30 生焼け
「あれっ、温度が低かったかな」
コッツが窯で焼いていた生地を切り出すと、下半分がしっとりとクリーム状になっていた。
べっちゃりと腰が砕けた生地は不格好に潰れてしまう。
どうやっても店には出せないものだから、あとで従業員が食べるように回すと、
コッツは火加減や窯の様子をチェックしてから次の生地を入れた。
「うーん、さすがに生焼けのものを食べるとお腹壊すかな?」
ナイフに付いたクリームを拭いながら、彼はどうしようかと考える。
生の小麦粉は、人間にとってあんまりよくないものだ。
温度をチェックしてみるとカスタードにする時のように熱が入ってるから、完全な生ではない。
「いざとなったら、コロンに熱だけ通してもらうって方法もあるか」
スライムのコロンは、自分自身の温度を自由に変えることができる。
これを利用して、夏場は冷たいものを作る時に重宝されている。
反対に、窯の温度とは言わなくても小麦粉に火が通る温度にすればいい。
名案だと頷いて、コッツは作業を続けた。
店を開けて忙しくなってくると、厨房にはすこしも余裕がない。
ひっきりなしに湯を沸かしては紅茶を淹れ、焼き菓子を並べ、パンを炙り、足りなくなりそうなお菓子を焼き上げていく。
そんな中、ミズクが食器を下げにやってきた。
注文票を見やすいように並べておいて、汗を拭いて水を飲む。
事情があって朝食が少なかったせいもあり、お腹がぐうと音を立てた。
顔をうっすら赤く染めながら、ミズクはぽこぽこお腹を殴る。
「すみません。お菓子、いただき、ます」
「はい、どうぞー」
従業員がつまめるように置いてある焼き損じたクッキーや時間が経って固くなったふわふわ焼きが置いてあるところへ行くと、ミズクはぐちゃっと潰れたお菓子に目を留めた。
焼き色はキレイだけど、ぐちゃっと潰れて見た目はよくない。
遠慮もあって、ミズクは誰も手に取りそうもないようなこのお菓子を選んだ。
口に入れると表面の焼けたスポンジ部分と、下のさらっとしたクリーム状の生地のあいだに、ふるふるほろほろとした絶妙な食感がクセになりそうな部分がある。
ミルクのふるふるともすこし違う。焼いてないようで、焼いてある。
「あっ、それ食べちゃったんだ。生焼けだったんだけど、だいじょうぶ?」
「えっ。失敗作なん、ですか?」
「温度が低かったのか、べちゃべちゃになっちゃって」
「……でも、おいしいです、よ、これ」
「……うーん。失敗作を褒められるってのも変な気分だけど、そうなんだ」
コッツはすこしのあいだ考え込んだ。
その時間は、厨房に注文票を届けに来たグリムに断ち切られた。
02
午後の営業を終えても、幸いなことにミズクの体調は悪くならなかった。
そこでコロンが改めて火を通したものを食べて、彼女は眉をひそめた。
生焼けと言われている状態で食べたものとは食感がまるで違う。
「これも、ふわっと、もっちりして、いいです、けど……」
「そんなに悪くはないと思うけれど、ミズクが言うならそうなのでしょうね」
高熱状態のコロンが火を通したものは、蒸されたようになっていた。
香ばしい焼け目の部分までがしっとりして、もっちり感が出ている。
蒸しパン状になった生地を好む人も少なくないだろう。
「生焼けのがおいしいとは、人間が毒物に旨味を感じるようものか」
「それとはまったくちがうけれど、不思議な話ではあります」
狙ったわけではない偶然の温度帯に、奇跡の一瞬が混ざり込んだ。
焼き上がったやわらかな生地でもクリームともちがう、その中間層。
追求しても生焼けの生地でしかないから追い求めるものでもないだろう。
「うーん……ちょっと持ち帰らせてもらいますね」
けれど、コッツからしたら不完全のがおいしいと言われるのは納得しづらい。
料理人をしていて芽生えたプライドが、非合理的な選択を掴み取った。
その選択をさせた責任を感じてか、ミズクは視線をすこし落としていた。
翌日から、コッツは温度の調整をしながらいくつかの試行錯誤を始めた。
通常よりも温度が低い分すこし長めに火を入れたり、どうしても上面が焼けやすいから一度ひっくり返して下面を焼くようにしてみたり、空っぽのされこうべに思考を渦巻かせるのは、彼を料理人として成長させるだけのものがあった。
非合理的な選択は、必ずしも損だけをするわけではない。
いくつか試して、生焼けがないのを確認したところで、コッツは改めてミズクに食べてもらうことにした。
呼ばれたミズクは、まっすぐにコッツの黒い眼窩を見ることができなかった。
「なんか、すみません……」
「正直に言えば、すこし悔しかった。でもこの数日、楽しかったよ」
「……はい。ありがとう、ござい、ます」
ミズクを救うような言葉は、やさしかった。
黒い眼窩を正面にとらえて彼女は笑い、差し出されたお菓子を眺める。
カットされた断面からだらしなく崩れるようなことがないから、しっかり火が入っているとわかる。
「えっ、あっ……三層の、生地?」
「結果的にね。たぶん、これがミズクの言う中間層が一番多くなる」
お皿を持ち上げて横から眺めてみると、そのお菓子は上がスポンジ状で、中間がカスタードよりさらに焼けたかどうかくらいの感じ、その下はみっしり密度と水分量があって、ミルクのふるふるのようになっている。
キレイに別れた三層は、目にも楽しい。
期待に膨れ上がる気持ちを抑えながら、ミズクはフォークで先端を削り取る。
「あっ……これ、だ」
彼女の口に、あの時食べたのと同じ……いや、それ以上の食感があった。
水分を含んでしっとりしたスポンジ部分の先に、ふるふるほろほろの幻の食感、そのあとにすこし固めのつるり、ふるりという三つが一度に味わえる。
生焼けなんかじゃない、タルトともパイともちがう新しいお菓子だ。
「おいし、おいしい、です。あの、ありがとう、ござい、ます」
ミズクは、うまく言葉の出てこない自分が悔しいくらいだった。
おいしくてうれしいのに、目からじんわりと雫があふれる。
「そこまで喜んでもらうと、挑戦したかいもあったよ」
「……これ、売れます、よね?」
「うーん、あらかじめ約束があったらってところかな」
出せば売れるというミズクの感想にまちがいはない。
ただ、あまりに手間がかかりすぎるというのがコッツの正直なところだった。
専用の温度にしてつきっきりで見張っておかないと、すぐに食感が失われる。
食感がすべてのお菓子だから、同時作業をするには不向きだ。
また日持ちがしないから、作り置きしておくのも無理だろう。
「そう、ですか……」
「難しいけど、いいレシピが増えたよ。ありがとう、ミズク」
「っ……はい!」
ミズクはお腹に力を入れて、自分のできることからしようと考えた。
気を使ってくれるコッツに情けない返事は返せなかった。




