21 レモンとたまご
01
薄い輪切りにしたレモンをぱくっとくわえて、オルデはキツく目を瞑る。
爽やかな風味と、強烈な酸味と皮の苦味がスッキリ目を覚まさせた。
「んん……香りは好きなのだけれど」
果物は彼女の好物だ。リンゴも、ぶどうも、そのまま食べても適度に甘い。
しかしレモンだけはどうにも酸っぱすぎて食後の口直しにしても苦手だった。
ジャムにしてしまえば甘くて爽やかでおいしいものだ。
しかしジャムは、時期がはずれた時の楽しみにとっておく必要もある。
「ハチミツをとってくれる?」
従者に命じてハチミツを垂らしたレモンを、もう一枚齧る。
甘くて酸っぱくて爽やかで、ハチミツのくどさがレモンで消える。
「いつも同じような食べ方だと、教養を疑われるかしら」
これはこれで一つの完成形だと彼女は思う。
しかし、貴族はくどい程に工夫を凝らして見栄を張るのが流儀だ。
他の人に真似できないようなことをするのが仕事の一つと言えた。
「レモンのお菓子。ジャムを塗るのでも詰めるのでもなく……」
オルデはもう一度、従者に命じた。
命じられた従者は音を立てずに、けれど急いで部屋を出ていた。
*
坂を降りていく馬車を見送ったグリムは、運ばれてきた荷物を確かめた。
一抱えほどもある木箱からは、すでに瑞々しい香りが漂っている。
「ヴィナ・ノワから贈り物だ。木箱一つ分とは、やることが違う」
「おー、レモンだー。あ、手紙もついてるよー」
「……なるほど、料金は前払いというわけだ。人間の貴族のやり方だな」
荷運びにワールを呼びながら、グリムは手紙に目を通した。
たっぷりと迂遠な言い回しで差し入れのようなことを言いながら、これで何かを作れと書いてある。
それも、ある程度凝ったものをという要求だ。
「運んだら一個貰ってもいーい?」
「コッツがいいと言ったらな」
「わかったー」
木箱を軽々と抱えたワールは、なんでもないように厨房へ向かった。
せわしなく動き回る厨房の邪魔にならないよう、端の方で荷物を下ろす。
「お届け物でーす。レモンがいっぱいだよー」
「はーい。いま手が離せないから後でね」
「一個貰っていーい?」
「丸のままでいいならね」
「へへへー、じゃあ貰ってくねー」
つやつやした皮のレモンを一つポケットに入れると、ワールは厨房を出ていった。
それからすぐに引き返してきた。
「っとっとっと、注文忘れてたー」
注文票を置いて、彼女はまた厨房を出た。
02
温めたミルクにレモン果汁を加えると、カッテージチーズができる。
しかし、これを使っただけのものはレモンのお菓子とは言えないだろう。
元のものを殺しすぎてはいけないし、素材を生かしすぎては工夫に見えない。
「難しいところですね。薄切りにしたのをパイやタルトではダメなんでしょう」
カスタードを敷いて、クリームの上に薄切りにしたレモンを並べる。
そこにレモンの花から採ったハチミツを垂らしてなじませれば、おいしいレモンカスタードタルトができるに違いない。
「オルデ様にはご不満かもしれませんね。レモンはクリームに入れてみる?」
テーブルを挟んで、コッツはチュチュとああでもないこうでもないと考える。
レモンのおいしいお菓子を考えることは、一人と一匹には難しくない。
けれどオルデが気にいるような、という条件を挟むとそうでもなかった。
「そう思ってやってみたんで、味見をして貰えます?」
「準備のいいこと。できる料理人を持つと主人は楽ができます」
クスクスと笑いながら、チュチュは首を縦に振った。
厨房にクリームを取りに行ったコッツは、薄切りにしたふわふわ焼きを添えてテーブルに出す。
黄色味が強いぽってりとしたクリームと、つぶつぶと黄色いものが混ざった白いクリームの二種類が並んでいた。
「カスタードに混ぜたものと、摩った皮を入れたホイップクリームかしら」
チュチュはレモンカスタードの方をふわふわ焼きに塗って口に運んだ。
キュッと目が細められたのは、食べ慣れない酸味のせいだ。
「おいしい……のだけれど、これはクリームが主役になってしまっている」
「レモンのお菓子というには、これだけでは厳しいですか」
レモンカスタードは、まちがいなくおいしいお菓子にできる力があった。
けれどそれはカスタードのバリエーションで、レモンが主役になっていない。
レモンのお菓子と言えるかと言えば難しいだろう。
紅茶で口をリセットしてから、今度はホイップクリームの方も食べてみる。
「ホイップクリームにしてはさっぱりとして、これもおいしい」
レモン果汁を多めに入れたおかげか、クリームには適度な酸味と軽さがあった。
皮が入っているおかげで風味もあって、すこしも重たくない。
「使うならこっちを考えますか?」
「ええ。それもいいのだけれど……レモンとクリームの割合は?」
「……クリームが大半ですね。でも、これ以上レモンを入れると味が壊れます」
テーブルには、おいしいクリームが二つできていた。
どちらもレモンのお菓子としては不都合だった。
03
コッツはもっとふわふわ焼きに使う卵白と黄身を分けていた。
手が空いているワールはそれを手伝って、たまに入っている殻の欠片を取り除きながら泡立てる。コッツでは十数分もかかる泡立てが、その数分の一の時間で済む。
彼女がいなければ、店が開く時間になっても卵白を混ぜていただろう。
「でもさー、これって面倒だよねー。分けなきゃいけないのー?」
「やってみたけど分けないと、うまくあわあわにならないんだよ」
ワールならそれでもできるかもね、とされこうべをカラカラ鳴らしながら言う。
くたびれてもいないのに疲れたような顔をしながら、ワールは舌を出した。
「こっちはかき混ぜるだけでいいけど、大変だねー」
「それぞれでいい使い方があるんだから、しっかり分けてあげないとね……あっ」
仕分けする白い骨がぴたりと止まった。からっぽのされこうべに閃きが光る。
「どしたのー?」
「うん。一つでまるごとじゃなくてもいいんだなって。なんとかなりそうだよ」
「よくわからないけど、よかったねー」
首を捻りながら、ワールは卵白をあわあわに仕立てた。
引き算のお菓子をコッツは思い出した。
有と無にするのではなく、足して十になるよう分ける作り方。
たっぷり絞ったレモン汁の角が丸くなるものを、一つ一つ試していく。
レモンがたっぷりと使えるように、少量か同量でちょうどよくなるように考えると、生クリームでも水分が多すぎる。
「生クリームを煮詰めるんじゃなくて、バターがいいか」
フレッシュバターを果汁で伸ばすように、すこしずつ様子を見ていく。
ほとんど同量になったところで、レモンとバターの味わいが釣り合う。
ふんわりとした甘みとすこし喉が絞まるような酸味ができあがった。
「けれど、これだとすこし緩すぎる……」
レモン果汁の割合が多すぎるせいか、とろみがある液体になっていた。
温めるとバターが溶け出して、もっとさらさらになってしまうだろう。
「つなぎになるものが必要だけど、小麦粉だと重たいかな」
あれこれと悩んだ時、コッツはレシピとメニュー表を見返すことにしている。
引き算のお菓子を思い出したように、ヒントは過去に隠されていることが多い。
黒い眼科で眺めていくと、一つのレシピに可能性を感じた。
「ミルクのふるふるだ。そうか、たまごに熱を入れると固まるよね」
ミルクとたまごを窯で蒸し上げるミルクのふるふるは、たまごの力で形になる。
全卵と白身と黄身と三種類を試して、コッツは卵黄だけがいいと感じた。
対照的とも言えるレモンとバターの味を、一つに繋ぐような強さがある。
「……たまごか。思いついたのもたまごがきっかけだったし、どうせなら」
レモンが合わせて一つなら、たまごも合わせて一つ。
卵白を泡立てながら、コッツはこれをどう組み込んでいくかを考えた。
04
「どうぞお入りになって」
「し、失礼、します」
侍女に通されたミズクは、固い足取りでよく磨かれた艶のある板張りを踏む。
オルデの私室は暑くもないのに、緊張から背中がじっとり冷たくなっていた。
上質な布で飾り立てられた部屋は、彼女が三人で暮らしている家よりも広い。
部屋の主人は、ミズクを見て物珍しそうに目を丸くした。店の主人が来ると思っていたようだ。
「あなたが持ってきてくれたのね」
「マスターではなくて、すみま、せん」
「誰が持ってきても、あなたたちが頑張ってくれたのはほんとうでしょう?」
「……はい」
それから思い出したようにミズクは慣れない貴族式の挨拶をして、持ってきた荷物を解いた。
小さな子を褒めるようにオルデに扱われて顔を赤らめながら、彼女は白い陶器の箱を取り出した。
蓋を開けると仕切りが入っていて、同じ形のお菓子が六つほど並んでいる。
「見たことのない器だけれど、このために?」
「壊れやすい、お菓子、なので……」
シンプルな容器はそれだけで纏まって見えるけれど、このまま出すのはさすがに失礼に当たる。
店で使っているのといっしょのお皿を取り出して、お菓子を二つ並べた。
お菓子はすこし焼き色がついた、子供の手ほどのたまご型をしている。
「焼き菓子?」
「はい。崩れやすい、ので、そのまま食べると、いいです」
「そうなの。それなら、そのままいただきます」
オルデが手に取ると、感触はけっこうしっかりしている。
軽く見えるのに意外と重みがあるのは、中のクリームだろう。
そっと顔を寄せれば爽やかなレモンがうっすら香る。間違いなく、彼女が注文したレモンのお菓子だ。
一つ丸ごと味わうのは難しいから、下品にならない程度に大きく口にした。
その食感は、彼女がいままで味わったどれとも違うように思えた。
やわらかく焼かれたクッキーのようでそれよりも脆く、かといって生焼けのようにねっとりもしていない。
確かめるように噛んでいる内に、もう消え去ってしまう。
その後に残るクリームはレモンの強烈な酸味と風味を残しながら、どこにも刺さらないまろやかな丸みがある。
作ったばかりのレモンジャムのようで、それより遥かに爽やかでフレッシュだ。
「これは……?」
「レモンバタージャムの、メレンゲクッキー、です」
言われてから、オルデは注意深く手元のお菓子に目を落とす。
ハチミツ漬けのレモンピールが細かく刻まれてちらちら入っていた。
メレンゲクッキーを噛んでいる内に皮が弾けて、より香るようになっている。
「たしかに、手間もかかって凝っていて、文句のつけようがないほど注文通り」
くすくすとこみ上げてくる笑いが堪えきれず、オルデは口元を手で隠した。
ハチミツとレモンの安易な組み合わせが嫌と注文を出せばこれだ。
凝ったお菓子を作れと送りつければ、これだけ素材を生かしてくる。
過剰な酸味もなにもかもレモンそのままなのに、なんて食べやすくておいしいのだろう。
「メレンゲクッキーもいいけれど、このジャムはとても素敵ね」
「お気にいったのなら、よかったです。……持ってきたかいが、あり、ました」
そういってミズクは、持ってきた荷物から小壺を取り出した。
たっぷりと詰められたレモンバタージャムを見て、オルデはもう一度口元を手で隠した。




