名を名乗ろうかしら」
――私を求めなさい――
「雷神シルバスに改宗するのも悪くないわ」
「もう、さっきから何なのよ!」
「あなたこそ何よ。へえ、このままここで暮らしたいの」
足を止めたアキに、サーラは悲嘆を顔に出して続ける。
その声には、心の底からの憎しみがあった。
「あいつらは何もかも奪う。あいつらこそ獣よ。家族も財産も奪われた。でもね、元の生活には戻れなくても、ここよりはずっとマシなの!」
――私を求めなさい――
「あなただって帰る場所はもうないんでしょう!」
――私を求めなさい――
「逃げなきゃいけない!」
「うるさい!」
木桶が地面の岩に鳴り、草むらに転がって止まった。
アキは両ひざを地につけて、うなだれた。
手をついた下には、自分の血の跡があった。
小さな両手は震えて、ただひたすらに強く握り込んだ。
大小の肉刺をつけた手が、大地にくい込んで、湿った土が爪に入り込む。
それでもまだ何かを求めるように、土の下にある何かを掴んだ。
「アキ、そんなことをしても落とした心が拾えるわけじゃない。でもね、私はここから逃げてみせるわ。ここで失ったものは、また他所で手に入れる」
サーラは片手で桶を拾ってアキに手渡した。
「絶対に」
アキの頭上に半分の水が移される。
再び歩き出したサーラをアキは追った。
「手順はあるの?」
「ない。歩ける人だけで小屋を出る」
アキはいくつか心につっかえるものがあったが、高台の集落を目前にして、口を閉ざした。