彼 三
僕たちは、仙台市内の高校に通っている。彼女は、運動はできないけれど、日常生活を普通に送ることはできるようになっていた。中3になったころ、ずっと入院していた病院から退院したのだが、その日にもまだ言われていた。彼女には奇跡が起こったのだ、まさに奇跡の子ではないか、とか、君の愛が通じたんだなんて真顔で言う人すらいた。まあ奇跡的にかわいいことは確かだが、医学の信奉者であるはずの医師と看護師が、奇跡をもてはやすなんてのは、どうなのだろうかと思ってしまう。
しかし僕は先生や看護師から言われていた。今は良いように見えても、原因もわからずデータでは完治には程遠い。いつまた逆戻りするのか、時間がどのくらいあるのかは全く分からないということだった。
とはいえ、それからおよそ2年が経ったが今も彼女は元気だ。長時間歩き回らなければ、旅行だってできる。中3では修学旅行に行って、少しだけ観光することもできた。だが、あとどれくらいの猶予があるのか、僕にはわからない。きっと、彼女にも。
彼女と僕が、以前のように一緒にいるわけではないのは、高校生になったから、車いすを押す必要がなくなったから、というだけではない。
僕には、やらなくてはならないことがあった。誓いを守るため、今は元気な彼女を、このまま元気で暮らさせるためには、彼女の病気なのか、何なのかわからない原因を突き止めて、それを排除しなくてはならない。
原因が仮に未知の病気だとする。以前に比べれば断然元気になった彼女だが、検査ではやはり問題のある数値が出る。紹介状を書いてもらって、市内の大学病院や市民病院にも連れて行ってみた。しかし、一様に原因が分からない、今は小康状態なのだろう、引き続き主治医に見てもらった方がいい、といった非常に消極的なアドバイスがあるだけだった。さらに親切なことに、首都圏の有名病院に行ったところで、結果は同じだろう、と付け加えられてしまった。
では自分で医者になって原因を突き止めて治療する道はどうだろう。しかし、それは恐らく無理だろうと思った。僕は自分の血をみるだけで貧血になるし、保健体育の人体についての授業で吐き気をもよおしてしまうほどの虚弱体質だ。高校の生物では、解剖というやつがあったが、途中でリタイヤして早退した。
そもそも、医者になるのには時間も費用もかかりすぎる。血も人体の仕組みも克服して、時間と費用もクリアできたとして、病気の原因を突き止める研究ができる立場になるのに、さらにどのくらい時間が必要なのだろう。そしてその原因を突き止めて、治療法を見つけて、安全性を確認して・・・気が遠くなる。
仮に病気ではなく、何かの怪異だとしたらどうか。世界には、僕の知らない奇妙な出来事が、たくさんある、のかも知れない。自分で怪異を研究し、定義づけすることで、これを言わば退治することができないだろうか。
こういった類の話が、僕は嫌いではない。しかし、この場合でも、やはり時間が問題だろう。医者と同じく、自分で理解し、研究し、原因をみつけなくてはならない。いずれにしても、自分一人では10年単位で時間がかかることだろう。
僕は焦燥感に駆られ、努力の方向性を見つけられずにいた。とにかく彼女を守ると思って闇雲に行動できた日々を懐かしく、まぶしく思い出しながら、時間を浪費していた。
悩みが晴れないまま、梅雨が明けたある日、僕は彼女の通院に付き添った。今も月に1度は定期検査で病院に行っていて、そのほとんどに僕は付き添っている。昔面会に行っていたときは自転車で通っていたが、今は一緒にバスに乗っていく。
「近頃はあまり話し相手になってくれないな。わたしの世話に飽きたか。それともいい子でも見つかったか」
「そんなわけないよ。最近は自分で歩けるし、僕がいたって大した役に立ちはしないじゃないか。学校でも勘違いされるし」
彼女は、冗談めかして言っているが、内心は怒っているのかも知れない。もしくは、僕の悩みなどとっくに見透かしていて、でも結論を出せない優柔不断さを笑っているのか。
頼りになるところを見せたい。でも、今は何もできない自分が、努力する道すら分からない自分が情けなくて仕方ない。彼女だって、今からどうなるのか分からないという恐怖と戦っているんじゃないのか?なんでこんなに余裕があるのだ。
「勘違いだって?将来を誓い合ってる仲ってやつ?ふふふ。勘違いとも言えないのじゃない?まあうじうじ悩んでないで、わたしの話し相手もたまにはしてよ。この間見つかった超新星の話でもしようよ」
「うん・・・」
僕らって将来誓い合ったんだっけ・・・まあそれに近いことは近いのか。ズバッと言いたいことだけ言って、強引に自分のしたい話にしてしまうところは、全く変わっていない。外見は、幼さが抜けて大人びてきて、道を歩いていても、バスでもチラ見されているほどだけど、中身はあんまり変わらない彼女に、僕は却って焦燥感を強く覚えた。
相づちを打ちながら話を聞いていたら、バスが病院に着いた。
彼女は最初に問診を受けて、その後採血がある。そしていろいろな機械で検査を受けるのだ。以前は車いすを押して移動を手伝っていたけど、今はそれもなくて、うろうろ付いていくだけ。病院に着いたら暇を持て余すのが通常だった。
ぼーっと、彼女の採血が終わるのを待っているとき、子供のころ近所の小さな病院での出来事を思い出した。
今となっては大した話でもないが、僕は、子供のころは虚弱体質だった。しょっちゅう熱を出したり、体調不良を訴えたりしていた。それでたまに血液検査をしましょうということがあったが、僕の血管からは、採血がしにくかったらしい。受付のお姉さんは看護師じゃないらしく、先生が採血をするのだが、1回の採血で左右合わせて4回刺されたことがあった。
学校の健康診断なら、熟練のおばちゃん看護師が手際よく採っていく。そんな不祥事が起こったことはないので、子供ながらにひどい先生だと思った。とはいえ、今思えば、患者も検査なら検査機関に行ってしまって、開業医が自分で採血する機会は少ないのかも知れない。この病院でも、採血している看護師さんは上手そうだ。
自分でもできるけど、人にやらせる。医師は自分で採血することもできるが、看護師に任せた方が確実だし効率がいいから任せる。現代社会では、人それぞれ細分化された役割があって、それを全うすることで仕組みが回っていく。だから僕は血を見なくても肉を食べることができるし、今の制度なら兵役を務める必要もない。学校で教わることではないが、僕はそれくらいの知識はあった。
そうか、だから、僕も自分一人で、彼女の問題を解決しなくても良いのじゃないか。なぜ今まで気づかなかったのだろう。複数の専門家にお願いして、最短で結果が出るようにすれば・・・!なまじ自分で何とかできそうな気がしていたから、なかなかそういう発想にたどり着かなかったのだろうか。知識はあっても知恵はない、というのはこういうことか。
でもたかが高校生に過ぎない自分としては、他人に、彼女の問題を突き止め、解決してもらうという、その一般的ではない役割を全うしてもらうには、カネが必要だろうということも分かった。
僕の父親は普通のサラリーマン、母親は専業主婦で、いたって普通の家だ。彼女の家は、よく知らないが、中2までずっと個室に入院してことから考えて、たぶん金持ちなんだろう。でも彼女の問題をすべて解決できるほどではない、という理解で大きく外れてはいまい。
というわけで、カネを手に入れる方法を見つけなくては。そしてそういったことを実行してもらえそうな人も見つけていく必要がある。僕はやっと「道」を見つけたような気がしていた。
そんなことを考えていたら、彼女の検査は終わっていて、バスに乗ってまた市内に戻ってきた。すっかり暗くなった帰り道、少し先を歩いていた彼女が立ち止まり、向き直ってぼそりと言った。
「次の週末、星空を見に行かない?」
「ん、そうだね。天気も良いみたいだし、いいんじゃない」
彼女が、突然そんなことを言い出すのは、何でなのだろうと思った。仏頂面というのか、行きたそうな表情とも思えない。でも、僕は少し浮かれていた。
そして週末。
夕方になって、彼女の家に迎えに行った。本当なら車で迎えに行きたいところだけど、車どころか免許がまだ取れない。残念ながら自転車の二人乗りだ。最初に出会った森に行きたいけど、さすがの僕でも自転車二人乗りで行ける距離ではない。彼女も、後ろに乗っているだけといっても、自転車の二人乗りはそれなりに疲れる。
家の前で待っていると、彼女は白い七分袖のゆったり目のブラウスに、細身のGパンという姿で現れた。見慣れた制服に比べれば、新鮮と言えば新鮮、でももう少し可愛らしい格好の方が似あうのにな、などと妄想が広がる。しかし今時期、星を見ようと思えば虫も寄ってくるから、当然長ズボンでないと困るのだ。残念。
行先は、市内でも小高い土地に、造成中の住宅地。ポツポツ家はできているけど、まだ空いている土地が結構ある。そこからでも、満天の星とはいかないが、そこそこ星は見えるだろうと思い、食べ物や飲み物も買って、向かった。
彼女は黙っている。僕も時折彼女を気遣うだけで、無駄口を叩かず無心にペダルを漕いだ。昼間は暑くても、日が沈めば時に寒いくらいに涼しくなるのが、仙台の良いところだ。東京ではとてもこうはいかない。しかし自転車を漕ぎ続ければ、しかも上り坂である。さすがに汗が噴き出してきたが、汗だく手前で何とか目的地に到着した。
持ってきたシートを引いて、座る。日没は過ぎて、徐々に昏さを増していく空を、またまた黙ったまま見上げる。
「懐かしいね。初めて会った時も一緒に星空を見上げてた」
そうだったな・・・。満天の星空だった。君に星が降りかかるようだった。そして、君は星の光の中でも、光り輝いていたなあ。なんてことを思い出す。
「中学の時の、林間学校、覚えている?まだわたしは車いすだったけど。すごく楽しかったよ。君が学校に行くべきだって言ってくれたおかげ。そして夜には星も見て・・・」
そうだ、あの時も、星空だった。星の下で、誓いを新たにしたのだったな。あの日も彼女は美しかったなあ・・・。
「で、今日も。君がここに連れてきてくれた。市内だから、前より星は見えないけど、わたしは、星が見られてうれしいよ」
彼女は、そう言いながら僕の目を見つめた。僕も、彼女から目が離せなくなった。二人とも黙った。どこかで、虫が鳴いている。たまに少し遠くを車が通る。静寂ではないが、静かなまま二人だけの時間が過ぎていく。
あの日から、ずっと僕は夢を見ているのかも知れない。夢なんだから、ちょっとくらいやんちゃをしても大丈夫。そんなことが頭をよぎる。今度は僕が。ゆっくりと彼女に近づいていき、肩を抱く。彼女は、少しずつ目を閉じた。僕は、目を細めながらも、彼女を見失うまいと目を閉じず、もったいつけずに一気に。大人のキスは舌を入れるんだっていうから、勢いで。彼女は驚いたように目を開いたけど、そのまま受け入れてくれた。息が続かなくなるような、長いキス。
離れて、また見つめあう。僕は、少しニヤニヤしてしまう。彼女も笑顔だ。しかし唐突に、笑顔を少し強張らせ、言った。
「これまでありがとう。わたしは、もう大丈夫だから。これからは、一人でいられるよ」
声は聞こえているのに、途中から頭に入っていかない。能天気な頭のまま、素直に聞き返してしまう。
「え?『大丈夫』ってどういうこと?何を言って・・・?これから、ではないの」
「言葉の通りだよ。わたしは、君といることに飽いた。幸い無理しなければ自分で歩くこともできるし、普通の生活なら、今は困ることもない。だから」
だから、なんだよ。そんな顔をしながら、突然何を言ってるんだっ。
「嫌だ!飽きられたって呆れられたって、僕は君を守る。僕は誓いを捨てたりはしない。君だって・・・!」
彼女は僕に背を向けて、声を震わせながら言った。
「頑なだな。昔と変わらなくて、うれしいよ。でも、もういいんだ。君は、君の春秋を、わたしなどのために犠牲にすべきではない」
「そんな、僕は、君といたいからいるだけだ。本当は誓いなんてどうだっていい。君が大好きだから。最初からずっと好きだったから。これからも、一緒にいたいってだけなのに」
それが何で?何が起きたんだ。言葉にならない。
「もう一緒にはいられないよ。ゴメンね。今まで本当にありがとう。本当にわたしは・・・でもこのまま・・・では・・・」
気づくと彼女は少し遠くに立っている。そこからさらに彼女は遠ざかりながら、何かをつぶやいていたようでもあったが、僕には聞き取れなかった。
僕は、彼女を追おうとした。しかしできなかった。拒絶されたということだけはわかった。理由は全く分からなかったが、そのことが、僕をさらに打ちのめした。僕らは、心を通わせていたのではないのか?僕の誓いを、最初は消極的ながら、徐々に本気で、受け止めてくれたと信じていたのに。僕の、一方的な思い込みだったのだろうか。じゃあさっきのキスは、あの笑顔はいったい何だったんだ?
今走っていけば追いつけるはず。本当は走っていって抱きしめたい。それで元に戻れるんじゃないか。でも僕は、また拒絶されるのが、怖かった。本当は気づいていたのかも知れない。僕が彼女に会ったのは、単純に奇跡なのであって、必然でも運命でもない。見つけることはできても、触れることはできない、夜空の星と同じだ。そうだったなら、走っても追いつけやしないんだ、と、僕は自分に言い訳をした。
彼女が逃げたんじゃない。最後に逃げたのは、僕だった。
彼女の気配は消え、静かな虫の声と、僕の嗚咽だけが、この場に残された。




