空の城3(ナイト)
夜十二時きっかりに、ナイトは約束の塔の裏手の窓の下に立った。
辺りは暗く、遠くにちらりと松明の火が揺れるのが唯一の明かりである。
と、
「!!!」
何かがナイトの側に落ちてきた。
慌てて避けたが、それは下まで落下せずに宙で止まる。
見上げると、ほとんど登頂に近い部分にある明かりのついた窓からロープが下ろされていた。
(……これを伝って登れと?)
もちろん、途中で切れれば生命はない。
ナイトはロープを手にとって眺めた。
太さ22mm、材質的にも太さ的にも強靱であり、彼の体重を支える程度ならまずは大丈夫だろう。
(何かの策略で途中で切られたり結び目をはずされるリスクはある)
だが、昼間見たバドの真剣な眼差しを思い出し、ナイトは首を振る。
ロープは材質、太さ、長さから想定して、全量二十キロぐらいはあるだろう。
これを塔のてっぺん近くまで持って上がるのは大変だ。
ナイトを殺すためなら、もっと簡便で楽な方法がいくらでもある。
(……第一、殺される理由もないし)
ナイトは腰に吊した剣を背中に背負いなおし、それからロープを手にとって登り始めた。
ロッククライミングや綱登りは昔から得意分野なので、特に気負いも恐怖もない。
エスケープゾーンがないこと、命綱が腰に結ばれていないことが普段と異なるだけだ。
(……あそこか)
しばらく上を目指して登っていると、やがてロープの出発点たる窓の形までがはっきりと見えるまでになった。
そのまま慎重に手足を動かし、窓枠にようやく手をかけると、
「やっぱりすごいねバド! ここまで一分かからなかったよ」
「っ!」
何とはなしに想像と異なる展開に驚いて、ナイトは手を滑らしかけた。
危うく落ちそうになったが、何とか左手でふんばってそのまま上がる。
「姫君、失礼いたします」
そうして窓枠に足をかけて、ほのかに明かりの灯る部屋の中に入ったナイトだったが、
「!」
姫を見た途端、別の意味でわずかに動揺する。
柔らかな艶のある黄金色の細い髪、深い地中に眠っていた琥珀のような瞳。
未だかつて見たことのないほど透明な、抜けるように白い肌。
整った造作、愛らしい唇。
(……何がカエルだ)
女にはほとんど興味のなかったナイトですら、反射的に生唾を呑み込むような美貌。
と、
「き、君、だれ?」
今度は相手の顔が驚愕に変わった。
「始めまして、ナイト・サリヴァンと申します」
「あれ?」
怪訝な顔で姫は首をかしげる。
「僕はバドに手紙を落としたはずなんだけど」
ナイトは小さくため息をついた。
やはり思った通りだった。
「その彼に頼まれて、俺はここに来ました」
「なんで?」
ナイトは首を振る。
「バド殿がどうして俺を選んだのかはわかりませんが、彼に頼まれたので俺はここに来ました」
言いながら、何となくバドから仕事を奪ったような罪悪感を感じ、訳もなく恥ずかしくなる。
普段の自分ならきっとバドを叱咤して、彼をこの場所に向かわせたことだろうに。
(……いや)
よく考えると、やはりあの手紙の書き方が悪い。
「恐れながら、渡す相手がわかっているのなら、どうして固有名詞を手紙に書いておかれなかったのです?」
ナイトは姫君を睨む。
「彼は貴女を本当に心配していた。もし、そこに己の名前があったら、たとえどれだけのリスクがあろうとも、勇気を振り絞って貴女の元に自ら参上したでしょうに」
「バドは決して臆病じゃない」
驚いたことに、あらゆる人間がその覇気で怖じ気づくと言われるナイトの睨みになぜか動ぜず、姫君は首を振った。
「勇気も実力もあるからこそ、固有名詞を書いたら、人目や時間を考えずにここまで一気に駆け上がってくる可能性があった。だから、ゆっくり中身を吟味する時間を持ってもらうために曖昧にしただけさ。それに下手に名前を書いて他の人に見られたら、彼があらぬ疑いをかけられちゃうかもしれないし」
見知らぬ侵入者を前に、堂々とした態度。
ナイトは姫君の胆力に少し感心した。
「では、俺のように、思いも寄らない人間が、間違って上がってくるという想定はなさらなかったのですか?」
「正直、予想外ではあったよ。だって、この塔の周りに来ることを許された衛兵の中で、塔のてっぺん近くまでロープ一本で登ってこられる腕力を持った人間なんて、バド以外にはいないと思ってたから」
ナイトは頷く。
「お話はよく理解いたしました。ただ、彼が少し自分の実力を過小評価する傾向にあることは考慮なさるべきでしたな」
「……ふうん」
値踏みするような眼差しで、王女はナイトを上から下まで眺める。
「ま、いいや」
予定とはやや違う展開に、ナイトは困った。
口下手ゆえに、こういうときに言葉がすらすらでないというのは致命的だ。
仕方なしに、取り繕いがてら周りを見回すと、そこには豪華な寝台や鏡台、その他家財がところ狭しと並んでいる。
「……ん?」
だが、その中に一つだけ異質なものがあった。
「……それは」
裾の長いドレスから伸び出た禍々しい彫り物のある銀の鎖。
「ああ、これ?」
姫君が数センチスカートをまくり上げると、その白く細い足首に銀の足かせが見えた。
銀、とは言ったが、いわゆる貴金属のそれではなくどこか真珠のように不思議な色合いの金属だ。
不意に胸がずきりと痛む。
「……妙に哀しい色だ」
「え?」
何故、そんなことを呟いてしまったのかナイト自身にもわからなかったが、どうしてか姫君が驚いたように彼をまじまじと見た。
「へえ」
そしてたっぷり十秒後、一つ頷く。
「バドが頼んだのなら、きっと彼は君が強いと判断したのだろうし、何よりいい人なんだろう」
そのにこりと微笑んだ顔は天使のようで。
「い、いや……」
と、そのとき、
「何やってんだっ!」
ドアが開き、昼間謁見の間にいたスカイ王子が血相を変えて部屋に飛び込んできた。
そうして姫の手からスカートを思い切り強い力で外す。
「は、はしたないことするなよ!」
薄桃色と白銀のレースのついたロングドレスが再びふわりと床に降りた。
「はしたないって何だよ。どうせこれから彼に切ってもらわなきゃならないんだしさ。……ねえ、ナイト」
姫君が魅惑的な瞳でこちらを見上げると、スカイ王子は慌てたようにこちらを見た。
「海の城、サリヴァン将軍の孫で、勇者の誉れ高い貴方が、どうしてこんなストーカーみたいな真似を!」
「失礼なこと言わないで。来てって頼んだのは僕だよ」
「嘘をつくな!」
王子は不信感マックスな目でナイトを見、再び姫君に視線を戻す。
「こいつが空の城に来たことをお前、知ってるわけないんだし」
「いいじゃない、そんなことどうだって」
姫君は肩をすくめた。
「さてと、そんなことよりナイトに頼み事をしなくちゃ」
のぞき込むように、姫はこちらを見上げる。
「ここにきてくれたってことは、僕を解放するために来てくれたって思っていいんだね」
「俺の使命は貴女のお困り事を解決することです」
王女はにっこりと笑った。
「ありがとう」
どうしてか頬がかっと熱くなる。
だが、武人たるものそんな状態に陥るのを恥とせねばならない。
ナイトは少し心を落ち着かせるために息をついて質問を考えた。
「ですがその前に、いくつかお聞きしてもよろしいでしょうか」
「何なりと」
「一体、誰が貴女をこんな目に?」
「父上だよ」
驚きに両の拳は硬くなる。
「なぜ?」
あの人の良さそうな王が?
「さあ、僕を政治の道具に使うためかな」
「それは違うだろ、父上はお前のこと心配して……」
「え、なに?」
姫君が弟王子をわずかに睨む。
「スカイはあっちの肩を持つわけ?」
「い、いや、父上だってここに至るまでには紆余曲折が……」
「……ふうん、そう。紆余曲折があれば子供を拘束して許されるわけなんだ」
ぶるぶると王子は首を振る。
「違うんだ、そういう意味じゃなくて。確かに拘束ってのは酷いよ。でもさ、俺も男だから父上の気持ち、よくわかって……」
「それ禁句」
「あっ!!!」
どうにも話が見えない。
そんなナイトの逡巡をわかったのだろう、
「そうだね、事情をきっちり話さないとわかんないよね」
姫君はふわりと微笑み、側にあった椅子に腰掛けるように手で示した。
「では、失礼いたします」
ナイトが座ると、姫はこちらに向き直り、そして真顔で相対する。
「あのね、僕、本当は男だったらしいんだ」
「…………は?」
いきなりの発言にナイトはまじまじと相手を見る。
しかし未発達だが、そこはかとなく男子と違う胸の形や華奢な首は姫がまぎれもなく女であることを示していた。
「それを僕が知ったのは十歳のとき、旅の商人が持っていた鏡を見たときなんだ」
町の噂にもそんな話があったことをナイトは思い出す。
「それはどうやら真実の鏡だったらしくて」
「真実の鏡?!」
ナイトも授業で聞いたことがある。真実の鏡は、呪われて別の姿に変えられている人間を元に戻すアイテムである。
「のぞき込んだ鏡に映った僕は、確かに今の僕ではないけど本来の僕だということがすぐにわかった。僕も悪い魔と良い魔の区別ぐらいはすぐにつく。あれは良い魔の使う道具で、人を正しい姿に戻すために作られたものだよ」
「しかし、真実の鏡を見たのなら、その次点で元の姿にお戻りになってらっしゃるのでは?」
「僕のは呪いが強すぎてメタモルフォーゼ解除には至らないんだろうって、鏡は言ってた」
王女は悔しそうな表情で口を噛む。
だが、ナイトの関心は他に向いた。
「鏡が喋る? 口もないのにどうやって?」
「知らないよ。声が手を伝わって聞こえたんだもん」
王女はため息をついた。
「そして言ったよ、僕の呪いは根源を絶つことによってしか、きっと解くことはできないたぐいのものなんだって」
ナイトは眉をひそめる。
真実の鏡ですら解くことができない呪いとは、魔王かあるいはその軍団長レベルの黒魔法ではないか。
「でもね、一番大切なのは、あの鏡が僕に僕が本当は何者であるかを示したことなんだって思う」
やや哲学的な台詞にナイトは問うた。
「では、本当の姫は何者なのです?」
「……君」
姫は嫌な顔をしてナイトを見る。
「人の話をちゃんと聞いてる? そんなの、本当は僕が男だってのに決まってるじゃない」
「……失礼いたしました」
「でね」
幸い、王女はすぐに気を取り直したようで、続きを話し出した。
「誤魔化されたり嘘をつかれたりしないように、先に書庫で昔の資料を調べたり、文献をひもといたりして、過去の出来事を調べたんだ。そしたら、事情はよくわかんないけど、昔、父上がこの城に住んでた魔法使いに頼んで、僕を女にしたことがわかったんだ。そして、十五歳までに元に戻る儀式をしなけば、一生男に戻れないことも」
姫君は長いまつげを伏せた。
「証拠をつきつけて問いつめたら、父上もそれを認めた。だけどね、言うにことかいて、『そのままで何の問題がある?』、なんてこと言うんだよ、十年も自分を女だと思って生きてきたなら、男に戻る必要などないって。この先、僕が何年生きると思ってるのさ」
再び開いた瞳には怒りがともる。
「その頃、どっかの国から見合い肖像画が届いてたし、きっと父上は僕を大国に嫁がして、国をでかくする計画を立ててるんだ。そのためには僕が元に戻ると困るんだ」
と、側でスカイ王子がため息をついた。
「……兄貴は姉さんにそっくりだし、再び失うことを父上は恐れておいでなんだ。それで……」
「ふうん」
王女は王子をじっと見つめた。
「やっぱりスカイは父上の肩を持つんだ。そして、男には男にしかわからないことがあるとか勝手なことを言って、僕だけ女なのをいいことに除け者にしようって魂胆なんだね」
「そうじゃない、何度言ったらわかってもらえるんだろ。だから姉上、じゃなくて、ち、違っ……いいっ!!」
姉上と言った途端に、可哀想な王子はハイヒールのかかとで思い切り親指辺りを踏まれた。
(………見かけによらず、なんてじゃじゃ馬……)
いや、男、なのか?
ナイトは小さく首を振った。
「しかし確かに、実の娘、いやもとい我が子にこんな足かせをつけて塔に閉じこめるというのは、父親として誉められた話ではありませんな」
「でしょ、僕もほんとにそう思う」
青い顔の王子がぶんぶんと首を振る。
「兄貴は、十五歳までに呪いを解く術を見つけるためって言いながら、何度も黙って勝手に出国しようとしたから、父上がそれを恐れて……」
「……なるほど」
ナイトは立ち上がった。
それだけ聞けば十分だ。
「それでは失礼ながら、おみ足をお見せください」
王女はぱっと明るい顔をした。
「じゃあ、助けてくれるの?」
「はい」
もし、自分がこの姫の立場だったなら、恐らく彼女と同じように憤り、そして呪いを解くために努力しようとするだろう。
それを頭ごなしに止めるばかりか、四年もの間、鎖をつけて拘束するなど事情はどうあれ許されることではない。
「ま、待った!」
が、王子がナイトを止めた。
「なに、スカイ?」
ひどく怖い眼で王女が睨むと、王子はびくりと身をすくませた。
「あ、いや、やっぱり父上にお伺いを立ててからこういうことは……」
「拘束している犯人に伺ってどうするってのさ」
「い、いや、この足かせを切るのは刃物では無理だから……」
「そんなことはわかってるよ。だから鎖の方を切ってもらうんじゃない」
「そ、そうなんだけどさ」
何故か王子はしどろもどろだ。
そんな弟王子を鋭い眼差しが射抜く。
「スカイは常々、僕に同情するって言ってたよね」
「あ、ああ、もちろんさ」
「他の誰が敵に回っても、自分は味方だからって言ってくれてたよね」
「弟として当然だろ?」
王子は汗びっしょりだ。
「……そうなの?」
「忘れたとは言わせないぜ、お前のために、以前、二人ほど勇者と名乗る男を連れてきてやったのは俺だ」
「うん、彼らには鎖を切ることはできなかったけれど」
王子は渋い顔をした。
「父上は言ってた。この銀の鎖は空の城の宝物。全ての魔力を封印し、そしてこれを切ることができるのは勇者の資格を持つ者のみ。……きっと、あの二人はそれに該当しなかったんだよ」
姫は可愛く笑う。
「勇者じゃなくて、勇者の資格っていうのがちょっと控えめっぽくていいよね」
その言葉を聞き、ナイトはふと顔を上げた。
そして記憶の底をたぐる。
「姫君、もう一度その足かせと鎖を見せてもらえますか?」
「いいよ。」
スカートをばっと持ち上げた姫に、スカイ王子が再び血相を変えた。
「だから、なんでそこまで持ち上げるんだよ」
「そこまで……って、別に膝より上に上げてるわけじゃなし」
「ふくらはぎ見せる女なんて下品だ」
「いいの、僕は男だから」
「じゃあ、そんなに色っぽくやるなよ」
「普通にやってるだけだって」
やりやっている二人をみながら、ナイトは眉間にしわを寄せた。
確かにこの真珠色の足かせは異様だった。
哀しい……とさっき思わず感想をもらしたが、そういうものを超えた禍々しさも強く感じられる。
(……こんなものを、本当に親が子供につけるのか?)
それはつなぎ目がなく、姫の足首に合わせたようにぴったりと吸い付いている。
(……いずれにしても、これを切るには、姫君を傷つけないでは無理だ)
次に彼は、その足かせがつけられている銀の鎖に目を移す。
鎖の一つ一つには、様々な呪術的な模様が彫られていて、一見して邪悪なものだと知れた。
しかし、現代にも伝わる様式であり、見覚えもある。
(……そうだ、これは)
幼い日に母から聞いた言葉を思い出す。
そして、祖父がいつも言っていた「勇者の資格」とは……
「あ、そうだ! 大事なこと忘れてたぜ」
突然、スカイ王子がナイトの方を向いた。
「あんたがほんとうに偉大な勇者様だとして、この足かせの鎖を切れるとしたら、それなりのお礼をしないといけない」
「そんなものはいらない」
「そうはいかない、姉う……じゃなかった兄貴、つまり空の城の第一王子の誇りにかけて、借りをつくるということはできないから。……だろ、兄貴?」
「対価は払うよ。僕のできる範囲でなら」
王子は我が意を得たとばかりに大きく頷く。
「何でもいいから、今のうちに欲しいものを言って。切ってから、俺たちがとても払えないほどの大金を請求されても困るし、先に契約しておかないと後でトラブルから」
「そんな必要はない」
少し王子が焦ったような顔をする。
「なんでもいいんだ。お金は20000Gまでなら払えるし、宝石類なら姉上……じゃなく兄貴はそこそこ持ってるし、何となれば兄貴に何でも一つだけ好きなことを命令できる権利が欲しいとかでもいいし」
ナイトは首を振る。
「この鎖の模様には見覚えがある」
「え?」
「母上が言っていた邪を邪で払うための文様。それを断つには一切の煩悩を無に帰さねばならないと。そうしてそれが、太古から伝えられる勇者の資格と合致する」
「……って?」
「無欲であれ」
スカイは突然蒼くなった。
「あ、ちょ、ちょっと待って、だから……」
ナイトは背中の剣から鞘を払い、振り上げる。
「御免っ!」
思いの外軽い感触で、サクリという音と共に足かせの際にあった鎖が切れた。
それは切り口から白い気体を発しながら、左右に落ちる。
「……なるほどね」
目もつぶらずに一部始終を見ていた姫君はわずかに笑う。
「今まで誰もこれを外せなかったのは、スカイが工作していたからなんだ」
「あ、違うんだ、姉上……じゃなかった兄貴」
「こないだ来てくれたマッチョな男は僕と一晩二人きりで過ごしたいって言ったし、その前の男は宝石を欲しがってたし……」
王女はひどく扇情的にすら思えるような目で弟を睨む。
「思えばぜーんぶ、スカイがそう仕向けてた」
「……あ、姉上」
「お前も僕が女のままで一生を送ればいいって思ってたんだ。そして僕に協力する振りして父上に荷担してたんだ」
王子はしばらく王女を見つめ、やがて開きなおったように横を向く。
「そうだよ、悪いか」
「……スカイ?」
「俺はそのまんまの姉上が好きだ」
必死な顔で王子は姫に向きなおる。
「今更男になった姉上と競争するより、姉上を守る側に立ちたい。俺がそう思うことの何が悪い?」
しかし王女は容赦なく、背伸びして自分よりも背の高い王子の頭にげんこつを落とす。
「全部悪いよ、馬鹿っ!」
そして左右の頬をつねる。
「痛ってえ~」
「痛いのは僕の心さ。信じてた弟に裏切られ、実の父には幽閉されて自由を奪われて」
「だからそれは姉上の身を案じてのことだって」
「余計なお世話さ。大事に守ってもらう代償に、本当の自分をなくしてしまうぐらいなら……」
王女は微笑み、人差し指を立てた。
「えっ? あ、それは……」
そして短い呪文を詠唱する。
「あ、姉う……あ」
突然がくんと王子は膝から崩れ、そして床に横たわった。
「!」
ナイトは目を見開いて王女を見る。
「それは……」
それは、有名な睡魔の呪文。
王女はちらりとまっぷたつになった銀の鎖に目をやった。
「これは僕をここに束縛するだけじゃなく、全ての魔力をも奪う。だから逃げだそうにも下級魔法一つ使えなくて」
すたすたと王女はドレッサーに向かい、そこにあった宝石箱を開けてたくさんの装飾品の中からたった一つだけを選んで胸につける。
そして、それを見ていたナイトに言い訳するように顔を赤らめた。
「他の宝石たちは全部父上が買ってくれたものだから家出に使うのは何か悪いけど、これは姉さんが、こんど生まれる僕に、って母上に渡したブローチだそうだから」
(……やっぱり家出するのか)
それにしても一切合切宝石箱ごと装飾品を持って出て、それを売って金に換えればさぞ楽な旅になるだろうに、なかなか律儀な性格らしい。
「とにかくスカイが目覚めるまでに出発しなきゃ」
そうは簡単にいくまい。
「この塔の衛兵は屈強そうでした。抜け出すのは至難の業かと」
王女は笑ってナイトの腕を掴む。
「いくよ」
詠唱が聞こえた途端、ふっと宙を浮くような感覚が来た。
「!」
ナイトは再び驚く。
目の前にはさっき登ったはずの塔がある。
話には聞いたことがあったが、実際に見るのは初めての、ダンジョン抜けの高等魔法。
「ありがと、君のことは忘れないよ」
言いながら、姫君はナイトに背を向けて城下町がある側とは反対にある門に向かって歩んでいく。
「って、姫! 一人でどこへ?」
しかも、そんな目立つ格好で。
「取りあえず、大地の城に行くつもりなんだけど」
「港は反対方向ですが」
「何言ってるの、船なんか乗ったらすぐ父上に告げられて捉まっちゃう。徒歩でここを出ないと脱出は無理だ」
「ご存じないのですか、結界の外は魔物がうろうろしています」
ナイトはさすがに慌てた。
「そんなところを若い女の身で、財布も持たずにたった一人で?」
「僕は男だ」
「まだ女性です」
ほのかに灯る松明の下、王女は片眉を上げた。
「だからって弱いとは限らない」
ダンジョンを瞬時に抜けるほどの技術があるのだ。
確かに相当強いのかもしれない……が、
「ハイヒールで山越えは無理です。それに、そんな目立つ格好で歩いていたら、魔物だけでなく追いはぎにもつけねらわれ、終いには売り飛ばされてしまいます」
「……目立つ?」
王女は繊細なレースで縁取られたロングドレスを少しつまんだ。
すると、散りばめられた透明の宝石が光を受けて星のようにきらきらと輝く。
「でも普通、女の子はみんなこんな格好だろう?」
「違います」
常識のなさに恐怖すら感じる。
スカイ王子があれほど止めようとした理由がおぼろげながらわかってきた。
「まあいい、ここから先のことは君には何の責任もないから。……じゃあね」
「あ、ちょっと」
ナイトは王女の肩をつかむ。
そうして思わず余計な一言を発してしまう。
「もし差し支えなければ俺がお供をつかまつります」
王女は胡散臭げに彼を見る。
「どうして?」
「……そ、それは」
心配だから、と言えば何となく拗ねそうな気がする。
「俺も一度、大地の城に行ってみたいと思っていたからです」
「ああ、そうなの」
警戒を解いたあどけない表情で王女は頷く。
万事がこんな調子なら、多分明日には悪い輩に騙されて奴隷市場行きだろう。
「だったら一緒に行こうか。僕も一人だと、ご飯食べるときやだなって思ってたんだ」
「……ご飯?」
「一人で食べるより、誰かと食べる方が美味しいから」
ふとナイトの心に同情の念が沸く。
「この四年間、ひょっとしてお一人でずっと食事を?」
「ううん、最低でも五人ぐらいで。父上も会議のない日は毎晩欠かさず来るし、スカイはご飯だけでなくおやつも大体一緒だったし」
「しかし、あの部屋で最低五人、ってどうやって食事をされていたのです?」
「隣にダイニングがあるから」
「しかし、足の鎖は……」
「あれって伸び縮みするし、必要とあらば壁も透過するんだ。だから塔の中ならどこでも好きなところに行けた」
姫は微笑む。
「でなきゃ、運動不足でぶくぶくになっちゃうよ」
あの大きな塔の中、どこでも行ける……
(……それは拘束とは言わんだろう)
せめて軟禁ぐらいの表現にして欲しかった。
「……どうしたの?」
「いえ」
これは任務だ。
姫の尊顔を仰ぎ、その悩みを解決すること。
かなり難易度の高い悩みではあったが……
「何してるの、ナイト、行くよ?」
「はい、姫」
すると、王女は嫌な顔をしてこちらを見た。
「姫はよしてよ。僕は王子だから」
「ではなんとお呼びしたらよろしいのですか?」
「そうだね、ソーラって名前は女の子っぽいから、ソラって呼んで」
「ソラ様」
「ソラでいいよ。それに敬語もやめてね。今からは旅の仲間なんだから」
愛らしい笑みに、ナイトはわずかにうろたえた。