40 よく寝た日のパン
パン屋の朝は早い。
従って、窯が埋まるのも早い。
窯を持っていない家では、週に一度か二度、生地をパン屋へ持っていって焼いてもらう。
一度に焼ける量は窯に入るだけだから、その分を超えてしまえば、あなたはまた今度ということになる。
というのが、ずっしりと手に重たい生地を持てあました少女の事情だった。
「……さて、どーする」
こういう時、あわてる性格ではなかったものの状況は変わらない。
挽いていない麦のままだったら麦粥にして食べるという手もあった。
しかし、彼女が手にしているのは粉にしてよく捏ねた生地だった。
「他に窯がある店っていうと、あそこしかないか」
少女は特に重くもない足取りで、繁華街を目指した。
その一角に彼女の目指している店がある。
そこでは貴族が嗜むような紅茶やお菓子や軽食を食べさせる。
いずれも自家製で味もよく、少女も何度か通ったことがあった。
つまり、店で窯を持っている珍しいところの一つだ。
店が開くよりも早い時間、少女は透明な板ガラスがハマる窓から中を覗いた。
中では、彼女とおなじくらいの年頃の少年少女がテーブルやらを整えている。
「あのー、もうやってますかー?」
「すこし早いですけれど、お食事なさいますか?」
ドアをすこし開けて、少女は声をかけた。
作業を中断して振り向いた従業員は、にこりと微笑んで応対した。
「えーと……これ、焼いてもらえないかなって」
「はい?」
「パン屋さ、いっぱいになっちゃって」
「ああ……ときどき、そういうお客さまがいらっしゃるんですけれど……」
少女が背中に隠していた生地を正面に持ってきて見せる。
少年従業員は困ったように笑いながら、慣れたように言葉をつづける。
「それをやると、パン屋さんのお仕事を奪ってしまうんで……」
「あー、権利とかってあるんだ。そういう、偉い人からもらうやつ」
「はい。店で使うにはいいんですけれど、お客さんの分まではできないんです」
「うーん、言われてみれば。やったら怒られちゃうんでしょ?」
「お店できなくなっちゃうかもですね」
「うわ、それはまずい。あたしがみんなに恨まれる」
がっくり肩を落とした少女は、抱えた生地を見下ろしてため息を吐いた。
夜は焼きたてのパンが食べられるかと膨らんでいた期待がしぼむ。
「でも、パンを焼かなければいいんですけれどね」
踵を返して帰ろうとした少女に、少年従業員はそう言う。
「この生地、どうにかなるの?」
「焼いたパンにはできないですけど、できなくはないですよ」
彼女はもう半回転して、少年を救世主のような目で見た。
「おっ、おねがいどうにかして! このままじゃ家に帰りづらくて!」
「んー……ちょっと相談してみるんで、待ってください」
「うん。掃除とか片付けとかぐらいなら手伝えるからさ、なんとか、ねっ」
両手を合わせて拝み倒す少女を背にして、少年は厨房へ消えていった。
02
少年はキッチンのかまどを一つ空けてもらうと、少女を呼んだ。
となりで作業を続けている料理人に申し訳なさそうにからだを縮めながら、少女は調理台に生地を置いた。
かまどには大きな鍋がかかっていて、ぐらぐらとお湯が煮えている。
「生地を揚げるくらいたっぷりの油って用意できます?」
「はは、悪い冗談。そんなの使えるくらいならパンを買ってるってば」
発酵の終わった生地を油で揚げるパンは彼女も知っていた。
油がたっぷり使える産地では有名な食べものだ。
中流家庭でも油菓子を食べるところもあるが、彼女の家はそうではない。
「でしたら、かんたんにできるのはこれくらいだと思います」
「……うーん、変わったにおいはしない。ってことは水?」
もうもうと立ち上がる湯気に少女は鼻を近づけてくんくんと嗅いだ。
油くささもなければ、海水の潮っぽさもない。ただのお湯だった。
「ええ。朝汲んだばかりばかりのお水です。新しいほうがいいですね」
「え、ほんとうに言ってる。練った生地を茹でるの? 溶けちゃわない?」
「不安はわかります。まずは、こちらで用意したもので試してみましょう」
少年従業員は、となりの調理台にあった店の生地をもってきた。
指三本分ぐらいの太さにしたものを、お湯の中に放りこむ。
ぐらぐらと煮えるお湯のなかで、生地が一度沈んで、ふわりと浮かんだ。
「……茹でるっていうか、煮るっていうか。けっこう長い時間やるんだ」
「パンを焼くのも時間がかかりますよね。おなじくらい火を入れるわけです」
「あー、わかりやすい。……うわ、鍋を埋め尽くす勢いで大きくなってる」
「パンを焼くと膨らむでしょう。おなじことが起こってるわけです」
「知ってるけど、膨らんでるとこ見るとちがうね。なんだこれ生きてるよ」
「楽しいのはわかります。ひっくり返して、もう一度おなじだけ」
しばらく待って、お湯の中から白い生地があげられた。
持ち上げる様子でもこぼれそうなほどにやわらかいのがわかる。
ザルで水気を切り、濡れた表面が落ち着くまで待つ時間が少女には長い。
「ナイフだとくっついてしまうので、糸を巻いてこう……ぐいっと」
「ふむふむ、ぐいっと。……あ、中はほんとにパンだ」
糸で切り分けられたうちの一切れを取り出すと、しっかり火が通っている。
ぽつぽつと穴が空いて、膨らんでいるのがよく見えた。
「どうぞ、食べてみて下さい。香ばしさはないですけれど」
「う、うん。……あ、ぜんぜん堅くない。やわらかくて、もちもちしてる」
少女は触ると指の跡がつくほどやわらかい茹でパンをよく噛みしめる。
小麦の香りと、しっとりもっちりとした食感は新しい食べもののようだ。
焼けた風味がないからパンとはちがうものの、十分な代替品になりうる。
「これなら、あたしでもできる……と思う。たぶん。……ありがとう」
「いえ。けれど、ひとつだけ注意しておかないと」
「もちろんお礼はするよ。……そりゃ、大したことはできないけどさ」
「ではなくて。これ、日持ちしないんですよ。翌日には食べられません」
「ってことは、一度に茹でて取っておくってのはできない?」
「はい。その日に食べるぶんだけを茹でるってことになります」
「スープ作るとき、余計に時間とればだいじょうぶだと思う。気をつけるよ」
少女はおぼえろー、と唱えながらあたまをコツコツと指で叩く。
少年は、その様子がちいさな弟妹にも見えて目を細めた。
03
いつもより早めに厨房に立つ娘を見て、男は首を傾げた。
彼らは二人暮らしで、食事や掃除なんかは娘が担当することになっている。
彼女は食い意地が張っているものの、凝った料理を作る性格でもない。
スープとパン。それに生か塩漬けの野菜。
時々、川魚を焼いて食べるくらいだ。
たまにはそんなこともあるか、と思いつつ、彼は内職しながら食事ができるのを待った。
「えーと、糸だ糸。それで冷ましておいて……うん、だいじょうぶ」
「……食えるもん作ってるんだよな?」
父の声は厨房までは届かない。
娘のやる気に水を差す気にはならないが、なんだか不安がつきまとう。
父親としてなのか、腹ペコの男としてかはわからないが内職の手は進まない。
彼女が厨房に立ってから、しばらく経った。いつもより遥かに長い。
「うん、うまい。……よっし、できた! またせたな父ちゃん」
「おう。もう腹ペコだァ」
娘はすこし申し訳なさそうに、しかし自信を持って器を運んだ。
木彫りの深い器に煮詰めた野菜スープと、なにか白いものが入っている。
そしてなにより、パンがなかった。
「うん? パンがないな」
「あー……それなんだけどさ。朝、起きたのが遅くてさ……」
「……ま、なっちまったものはしょうがねぇ。代わりがこの白いのか?」
「うん。教えてもらったんだ。うまい……と、思う」
店の生地とはちがってブランが混ざっているから、やや茶色い。
味見はしてみたが、彼女以外がおいしいと思うかはわからない。
父親はいつもより煮詰まったスープといっしょに茹でパンを口に運ぶ。
「うん。パンの焼いた感じはないが、やわらかくてうまい」
「だよね! うちの小麦でやるなら焼くより食べやすいよなぁ」
「……お前が料理を覚えたのはうれしいよ。普通のパンも食べたいけどな」
「へへへ、ごめん。次は早く起きるからさ」
「おう。さ、あったかいうちに食っちまおう」
父はガシガシ娘のあたまをなでてから、煮詰まりすぎた野菜スープを飲んだ。




