05 留守番2
05
「裏技を使うしかないねー」
営業終了後、珍しく疲れた様子を見せながらワールは呟く。
同じくテーブルを囲むのは、ミズクとアンペザントの子たちだ。
彼女たちの疲れ方は、ワールの比ではない。
「裏技、ですか?」
スープでやわらかくしたふわふわ焼きを頬張ってミズクは聞く。
今日のまかないは、温まってくどくないように野菜が多目だ。
「たとえばさー、作るのがかんたんなものを安く売る日にしちゃうとかー」
「お得なものがあったら、ついついそっちを頼みたくなる?」
もしそんなセールがやっていたら、自分は飛びつくと少年は考える。
要領を得たように頷いて、ワールはスプーンで皿をかき混ぜた。
「だったらいいなーって。一割でも二割でも変われば違うでしょー」
「それは、わかります。あとは調理に手助けが、あれば……」
ちょっとの贅沢をする時間を買うのだから、誘導に乗ってくれる人は多くないだろう。
お得なものよりも、自分が食べたいものを優先するのが正しい。
けれどわずかでも効果が期待できるなら、すがりたいのも事実だった。
「だったら明日はキッチン志望の奴連れてきますよ」
「うん、お願いー……」
ホールスタッフも足りないけれど、キッチンスタッフが明らかに足りなかった。
文字通り、骨ばかりの細腕には荷が重かった。
それをアンペザントの子たちも感じていたから、今夜にチュチュたちが戻らないことを想定して、翌日のことを考える。
翌朝、当たってほしくない想像が当たったことを確信した時に、彼らに生まれたのは一種の自覚だった。
二日目の店内を何度もチェックしながら、ワールはメメドットを目に映す。
昨日の夜からひっそりと佇む花のようだった彼女を視線で捉えていた。
「なにかついていますか?」
「うーん、姿勢の良さとか体の使い方とかー?」
「……よくわかりませんが、変なところを見られているようで恥ずかしいです」
前日から、ワールはメメドットの仕草を写し取ろうと目で追っていた。
チュチュが居る時は、まだ下で働いているという認識だった。
けれどいまは、彼女がこの店の代表をやらなくてはいけない。そのためには、無様は許されない。
「メメドットはいつもの通りでいいよー。でも、ごめんねー」
「いえ。チュチュ様がお帰りになるまでは、いくらでも使って下さいませ」
「ありがとー。正直、助かるよー」
彼女は昨日もガラトリッサ家へ帰っていない。書き置きの内容からして捜索されることはないだろうけれど、印象は間違いなく良くないだろう。
それでもここに残ったのは、すでに覚悟しているからだ。
「馬車が来たー。今日はどのぐらい忙しくなるかなー」
店先につけた馬車から降りてきた人物を見て、メメドットは目を点にした。
先日、この店であったばかりだけれど、それよりも遥かに生き生きしている。
「シニョン様……」
「おはよう、メメドット。二人より三人でがんばりましょう?」
三号店でマネージャーに近い立場をやっている彼女がやってきた。
その後ろから、かつてチーズクリームの誕生を目の当たりにして料理人を志した少年も降りてくる。
昨日より一人多い。それは、向こうにとっても痛手だろう。
「……ありがとー、シニョン。いっしょにがんばろーね」
「ええ。お姉さまのもとで働いているあなたの仕事姿、楽しみにしています」
「あはは、こわいなー。……うん、チュチュとシニョンは、よく似てるねー」
自分がメメドットを見ていたのと同じ視線を浴びて、ワールは冷や汗を垂らした。
二日目は緊急セールのおかげもあって、初日よりうまく店を回すことが出来た。
06
「なんだか、三号店に来ている気分です」
カウンターに着きながらそういう客に、シニョンは微笑する。
午前の営業中、彼女の顔を見たらキョロキョロ辺りを見回す人が多かった。
「いつも居ますから。けれど、お菓子の味は一号店のものですからご安心を」
「そういうことは心配してないですよ。なんだか、雰囲気ってあるもんですね」
店には、人の雰囲気がそのまま出る。
そういう意味で言えば、シニョンが気を配る空間は、そこだけ空気が三号店のものに変わっていた。
あまりにもイメージが付きすぎたのもあるし、店のルールも違う。
「もうすこし、こちらの水に慣れることも必要かしら」
この店で育ったアンペザントの仲間たちや、ワールは言わずもがな。
本職ではあるけれど、店に染まっていなかったメメドットも異色ではない。
シニョンだけが別の色にべったりと塗られていて浮いている。
他の従業員を目で追いながら、彼女は午前の営業をやり過ごした。
テーブルで青色吐息を漏らしながら、シニョンはまかないのスープを飲む。
昼休憩に入って、午前のことを振り返りながらふわふわ焼きを千切った。
彼女はすこしずつ合わせていったものの、まだ完全ではない。
「近くて遠いというのは厄介ね」
「なんの話ー?」
「一号店と三号店は、中身がまったくの別物という話です」
あー、と頷いてワールは彼女の頭から爪先までを見る。
容姿だけを見ればチュチュを小さくしたようだけれど、そうではない。
纏う雰囲気がまるで違う。良し悪しはともかく、別人だ。
「環境が違うんだからー、合うやり方も違うよねー」
たとえばサービスに仕方。三号店は全体的に気安いというか、堅苦しくない。
客と店員とが、ある種の友達感覚に近い。もちろん一線は引かれているけれど。
一号店もくつろげる雰囲気はあるけれど、そこまでではない。
節度を持って楽しむというのか、すこしの見栄を張るような空気がある。
「それは……わたくしがお姉さまには及ばないということ?」
「じゃなくてー。逆にチュチュは、そこまで砕けられないでしょー」
チュチュは、人前では格好を崩したがらない。
良くも悪くも、一度、店を開ければ公的という意識を持って臨んでいる。
「お姉さまは、いつも人の目というものを意識していますから」
「家族の前ならともかく、客前ではぴしっとしたがるよねー」
あはは、と笑うワールに、シニョンは首を縦に振った。
貴族の癖でもあるけれど、要するに見栄っ張りな性格をしている。
シニョンも、もちろんその癖はある。けれど完璧ではない。
「だとしたら、わたくしは気安さに染まりすぎている?」
「それでいいのです。シニョン様は陽の光のような方です」
「メメドット。ですけれど……」
どちらかといえばチュチュは月や星。碧く輝くそれに近い。
けれどシニョンは、その髪色のような明るい色が本質だった。
エプロンドレスをぎゅっと握って、不敬を耐えるように進言する。
「チュチュ様が二人居る必要はありません。ただ一人のシニョン様を」
よく出来た姉に憧れるのはどうしようもない。ただ、同じにはなれない。
そう言われて唇を噛み締めた。彼女自身わかっていたことだった。
「わたくしはわたくしにしかなれない。その範疇で、やれることをやる」
姉よりも短い教育しか受けてこなかった、というのは言い訳だ。
それ以前の問題なのはわかっていたことで、持って生まれたカードが違う。
認めるには苦しい。けれどやらなければいつまでも抱えていることになる。
「はい。いまのやり方を捨てることはありません。すこし合わせる。それだけで」
「……やってみましょう。わたくしらしく」
場の調節役としていままでやってきた彼女は、初めて自分の調節に挑戦した。
違う空気を取り入れることは、新しい経験をシニョンに与えてくれた。
07
三日目、スタッフルームで着替えるワールは、足音に振り返った。
おはようございます、と挨拶するアンペザントの子たちに返しながら眉を上げた。
「今日も来てくれたんだー」
「すこし、みんなには無理を言ってしまいました」
その中にシニョンの姿があった。彼女はすこしいたずらっぽく微笑む。
すこし、というには多大なものがあったことは想像に難くない。
「よかったのー?」
「わたくしがやりたかったのです。この環境でやってみたくて」
自分の分の制服を手にとって着替えの準備をする彼女の表情は明るい。
昨日のメメドットの言葉を振り返って、夜に考えた結果だ。
いまなにが出来るかを試したいという欲求が、体から溢れていた。
「ふーん。こっちは助かるからいいけどー、こんどお礼に行かなきゃねー」
「ありがとうございます。来ていただけたらみんな喜びます」
こういう時にごめんなさいではなく、ありがとうと口に出る。
それがシニョン・キスキィという少女だった。
「うん。お菓子をいっぱい持っていこー」
微笑ましくも将来が楽しみになって、ワールはにこりと笑った。
午後の営業中、にわかに外が騒がしくなる。
板ガラスの向こうで、一台の立派な馬車が停まっていた。
そこに描かれた紋章を見て、メメドットはわずかに顔を伏せて正面ドアへ歩く。
お付きの侍女を連れずに正面ドアを開けたのは、カナノァラだった。
「やあ、すこし様子を見に来たよ。ほんとうに彼女はいないんだね」
すこし店内を見回して、彼女は納得したように頷いた。
店を漂う空気の違いを感じつつ、店内を歩く小型のチュチュにも見えるシニョンを認めて目を丸くした。
「カナノァラ様。ようこそいらっしゃいました。席へご案内致します」
「そうしてもらおうか。メメドットに世話されるのもひさしぶりの気分だ」
一月も二月も経ったわけではない。
フロアを二人で歩きながら、その距離感にカナノァラは目を細める。
なぜか懐かしい。そんなおかしなことを考えてしまう。
「ご無沙汰しております。ご注文がお決まりになりましたら呼び下さい」
席へ着いて、相手が彼女だろうと分け隔てなくメメドットは接する。
そこに一切の私情はない。眉と眉のあいだに陰を落とすのは主人の方だった。
「処遇をどうするかとかは気にならないのかい?」
「手紙にもあります通り、覚悟は決めていますので」
伏せていた顔が上げられ、ふたりの目が合う。
怯えも嘘もない。自分のやることをやると決めた人間の光だ。
「ふうん。……ちょっと悔しいよ。いい主従関係だと思っていたけれど」
「カナノァラ様にはよくして頂いておりますし、尊敬もしています」
ふたたび、目が伏せられる。
唇にきゅっとちからを入れたカナノァラは、素直にこころを吐いた。
揺らがないように、メメドットは視線を外す。
敬っているからこそ嘘はつけない。でもやらなければいけないことがあった。
「それでも彼女ほどではない、か。……注文が決まったよ」
「承ります」
カナノァラの顔に、すこし寂しそうな表情が浮かんで消えた。
貴族の仮面をかぶった顔で、彼女はメニュー表も捲らずに言う。
「紅茶とミルクのふるふる。それと、君だ」
顔を伏せたままでも感じる視線は、鋭くて強い。
決して離すまいとする手の感触すら伝わってきそうなちからがあった。
「……わかりました。少々、お待ちくださいませ」
「わかったよ。早いところ、帰っておいで」
キッチンへ注文を通しに行くメメドットの背は、わずかに震えていた。
08
冷えたミルクを飲み干して、ワールはテーブルにグラスを置いた。
くしゃりと両手で髪を書き上げると、椅子にもたれかかって天井を仰ぐ。
「……さーて、どーしよっかなー」
三日経ってもチュチュ・キスキィは戻らなかった。
なにか大きなことがあったに違いないとわかっていながら何もできない。
この店を守るということ以外には、なにも。
「それはいいんだけどさー」
彼女は戻ってくる。それを疑う理由はない。すくなくともその意思はある。
問題は、どれだけかかるかということ。ワールはそれだけが心配だった。
通りがかったコッツに、冷えたミルクのおかわりを頼んで椅子を揺らす。
「もし、一月あったとしたら……」
ありえはなくはない仮定を抱いた彼女の瞳が震える。
椅子の後ろ足でバランスを取りながら、くるりと反対側を向いて着地した。
「やれなくはないけどー、無理かなー」
チュチュが不在でも店の営業は続けられる。この三日でそれは証明された。
ただしそれは信用と、いつか彼女が戻ってくるという状況があってのこと。
いまは親切と恩返しという熱に浮かれていても、冷めればあっという間に。
「終わりだよねー」
それに、と付け加えて彼女はやってきたおかわりのミルクを一息に飲み干した。
けふ、とちいさな息を吐いて、ぐしぐしと指で目元を擦る。
メイクで隠されたホンの僅かな隈は、彼女にはありえないような負担だ。
「……こころがねー、削られちゃうよねー」
作業は誰かに頼ることができる。けれど、精神は自分だけのものだ。
彼女はミズクを信用していた。しかし愚痴り合うような仲ではない。
どっちにしろ、長くは持たない応急処置だらけの営業。
「うん、一週間にしよー」
それが過ぎれば、店は一度閉める。ワールはその思いを密かに固めた。
翌日の営業は練度も上がって、すこしだけ余裕が見えるほどだった。
事実、彼女らは客の注文が出る前に動いて準備することができた。
それがどういうことかと言えば、視界が明けてきたということ。
つまり、状況がを考えるだけの隙間を手に入れた。
いつまで。
という疑念が持ち上がっても、それを否定することは誰にもできなかった。
午前の営業が終わって、汗を拭って労いながら食べるまかないの時間。
表面上はいつも通りだった。というより、それ以上に仲が良かったほどだ。
それが不安の裏返しであることは、ワールにもわかっていた。
「四日かー……。うん、ちょっと甘く見てたねー」
一度根ざした感情は深い。
この寒々しさがもし、お客様に伝わってしまったら?
それだけを恐怖しながら、ワールたちは午後の営業を乗り切った。
着替え終わって、アンペザントの子たちが帰るまでの浮いた時間のこと。
「みんなー、ちょっと集まってー」
というワールの声に、あちらこちらで持て余していた子たちが寄ってくる。
その中にはシニョンもいて、彼女の表情はその先をもう予見していたものだ。
「なにー、ワール?」
「うん。とりあえずー、お店は今日で閉めておこっかなーって」
ひやり、とした空気を温めるように一人の子が笑う。
「……明日は休養日ってこと?」
「じゃなくてー、二人が返ってくるまでずーっと」
にこりと笑うワールの手は、強く強く握り締められている。
店を守るという約束と自尊心とすべてを潰して、笑顔を貼り付けた。
「メメドットにも君たちにも、いつまでも迷惑かけられないしねー」
「……それで、いいのですね?」
「うん。だって、それしかないでしょー」
姉とよく似た碧い瞳をぎゅっとつむってから、シニョンは頷いた。
彼女の空っぽのやせ我慢が、痛々しいほどに伝わってきたから。
「わたしは構わないのですけれど、あなたがそういうのなら……」
「メメドットもありがとー。今度謝りにいくからねー」
ワールは仮面を崩さない。チュチュを見て、そうするべきだと学んだから。
こうして応急処置だらけの店は、四日で限界を迎えた。
朝日が登る前に、ワールたちは起きて畑へ向かう。
背中にのしかかった重圧はないけれど、かわりにこころも空っぽだった。
真夜中の暗闇のような気持ちを抱えたまま向かった畑で、彼女たちは見た。
「あれー、誰かいるー。って、もしかして帰ってきたー?」
ザクザクと地面から立つ白い霜を踏んで、暗闇に指した光へ。
四匹のモンスターたちを連れて、白い息を吐きながら現れる。
「ええ。そうですよ。いま帰りました」
最悪の五日目は、もうどこにもなかった。