23 チュチュ 9才
「マスターって、不思議な人ですよね」
「わたくしが? どの街にも一人は居る女だと思うけれど」
厨房に立って、新しいメニューを考えながら、チュチュとコッツは下ごしらえをしていた。
白い骨はすばやく正確で、キビキビ動いている。さすがに本職の料理人だ。
対してチュチュはと言えば、うまいとは言えないけれど、村娘ぐらいにはやれている。戦力として数えられるくらいだ。
困ったようにされこうべを傾けたコッツの後ろで、くっくっくとグリムが笑う。
「自覚がないのは重症だな。コッツ、具体的に言ってしまえ」
「あなたほどおかしな存在もないでしょうに」
むっという表情で、チュチュは台の上のグリムをぺちぺち叩いた。
なんとも言えないコッツは、されこうべの角度をもっと深くする。
「ええと……マスターって、貴族だったんですよね」
「それなりの教育は受けていたつもりです」
チュチュは下ごしらえの作業に戻ると、野菜をじゃぶじゃぶ洗う。
見た目は水仕事もしない令嬢に見えるのに、実際はこんなものだ。
「なのに、どうしてお菓子作りとか、いろいろできるんです?」
「だから、でもあるでしょう。それがすべてとは言いませんが」
今度は反対に、チュチュが首を傾げた。
本来、お菓子は貴族の食べものだ。
むしろ、平民が作り慣れている方がおかしいだろう、と思っている。
「……ええと、よく考えるとそうかもしれません」
「なるほど。キスキィ嬢の生家からすでに変わっているようだ」
「いいでしょう、あなた方の誤解を解いて差し上げます」
どうやら自分が変わりもの扱いされている、と気づいたチュチュは、すこしだけ頬をむっくり膨らませて記憶を掘り起こす。
過去の記憶は明るいことばかりではないけれど、きらびやかなものもある。
最初にお菓子作りをしたのは、彼女が九歳のころだ。
*
アッシュピンクの髪を綺麗に結い上げた人形のような少女は、きょろきょろと周りをよく見た。通路の角に立って、じっと厨房を見る。
いまの時間、料理人たちは休憩に出ていることを知っていた。
彼女は腕利きのハンターで、厨房に忍び込んではジャムを舐める名人だ。
「誰もいない……」
料理人の気配はなかったし、使用人が通る様子もない。
腕利きのハンターは、いまがチャンスだとすばやくに厨房に飛び込んだ。
食料貯蔵庫からジャムの壺をすばやく見つけると、自分の部屋から持ってきた小瓶を取り出す。
たっぷり入れて持ち帰れば、しばらくは甘いものが楽しめる。
「そーっと、そーっと……」
「おねーさま、なにやってるの? あっ、ジャムだ!」
「しーっ! シニョン、大きな声を出しちゃダメ!」
姉の姿が見えないから探しに来たシニョンが、彼女を見つけた。
必死になって妹の口元を押さえるけれど、もう遅い。
「子供の声が聞こえましたよ。チュチュ!」
「ひぅ、お母さま……」
びくっと首をすくませて、腕利きのハンターは今日の敗北を悟った。
*
「マスターもそんな時代があったんですねぇ……」
「むかしの恥を告白してくれと頼んだつもりはないが」
「ちょっとした手違いです。すぐ忘れるように」
成長した腕利きのハンターは、顔を真っ赤にしながら言った。
02
九歳のチュチュ・キスキィは、厨房脇のパントリーで母と向かい合っていた。
「目を見なさい」
「うっ……」
小さな少女は、俯こうとして顎を持ち上げた。
母譲りの碧い瞳が気まずそうに揺れている。
「甘いものが食べたいのなら堂々と頼めばいいでしょう」
「……だって、恥ずかしいんだもの」
「厨房に忍び込んで盗み食いをする方が、よっぽど恥ずかしい!」
正面から切り捨てるような正論に、チュチュはぐうの音もでない。
ませた少女だったチュチュは、幼い頃から見栄っぱりだった。
それがいい方に向かうこともあれば、今回のようになることもある。
「今度からは人に言いなさい。それでもいやなら、自分で作るといいでしょう」
ため息を吐く母とは別に、チュチュは大きな瞳を丸くした。
彼女の中で、食べものというのは作ってもらうものという感覚があった。
「お菓子を自分で作ってもいいの?」
「ええ。作り方はわからないでしょうから、まずは人に聞いてからね」
怒られたばかりだというのに、少女の胸はドキドキでいっぱいだった。
自分でお菓子が作れるなんて、考えもしなかったから。
母といっしょにパントリーから出ると、ちいさな妹が心配そうに見ていた。
「おねーさま、ごめんなさい。わたしが、おっきな声を出したから……」
「ううん、シニョンは悪くないの。だから、笑って」
チュチュは妹の顔を小さな両手で包むと、むにっと持ち上げてやる。
「ひゃめへよー」
姉の体をぐいっと押して、シニョンは頬を膨らませた。
「おねーさま、おこられなかったの?」
「怒られたけれど、それ以上にいいことがあったの」
「ずるい。シニョンにもおしえて!」
「夜になったらね」
いま教えて! とせがむシニョンをなだめながら、チュチュは妹の背中を押して、二人して厨房を出ていく。
夜になったら、自分で作ったお菓子をシニョンにも分けてあげて、びっくりさせる計画を練っていた。
今のうちに家庭教師から出された課題を片付けてしまうと、彼女は小さなハンターだった時のように、通路の角で料理人を待っていた。
やがて夕食を仕込むために休憩から帰ってきたところを、チュチュが捕まえた。
「あら、チュチュお嬢さん、どうしたんです?」
「おかえり。あのね、お願いがあるのだけど」
「ジャムを舐めたいなら、すこしだけですよ」
そう言われて、自分では名人だったつもりの少女は顔を赤くした。
ぶんぶん首を振って、小さくなった勇気をいっぱいに振り絞る。
「そうではなくて、お菓子を作りたいの。お母さまから、いいって言われたの」
「それならあたしに是非はないですけど、あたしが作らなくていいんで?」
料理人からすれば一から少女に教えるより、自分で作ったほうが早い。
それに味もいいだろう。
「自分で作れたら、ジャムを舐めに厨房に入らなくてよくなるでしょう」
「あはははは! それはようございます。お菓子を作りましょう」
自分の恥をあえてさらけ出すチュチュに、料理人は大声で笑った。
リンゴのように赤い顔は、しばらく元に戻らなかった。
03
パントリーから壺を三つと、卵を持ってきて、料理人は調理台へ置いた。
「材料は小麦を挽いたの、バター、砂糖、塩、たまご。こんなもんでしょう」
「クッキーは甘いから砂糖を使うのはわかるけど、お塩?」
「ええ。不思議なことに、ちょいと塩を入れると砂糖が少なくてすむもんで」
「知らなかった。料理人ってみんな物知りなの?」
彼女に関心したチュチュは、砂糖の壺を覗き込んで甘い香りにうっとりする。
料理人はそのあいだに、木べらと材料を混ぜるための器を用意した。
「チュチュお嬢さんみたいに教育は受けていませんよ」
「だったら、お勉強ばかりじゃなくて、やってみなくてはね」
「そういうことです。頭じゃなくて手足で覚えることもあるでしょう」
家庭教師に知識を教わることもあれば、やらなければ覚えないこともある。
チュチュは世の中にまだ、たくさんの知らないものがあるのを知った。
「では、バターをやわらかくしたら、材料を全部入れて混ぜてください」
「どのくらい?」
「お嬢さんがくたびれて、もういやだって言うくらいで十分でしょう」
「嘘、じゃない……みたい。ほんとうなんだ」
チュチュが料理人の顔を見上げても、からかっている様子はない。
人がくたばるまでやるというのは、厨房では見慣れた光景だ。
「塩を入れるから、砂糖はちょっとでいい、と」
チュチュは、器へ入れる砂糖の量をかなり控えめにした。
すこしだけ手についた砂糖をぺろりと舐め取って、目を細める。
料理人は、その分量に何も言わずニコニコと笑ったままだった。
言われた通りに器へ材料を順番に入れて、木べらで練り始める。
「こればっかりはどうにも堪えますよ。混ぜやすい道具でもあればいいんですが」
「料理人に貴族がいたら、すぐにでも作らせるでしょう」
「チュチュお嬢さん、いつか楽させてくださいよ」
未だに若々しい料理人には似合わないような、歳をとった声で言う。
ぐるぐると器を掻き回している少女にも、その苦労の一端はわかった。
「わたくしが家を引き継ぐ時は、あなたも下働きにさせてるんじゃない?」
「下働きが楽になれば、おなじ人数でも作る量が増えるんですよ」
チュチュは、目をパチパチとさせて首を傾げた。
料理人と話をしてから、関心させられてばかりだ。
教師から知識を教わるのと、彼女から考え方を教わるのは、ほとんどいっしょで、すこしばかり違う。
そこには経験からくる説得力と、問題を斜めから見る視点があった。
「あなたって、ほんとうに教育を受けていないの?」
「仕事が楽になるなら、なんだって考えるもんです」
そういって笑ってみせる料理人に、チュチュはうなずいた。
「……うん、わかる。もう腕がダメ」
「これなら十分です。混ぜたら、切り分けてぺったんこにしてください」
「ん、しょ。これくらいでいい?」
ねっとりと黄色い生地を小さく切り取ると、木べらで潰して形を整える。
彼女がおやつに食べるような、キレイな形にはならなかった。
「ようございます。これを全部やったら、焼きましょう」
「ん、しょ。べっとりして、けっこう切りにくい」
「包丁でやったほうがいいんですけど、お嬢さんにはまだ危ないんで」
「あなたがそういうなら、そうする」
「おや、ずいぶんと聞き分けがよろしいようで」
「わたくしは素直ないい子って、先生にも言われるもの」
ねっとりしたクッキー生地と戦いながら、少女は言う。
「そりゃあ、教えがいがありますよ」
料理人は、彼女に背中を向けて見えないように笑った。
04
「さあ、焼き上がりましたよ。お嬢さん。よくできてます」
チュチュは、クッキーが焼き上がるまで窯の前から離れなかった。
じっと火の加減を見つめていたけれど、まだうまく飲み込めないようだ。
料理人が窯から取り出すと、形が悪くて焼きむらがある。
生地のでこぼこしたところは、火のあたりが変わってしまっていた。
「うそばっかり。こんなの……よくなんて、うそ」
「嘘じゃありませんよ。初めてで、こんなに作れる見習いなんてすこしです」
自分ではもっとうまくできたつもりだったチュチュは、むっつり口を曲げる。
けれど、初めて自分が混ぜた生地は、妹のように愛らしくもあった。
料理人に慰められて、彼女はあっというまに元気をとり戻した。
「まだ熱いですからね。食べるのは冷めてからがようございます」
「うん、そうする。食べごろになったら紅茶を淹れて。二人……ううん、三人分」
「わかりました。ジャムとハチミツはたっぷり詰めておきましょう」
「そうして。シニョンは、紅茶にジャムを入れて飲むのが好きだから」
厨房は焼けた生地の香ばしさと、バターの甘い匂いに包まれている。
うっとりした気分で、チュチュはクッキーが早く冷めないかと待っていた。
チュチュはドアの前で深呼吸して覚悟を決めると、コツコツと叩いた。
「お母さま、いる?」
「いますよ。どうしたの、チュチュ」
チュチュの母の部屋が開けられた。
彼女の私室は、ほとんど最低限の調度品で構成されている。
すっきりとした部屋を、チュチュは背中にトレイを隠して進んだ。
乾いた喉をごくりと動かして、意を決したように腕を前へ回す。
「あのね、お母さま。……これ、わたくしが作ったの」
「まあ。さっきのいまで、チュチュは上手にできたのね」
そういって表情をなごませて、娘のあたまを撫でる手つきはやさしい。
くすぐったく思いながら、チュチュは目を細める。
「お母さま、ごめんなさい。みんなに恥ずかしい、イヤな気分にさせてしまって」
「まちがいは誰でもするものだから。次からしないようにすればいいの」
「……はい。三人分あるから、シニョンも入れていっしょに食べましょう」
「ええ。けれど、夜ごはんが食べられるようにすこしだけね」
そう言って彼女は、使用人にシニョンを連れてきてもらうように頼んだ。
子供部屋で教師から指導を受けていた彼女は、大喜びで部屋に入ってくる。
「おかしを食べてもいいって、ほんとう!?」
言ったあとに、彼女はしまったという表情をして、部屋を出ていった。
そこで習ったように部屋に入る時の作法をして、もう一度入ってくる。
これで怒られないよね? と笑う妹をかわいく思うのは、姉の贔屓目だ。
「シニョン。女の子なのだから、もうすこしお淑やかにね」
「はぁい。おかしって、このクッキー?」
わかったのかわからないのか、返事をしながらシニョンはテーブルに近寄る。
「ええ。このクッキー、チュチュが焼いてくれたの」
「おねーさまが? いいなー、わたしもつくれるようになりたい!」
キラキラした目で見てくる妹を、チュチュは母にされたように撫でてやった。
にこにこと笑う彼女は、あたたかい陽の光に似ている。
「紅茶が濃くならないうちに食べましょう。まだ、味見もしてないのだけど」
そう言いながら、チュチュはソファに座った。
三人で仲良く並んでカップに紅茶を注ぐと、不揃いのクッキーを手に取る。
サクリと小気味よい音を立てて、口の中でクッキーが砕けていった。
姉妹は目を丸くして、手の中のクッキーに視線を注いだ。
「おねーさま。このクッキー、あまくないよ?」
ドクンと、チュチュの心臓が跳ねた。
05
料理人の、塩を入れると砂糖が少なくてすむというのは、嘘ではない。
ただお菓子を甘くするには、元から大量に砂糖を必要とする。
それを彼女は、砂糖はちょっとでいいと勘違いをしてしまった。
たったそれだけのミスが、彼女の顔を恥ずかしさで赤く染める。
「シニョン。トレイを見て。こんなにジャムとハチミツがあるでしょう」
「はい。……あ、このクッキー、パンみたいに食べるんだ」
「甘いクッキーに甘いジャムやハチミツでは、甘すぎてしまうから」
納得したシニョンは、紅茶にも入れたジャムを、クッキーにたっぷり乗せた。
ジャムの味しかしないようなクッキーを、おいしそうに頬張る。
スカートの裾をぎゅっと掴んで、チュチュは目に浮かんでくる雫だけはこぼさないように堪えた。
そんなことをしては、せっかく母にかばってもらったのが台無しになる。
「ほんとだ。おいしいよ、おねーさま。サクサクであまいの!」
「よかった。喜んでもらえたなら、わたくしも嬉しい」
にこにこと笑う妹に、彼女は初めて貴族の仮面を被った。
ちいさなお茶会が終わって、シニョンが教師に引き取られていったあと、チュチュは小さくなってソファに座ったままだった。
となりに座った母に、彼女は顔を見せられなかった。
「チュチュ。このクッキー、とてもおいしかった」
「うそ、うそです。こんな失敗を日に二度もして、わたくし……」
スカートにしわを刻むちいさな手をに、母は温かいてを乗せた。
「ほんとうだもの。ねえ、チュチュはおいしくなかった?」
「……いいえ。ちょうどよくて、おいしかった」
ジャムを乗せて食べる甘くないクッキーは、たしかにおいしかった。
まだ焼きたてで落ち着いていないクッキー生地を、しっとりと包むジャムとの組み合わせは、なんでいままでしなかったのだろうと思うほどに。
「そうでしょう。今回は、計算した通りにならなかったかもしれない。けれど、それでなにもかもダメということは、あんまりないの」
「失敗しても、失敗じゃない?」
「やってみて、とりかえしがつくならそれでいいの。それなら失敗したからってあきらめることはないでしょう?」
母の手の中で、ちいさくこわばっていた拳から力が抜けた。
抱きついて大きなドレスで顔を隠して、ちいさな少女は声を上げずに泣いた。
彼女は今日、二度の失敗と人生で忘れられない教訓をいくつも得た。
*
「このように失敗も成功もする、どこにでもいる少女だったのがわたくしです」
よくわかったでしょう、と胸を張られたミズクとグリムに言葉はない。
チュチュ・キスキィはなんでも試して、なんでもやるようになった。
失敗を成功に変える変則的な思考や、知識を培った原点はよくわかる。
しかし、そうさせる貴族はふつうの家ではない。
「ああ。よくわかった。キスキィ嬢は実に御母上によく似ているようだ」
「そう、ですね。話を聞いてると、そっくり、です」
「そうかしら? ……そう言われれば、悪い気はしません」
表情をやわらかくする彼女は、どこか誇らしげだ。
チュチュのなかで、彼女の母はいまも自慢できるものだった。
「しかし、やはり一般的ではないな。国の違いか、家の違いか」
「マスターは、ふるさとにいた時、目立ってなかった、ですか?」
「注目を受けていなかったと言えば嘘です。父の名のおかげでしょうけど」
親にしてこの子ありだと、一人と一冊は深く納得した。




