彼 二
僕は、仙台市内の公立中学校に通っていた。小学生までは、東京都内の学校に通っていたが、父親の転勤で仙台に引っ越し、仙台の中学校に進学したというわけだ。知らない土地、新しい人間関係、最初はいろいろ苦労したけど、仙台は意外に暮らしやすい街で、今はいたって普通に暮らせている。
彼女はといえば、ずっと入院している。今まで一年ちょっと、一度も学校に姿を見せたことはない。驚くことに、僕と同学年だった。難病ということで、学校に来ていなくても、病院で試験を受けて、それで出席したことになるらしい。常時僕よりも点数は上のようだ。
まあ、僕は学校の勉強は、授業中にしかしないことにしているから、それも当然か。市外の、彼女が入院している病院に通うことを日課にしている僕は、体力だけは自信がある。何しろ自転車で片道1時間以上かかるし、途中には坂もある。彼女には相変わらずバカバカ言われているが、今日も僕は彼女の病室に行く。
病院に着くと、入口で面会カードに記入する。窓口のおじさんに首から下げるカードと交換してもらって、僕は入院病棟に向かった。いつもの階に上がり、病室の廊下に入る手前には、ナースステーションがあって、かるく挨拶する。
「お、フィアンセ君おはよう~」
「おはようございます~。今日の我が天使はどんな感じですか?」
「いつも通りよ~。待ってるんじゃない?」
ナースステーションには、僕が顔を知っている看護師も、そうでない看護師もいるが、僕のことはみんな知っている。毎日のように来てるから、そんなもんだろう。「フィアンセ君」などと言われるのにも、慣れてしまった。ちなみに夕方からのシフトの看護師も「おはようございます~」と入ってくる。業界人かよ、と突っ込みながらも、結局僕にもそれがうつって、普通にそう言うようになってしまった。
彼女の病室は、小児病棟というわけではなくて、一般病棟の一番端の、個室だ。中学生になるときに、今の個室に移ってから、部屋が変わったことはないらしい。個室は余計にお金がかかると聞いたことがあるが、彼女の家はどうやら裕福なようだ。
ともかく、個室を開けると、難しそうな本が置いてある。本棚はないから、小物入れに並んでいたり、箱に入っていたりするのだが、看護師さんが言うには、どの本がどこにあるのか正確に覚えているらしい。よくこれだけの本を読めるものだ。でも逆に言えば、彼女の世界はこの病院と、本の中がほぼ全てとも言える。
「おはよう!」彼女にもこの挨拶である。しかし、これには別の意味がある。初めて会った日、僕は夜なのにおはようと言ったのだ。それを彼女が覚えていて、からかうように言っているうちに、これまた定着してしまった。
「おはよう。いつもより、10分遅いな」
あまり良くない流れだ。別に時間を決めているわけではないし、いつも同じ時間に来ているわけではない。時間割もたまに臨時で変動するし、寄り道するときもあるから、10分くらいの前後は普通だろう。しかし彼女なりにルールがあるのか、遅いと言い出したときはたいてい機嫌が悪い。単に機嫌が悪いから、遅いと文句を言うのかもしれないが。
機嫌が悪いときは、口が極端に悪くなるだけで、早く帰れとか、僕につっかかったりするわけではない。かわいいからそれはそれでいいのだけど。
機嫌が良くても悪くても、彼女は読んだ本の話や、ネットで見たという様々な噂話に、自分なりの解釈を付け加えて一方的に話してくる。機嫌が良いときは純粋に楽しそうに肯定的な話を、機嫌が悪いときは口汚く否定的な話を。
しかし遅いという割には、なぜか機嫌が良さそうに話し始めた。
「今日は良い知らせがあるよ。今までは車いすで短時間散歩するのが限界だったが、学校に通うことができることになった」
「え、本当に!?」
「毎日ではないが、週に数回は通えるらしい」
今まで、看護師や先生を捕まえて、いくら病気のめどを聞いても、難しいとしか聞かされず、挙句、「フィアンセ君、君はほぼ唯一の友達なんだから、支えてあげてね」などと言われる始末だった。どんな病気なのか、どうすれば治るのか、治らなくても症状が緩和されて外出くらいできるようになるのか、全く教えてもらえなかった。僕としては、彼女はかなりの難病で、病院でも原因がはっきりしないから、このままずっと病室暮らしなのだと、勝手に思い込んでいた。なのに突然、学校に行けるだと・・・!
「自分で言うのも何だが、少し興奮している。君が何度か学校に行った方がいい、行くことができないのか、と言った時も、どうせ行けやしないし、無駄だとも言った。しかし本当に行けるなら、行ってみたい。学校生活というやつを送ってみたい」
「・・・」
「どうした、君が前に言ったことじゃないか。わたしとの学校生活、喜んでくれないのか」
彼女は僕がいなければ、いつも一人きりだった。病院の大人たちはいるし、普通の患者以上に関わってくれているようだが、友達ではない。学校の同級生も何人か見舞いに来たことがあるが、もともと小学校もほぼ通ってないみたいだから、仲の良い友達はいないし、本人の口もあまり良くないものだから会話も続かず、また市内からの遠さもあって、2回以上来て、友達になってくれる同級生はいなかった。ネット上ではつながりはあったみたいだけど、僕としてはやはり、学校での友達を作ってほしいと思っていたのだ。
「・・・」
しかし、突然こういう事態になってみると、釈然としないというか、もやもやしまくりである。何だよ、一体。ずっと病室暮らしじゃないのかよ。いられるだけ一緒にいようと思っていたのに。僕が好きでやってきたこととは言え・・・。
「ねえ、どうしたの?」
「・・・」
ひょっとしたら、これは彼女の最後のチャンスということなのか。回復の見込みはないが、今なら何とかひと時、無理させれば学校に行ける、だから、看護師も先生も何とか学校に行ったという経験をさせてあげたい、そういうことなのではないか。背筋が寒くなる。僕は、彼女を守らなくてはならないのに。こんなところで。
しかし、もしそうだとしたら、そんなことを彼女に気づかれてはならない。何とかごまかさなければならない。
「いや、あまりに突然でびっくりしたんだ。でも、僕だけのかわいい天使が、学校に行ったらモテモテで、僕なんか忘れられちゃうんだろうな、という心配を本気でしてた」
「バ、バカ。厨二病!今時モテモテって・・・。だいたいそんなことがあるわけないだろう!」
あの日のように、彼女は上気した顔を僕に向け、語気荒く言い募る。白い顔、肩より長い髪、切れ長の瞳に通った鼻筋、小さな唇、病院の中だというのに、急に光が輝くように見えた。ああ。彼女のこの顔を見ると、僕は神の存在を強く意識する。僕だけの神。などと妄想に脱線しようとしたとき、落ち着いてきた彼女がカウンターを決めてくる。
「とか言って、わたしがもう死ぬと思ってるんでしょ?」
「う、いやいや。そんなこと。それこそ、あるわけ、ないだろ・・・」すぐにうろたえてしまう僕。弱い。
「いや、実際そうなのかな。最近妙に身体が軽いんだよね。調子が良すぎというのか。最後の命の炎みたいなさ、そんな感じなのかもねー」
「え、縁起でもないこと言うな!なんでそんなこと、簡単に言えるんだよ!」
さらにうろたえる僕に、ニヤニヤした顔で彼女が言う。
「まあまあ落ち着きなよ。今のは軽い冗談じゃない。そんな本気にならないでよ。本当に、体調がいいんだよ」
よく考えれば、僕なんかよりずっと察しが良くて、頭もいい彼女が、「そういう」可能性に気づいていない方が不自然だ。本当かわからないけど、今は体調が良いという彼女を信じるしかない。
「ところで、学校にはここから送迎してもらえるんだけどね。学校の中では、君が面倒を見てくれるんだろう?」
「もちろん!」
「わたしは歩くことができない。厳密には、1日学校生活ができるほどには、だが。だから基本的には車いすが必要だし、誰かの介助がないと、トイレにも行けない」
「車いす押すのは全然いいけど、トイレはダメだろ・・・」
そんなことで、僕らの学校生活が始まったのだった。とはいえ、彼女は最初の興奮はどこへやら、始終つまらなそうな顔で、時たま毒舌。もうちょっとなじんで、普通の生活を少しでも送ってほしいのだけど・・・。僕と話していることがほとんどだった。そんな僕ら二人に、なんとなく周囲も遠慮がちだった。でも無視されるわけでもないし、いじめがあるわけでもないので、僕としては本当にありがたかった。
中二の夏、林間学校があった。もちろん、彼女はオリエンテーリングや川遊びだの、野外での調理なんてできるわけがない。でも一緒に行くことだけはできて、飯盒で炊いたご飯も少しだけ食べることができた。
最初はつまらなそうな顔だった彼女も、同級生とバカ話したり、おどけて川に落ちる同級生がいたり、時折は笑顔を見せることがあった。僕が願っていたような「普通の中学生」の体験ができて、笑顔を見せてくれたことに、感動して、思わず涙ぐんでしまったのは秘密だ。自分で「お前は母親か?」と突っ込みを入れてしまうほどだ。
夜になって、星の観察があった。幸いにも晴天で、夜になったらさぞ良く星が見えるだろう。僕は、星空と言えばやはりあの日のことを思い出していた。最初に彼女に出会った日。不思議な体験ではあったが、神の奇跡を信じたくなるような、特別なことが何かあったわけではない。しかしそこから僕の想いが始まったのだから、やはり奇跡だったのだろう。
夕方、屋内で一度講義があって、その後実際の星空を眺めながら、一通り先生からの講義があった。星に詳しい彼女は退屈していただろうが、その時間は終わって、同級生達はそれぞれ少しずつ散っていき、星空を眺めながら、思い思いに話をしているようだ。時折抑えた笑い声が上がったりするが、静かなものだ。
僕らは二人で、みんなから少し離れたところにいた。彼女は車いすで、僕は持ってきた折り畳みいすに腰をかけた。当たり前だが辺りは暗くて、改めて夜空を見上げれば、星が降るようだ。星のあかりにうっすらと浮き上がる彼女の白い顔を、長い髪を、切れ長の瞳に通った鼻筋を、そして小さな唇を、僕はあの日と同じように眺めていた。彼女も、あの日のことを思い出しているのだろうか。彼女は星から目を外し、僕の目を見た。
「星が綺麗だね」
「そうだね。あのときみたいに」
「分かってる?星が綺麗だねって言うのは、『あなたは私の気持ちに気づいていないでしょうね』っていう意味なんだよ」
「?」
「わたしは、あの日君に会わなかったら、今ここにはいないだろう。君には本当に感謝している。ありがとう。」
僕は驚いて彼女を見つめた。あの日会わなかったら、という仮定は何だろう。会わなかったら、死んでいたとでも言うのか。
そして、彼女に感謝されるなんて。あの日からこれまで、僕も彼女も、今の関係が当然のように振る舞ってきた。僕は誓いを立て、彼女はそれを受け入れた。まあ、そう思っているのは僕だけなのかも知れないが・・・。そしてこの関係は、「感謝」を生み出す関係ではないと、僕は思っていた。
次に彼女は、さらに何かを言おうとしたように、かがんだので、僕は首をかしげる格好となり、彼女に耳を近づけた。彼女の顔がゆっくり、近づいてくる。
「こっちを、向いて」
ささやくように彼女が言う。素直に向き直った僕に、静かに、ゆっくりと、彼女はさらに顔を近づけてくる。あ、ああ、これは、と思う間もなく。僕の唇にキスをした。そっと触れて、そっと離れた。




