34 レシピ初版
「これは、どういうこと?」
期待に胸をふくらませて、ミルクのふるふるに匙を入れた娘は首をかしげた。
とまどいと言うには怒りが多分に含まれている。
食べたものは待望のなめらかな触感ではなく、堅くてざらつきがある。
こういうお菓子と言うのなら納得はできても、期待したのはそうではない。
「これを作った人を呼んできて」
怒鳴りつけられはしなかったものの、使用人は飛ぶように命令に従った。
連れてこられた料理人は、泣いているような顔で現れる。
叱られるのをすでに覚悟しているみたいに。
「どうして呼ばれたかわかる?」
令嬢の言葉に、料理人は唾を飲み込んで一歩前へ出た。
「はっ。……お菓子が不出来だったのではと考えています」
「どうして不出来とわかっているものを出せたの」
彼女の言葉は、底冷えするほどに寒々しい。失望が強く見て取れた。
ほとんど泣きそうな声を、料理人は絞り出す。
「言い訳がましく聞こえるかもしれませんが……」
「わたくしの期待と楽しみを壊した上に。……納得する言い訳なら聞きます」
「……うっ。誓って、わたしは『レシピ』どおりに手順をやりました」
膝を床について、彼はできるかぎり精一杯の礼で応えた。
背中に持っていたレシピ本を胸の前で抱えて、令嬢の冷たい目を見る。
文字通りに見下す視線の温度は、すこしも上がらない。
「ではお前はレシピがまちがっていると、そういうわけ?」
「これまでのあいだの、わたしの腕を信じていただけるのであれば」
自分自身のプライドをかけて料理人は訴えていた。
彼女が味わったいままでの料理の味に、不満はない。
もし腕がよくないなかったのなら、すでに解雇されているだろう。
「いいでしょう。あなたがそういうのなら信じます」
「ありがとうございます!」
感極まって、料理人はとうとうこらえきれずにその場で泣き出してしまった。
「それならレシピの方に問題があった、ということになる」
ざらついたミルクのふるふるをもう一度口に入れて、彼女は眉をしかめた。
02
チュチュの店のレシピが売りに出されてからというもの、下級、中級貴族たちのあいだでは、ちいさなお茶会が流行していた。
載っているレシピを元に、さまざまな工夫を凝らしてお菓子を作らせる。
お抱えの料理人自慢と言ってもいいだろう。
レシピに疑問を持った貴族の令嬢も、ある中級貴族の娘が開くちいさなお茶会に呼ばれていた。
挨拶と談笑もそこそこに、主催の令嬢がお菓子を運ばせる。
「以前のお茶会では、木の実のタルトがとてもおいしかったから、その反対を行ってみましたの」
彼女が参加したお茶会では、歯ごたえを楽しむお菓子が多かった。
だからか、テーブルに置かれたお菓子には、やわらかいものが並んでいる。
「考えましたね。よい料理人を抱えてると聞きますから、楽しみです」
「まあ、それで。このパイは……とてもずっしりと、重たい……?」
やたらにしっとりとしたふわふわ焼きは、ワインで割ったハチミツのシロップを重ねて塗ったものだろう。
ほとんど正体がないくらい煮崩したリンゴのジャムとクリームをごく薄いパイで包んだお菓子は、食べるのに気をつけなければ服が汚れてしまう。
「上級貴族に抱えられてもおかしくないのですけど、家にいてくれるのです」
料理人を自慢するように、彼女は胸をちいさく張った。
参加した令嬢たちは、思い思いのお菓子を手に取る。
やわらかいお菓子がテーマということで、もちろん、ミルクのふるふるをベースにしたものもそこには並んでいた。
抱えの料理人にザラついたのを食べさせられた貴族の娘は、それを手に取る。
「それでは、こちらをいただきましょう。とても気に入っていて」
もちろん、作ればザラつくレシピなど信用もしていない。
しかしここの料理人ならば、いくらかの工夫はしてくれるだろうと期待して。
「それはあまり手を加えられなかったのだけれど、それでもよければ……」
「ご謙遜を。とてもよい香りのするソースがかかっているのに」
彼女は内心、すこし残念な気持ちになったのはほんとうのところだ。
ミルクのふるふるには、ハチミツとバターをすこし焦がして香ばしくしたソースがかかっていた。
これならザラつきもすこしはマシに思えるだろうと、彼女は一匙すくう。
「えっ? ……あっ、おいしい……」
それはザラつきの一切ない、店で食べるのとおなじ食感だった。
本体にはうっすらとしか甘みがついていないものの、ハチミツバターカラメルがまとわりついて、香ばしくもねっとりと濃い。
卵とミルクの繊細な風味ではないものの、余韻が深く長かった。
「これはもともとのレシピの完成度が高くて、あまり崩せなかったみたいで」
主催の言葉に、彼女のこころは揺さぶられた。
自分の抱えの料理人と彼女の料理人、どちらが正しいのだろうか?
03
家へ帰るなり、ミルクのふるふるが好物の娘は抱えの料理人を呼びつけた。
「失礼いたします。夕食のメニューの申し出でございましょうか?」
先日とはうってかわってにこやかだった表情は、一瞬で打ち砕かれる。
対面した少女の顔に険が見えた。とても機嫌がよくは見えない。
「呼ばれた先のお茶会で、ミルクのふるふるが出たの」
「それは……ようございました。お嬢様の、お好きなお菓子でいらっしゃる」
「ええ。まったく。お店で食べたような食感がしたもの」
短いやりとりで、料理人は自分に訪れた窮地を理解した。
しかし、誓って彼は嘘をついていない。レシピ通りにやって失敗したのだ。
何度も読み返して、手順にまちがいはなかったことを改めている。
「ずいぶんと工夫されたのでしょうな。見習って研鑽を重ねたいものです」
「その家の料理人は、特別レシピをいじっていないんですって……すこし、おかしいと思わない?」
彼女に、声を荒らげるような下品な真似は一切見当たらなかった。
よく研がれたナイフにも似た舌鋒が、淡々と料理人を追い詰める。
「……お嬢さま。わたしの未熟で恥をかかせたことは申し訳ないと思います。もっとよい料理人と雇いたいと言うのなら従いましょう。しかし、嘘は。嘘だけはついていないと、今でも胸を張って言えるのです」
怯えていた表情を改めて、まっすぐに少女を見る料理人の目に嘘はない。
けれど、それが演技でないなどと誰がわかるだろう。
「自覚のない嘘というのもあるもけれど……いいでしょう。だったら、実際の肯定を見たほうが早い。あなたが正直者であることを願いたいものね」
彼女は料理人の肩に手を置いた。ほっそりと白い指が服を掴む。
あまりに力が込められて、関節が赤く染まるほどに。
「……ええ。レシピと実際の手順を確認しながら、お見せしましょう」
最後のチャンスが、首筋に冷たく吹いた。
04
結論から言えば、誰もまちがっていなかった。
貴族の娘が確認しながらやってもレシピ通りの手順だったし、料理人の手際がわるいわけでもない。
「レシピには混ぜ合わせた液体を器に入れ、水を入れたフライパンで弱火にして焼くとあります」
「いまのところ、レシピとちがうところは見当たらない。続けて」
料理人はお湯の様子を見ながら、薪を抜き差しして火を調節する。
火が消えない程度にして、容器を湯につけた。
「蓋をして様子を見ながら、表面が固まったらフライパンを火から離す」
燃料や調理設備が設備だけに、具体的な時間はレシピに書いていない。
ふたりは様子を見ながら、表面が固まったところで火から下ろした。
お湯が冷めるまでそのまま待って、触れるようになったら容器ごと冷ます。
「……手順は正しい。あとはできあがり次第」
その言葉で、料理人は一息吐けた。
といってもそれはレシピ通りに作ったというだけだ。
以前とおなじことをやって、おなじ失敗をして、なんになるのだろうか。
不安を胸に抱えたまま、少女の怒りも冷えていくのを待った。
しばらくして冷えた容器を取り出すと、少女はスプーンを入れた。
「上はなめらかだけど、下の方は穴が空いている」
前回とまったくおなじものが、おなじ手順で再現されただけ。
「おなじようにやってダメなら、前提がまちがっているとしか考えられない」
目の当たりにすれば、謎はすぐに解ける。
彼女は嘆息した。あらゆるものは正しかった。
まちがっていたのは、設備だと認めないわけにはいかない。
家によって、竈が使える火力は組み方や大きさでちがう。
なかでも彼女の家の調理設備は、最大火力が高いからすぐに火が通る。
欠点は、下限も高くなってしまうから、ほんとうに弱い火は使えないこと。
繊細な火加減や時間を必要とする彼女の好物には、それが不向きだった。
「……すみません」
「なぜ謝るの。あなたはあなたなりにやったのでしょう」
「満足に料理をできないのは、仕事をしたとは言えませんから」
お菓子は彼にとって得意ではなかった。
それでも、レシピ通りに作らなければいけないとだけ考えて、火加減を操るところにまで気が回せなかったのは、不出来を問われても仕方がない。
「たしかに、恥はかかせてくれた。おいしくないお菓子も食べないといけない」
彼女がうなずきながら上げる指摘点は、言い逃れもできないものだ。
ぐっと唇を噛み締める彼は、料理人を辞める決意をして続きを待った。
「だから、この設備でできるように考えなさい。それでおあいこ」
「っ……はいっ!」
すこし眉尻を下げて微笑む少女に、料理人は深く頭を下げた。
後日、いくつかのレシピの基準が明確になった本の改訂版が、発売された。
ある家にはお礼と称して、ミルクのふるふるのバリエーションに富んだレシピ本が届けられた。




