5話
帝国からの使者が立ち去って、お兄様も無事新たな王として即位した。若き王は前代の王よりはやや威厳に欠けるものの、その分親しみやすく優しい佇まいだと皆が褒めそやし、城もようやく活気を取り戻した。
冷たい冬が終わり、暖かな春の日差しに満ちる中、皆が希望に満ちていた。森に囲まれた小さな国に新しい時代が来る。いままで多くの恵みを与えてくれた森以上に、若き王の導きの下、帝国がすばらしいものをもたらしてくれるのだ。
そのためには、まず、王女が森の花嫁となる人身御供のような忌まわしき、古き習慣は捨て去らなくてはならない。
国王となったお兄様はまず、重臣たちの説得を試みた。
亡き父もそれが王族に生まれた務めとはいえ、娘を森に差し出すことにとても心を痛めていた。そんな悪習を廃してこそ、帝国の信頼を勝ち取ることができる。帝国の庇護の下、新たな時代を作っていくことが自分たちの使命であり、亡き王の真の望みをかなえることにもなるだろう。
帝国の使者からの甘言に揺らぐことのなかった重臣たちさえお兄様の笑顔と優しい説得には勝てなかった。
お兄様の評判を聞けば聞くほど、わたしの気持ちは重く沈み込んでいく。
――ああ、お兄様は微笑みながら、国ごとすべて、だますつもりなのだ。
「皆の説得がようやく終わってね。これでお前を安心して帝国にやることができる。お前は帝国の第三皇子、セドリック殿下の花嫁となるんだよ」
お兄様はわたしの注いだ紅茶をおいしそうに飲んでいる。久々の二人きりの時間にお兄様も寛いでいるようだった。
うなずきながら、わたしも熱い紅茶を口にする。
味なんて、わからない。
お兄様といるときは、いつだって、何だっておいしく感じていたのに。
「早ければ三日後にはこちらを発つことになるだろうね。こんなに忙しないことになるとは思わなかったけれど、皇子殿下は一刻も早くお前を手元に欲しいそうだ。ずいぶんとお前をお気に召されたようだね。さすがは私の妹だと言ったところかな」
「それは光栄なことだわ」
わたしは紅茶を飲みながら考える。
お兄様を言い負かすことなんてできるだろうか。何を言い返してもお兄様は森の花嫁なんて迷信なのだと言ってのけるだろう。
でも、わたしは知っている。
森が花嫁を求めるのは迷信ではないこと。それをお兄様も承知していること。
「お兄様。最後に一つだけお願いがあるの。聞いていただけるかしら」
「何だい。姫」
お兄様に紅茶のお代わりを注いでから、自分の分も注ぐ。
「森の花嫁となることが迷信だと言うのなら、わたしが帝国へ行くのはお日様が隠れる日まで待っていただきたいの。もしもわたしがいなくなった後にそれが起これば、皆も怖がって、不安になってしまうでしょう。すべてが終わった後なら、皆も安心してわたしを送り出してくれると思うのよ」
「それはだめだよ。姫。あまり殿下をお待たせするわけにはいかないからね。実を言うと、皇子殿下はこの国を立ち去る日にお前を無理にでも連れて行きたがっていらしたんだが、それをどうしてもと頼み込んでどうにか待っていただいていたんだよ。これ以上、殿下や帝国の恨みを買いたくないんだ」
「あら、お兄様。お日様が隠れるのは二十日後なのよ。いままで待ってくださったのなら、三日後も二十日後もたいして違いはないでしょう。なぜ、わたしはそんなに急いでここから出て行かなければならないの」
わたしは静かに言って、目を伏せる。
「ねえ、お兄様。わたし、知っているのよ。亡き陛下にすべて聞いたのだから。この国の王族はすべてこの話を口伝えに聞くそうね」
あの体が冷え切っていくような、亡き国王陛下との最後のお茶会を思い出す。
「この森は古くは人を寄せ付けぬ、強大な力を秘めた魔の森だった」
わたしは記憶をたどりながら、語り始めた。
――日の光さえ届かぬような真っ暗な森に立ち入ったのは初代の王だった。その大いなる力に目をつけて自分の物にしようと思いあがった王は、卑小なる人の身では到底抑えきれぬ力を目の前にして逃げ出してしまう。
だが、膨大な力を持て余していた森は、野心に満ちたその王を森に取り込むことにした。王を森の一部とし、人の意志を理解した森は、その力でもって、たくさんの人を集めて国を造ることにした。だが、人というものは弱い存在である。いくら森に取り込まれて、人の身を捨てたとはいえ、人の寿命を超えるほどに長い月日が流れては、その意志すらも形をなくして消え去ってしまう。
森はだんだんと人の意志が薄れて、ただの力の集まりに戻りつつあることを恐れていた。だから、その代の王に呼びかけた。森の加護を必要とするのなら、この国の存続を願うのなら、ふたたび王家の者を森に差しだせと。日が隠れるのは、最後に捧げられた者の意志が薄れて、森そのものの力が強まった証だ。そのとき、王家の者を差し出して、森の中に意識を溶け込ませるのだ。
わたしはゆっくりと語り終えて、紅茶を飲む。
「私も幼い頃に父から聞いたが、まさかもう一度聞くとは思わなかったよ。よくできたおとぎ話だね。森に人としての意識があるなんて、ずいぶんと気味の悪い話だが」
「おとぎ話ではないのよ、お兄様。占術師によれば、あと二十日後にはお日様が隠れるのでしょう。森は花嫁を欲しているわ。お兄様。わたしは直系の娘ではないけれど、傍流とはいえ、王家の血を引いているのよ。だから、遠縁のわたしが引き取られて、森の花嫁と定められたのだもの。正妃様が亡くなられた後、陛下はどうしても他の御方を娶る気になれなかったそうね。だから、お兄様以外の御子を授かることができなかった。それなのに、黒髪と緑の瞳を持ったわたしを見つけることができたのは、これぞ歴代の王たちの、森の采配だと、奇跡だと――」
お兄様の顔色を見て、わたしは口を閉じる。
「あの人は」
お兄様は真っ青な顔で、何かをこらえるように拳を握る。
「――あの人は、本当に。最後の最後まで、お前に、なんて、ひどいことを」
「そんなことはないわ。お兄様。陛下は、とてもお優しい方なのよ」
「優しい? お前に犠牲を強いるあの人が?」
お兄様は強張った笑みを浮かべて立ち上がる。
「だって、陛下はずっとお兄様のことを心配していらしたもの。このままでは、お兄様が森の花嫁になってしまうだろうと。森の花嫁となるはずのわたしに最高の教育を与えたのは、最初からわたしをどこか遠くの国に嫁がせるためにしていたのではないかと。近ごろは他国を回って、わたしを嫁がせるにふさわしい国を探しているとおっしゃっていたわ」
口にしながら、わたしの体は冷たくなっていく。
恐ろしいのは森に身を捧げることではない。
真に恐ろしいのは、お兄様がいなくなること。お兄様から――離れてしまうこと。
「姫。私の小さな姫君」
お兄様がわたしの前に立ち、手を伸べる。
「そんなの当たり前じゃないか。かわいい、かわいい妹を、人身御供にする非道な兄がどこにいる。お前がわたしの妹となってくれたその日から、こうするのだと決めていたんだよ」
差しだされたその手を取らないまま、お兄様を見上げる。
「けれど、お兄様はこの国の王様なのよ。王様が森に行ってしまったら、この国はどうなるの? 民はどうなるの?」
「私がいなくなっても、誰かが王位を継ぐだろう。それこそ、直系でなくとも王家の血を引くものなどいくらでもいる。王位を継ぐのは誰でもいいんだ。だが、森に向かうのは直系の王家の者でなくては務まらない。父上も本当はわかっていたはずだったんだ。それなのに、私以外の子を得ようとせず、お前を森にやろうとしたのだから、これほどひどい話があるものか」
「いいえ。陛下はそれだけ、お兄様を思っていらしたのよ」
「――お前はとても優しい子だね」
お兄様はわたしの前に跪く。
「姫。たとえ、日が隠れる二十日を待って、お前が森の花嫁となろうとも直系の血を引かないお前では意味がない。お前は無駄に犠牲になるだけだ」
「やってみなければわからないわ。陛下も過去の文献に森の花嫁は必ずしも直系の娘ではなかったと書かれていたとおっしゃっていたもの。わたしだって、十分に役目を務めることができるはずよ」
「直系ではなくとも、王家に近しい者だったことは確かだ。お前は王家の血を引くと言ってもあまりにも遠縁すぎる。仮にお前がその身を捨てたとしても、決して森の闇は晴れることもなく、結局、私が森に赴くことになるだろう」
「それでも、わたしは森に行くわ。だって、お兄様と一緒にいられるのでしょう?」
「何を言う。お前は王女なんだよ。小さな姫。王女としての責務を軽々しく放り出してはいけないよ」
お兄様は静かに言って、わたしを見据える。
「私が森の花嫁となり、直系の私が失われてしまえば、いずれ、この国は森に飲み込まれてしまうだろう。そのときのために帝国の庇護が必要なんだ。だから、お前には帝国に行ってほしい。皇子殿下の寵を得て、この国を守ってほしいんだ。――これがこの国の王となった私が下した決断だ。何もお前のためだけではない。すべてはこの国のためなんだよ」
お兄様は決して目をそらさなかった。だから、それが嘘ではないこともよくわかった。
「姫。お前は、私が好きかい?」
ささやくように問われて、わたしはうなずく。
「ええ。好きだわ」
「いつか、お前が森の花嫁となるために、いくつかの決まり事を作ったね。できるだけ好きなものを作ってはいけないと教えたことを覚えているかい?」
「ええ。覚えているわ。だから、わたし、お兄様のことだけ、好きでいたのよ」
「そうだね。お前は私をとても好いてくれた。それなら、その私さえ消えてしまえば、こんな国に心残りもなくなるだろう? あとは、遠い帝国で好きなだけ、好きな人や好きなものを見つければいい」
「何を言っているの。そんなの無理だわ。お兄様」
「いいや、できるよ。だって、皇子殿下にお前も感情を見せていたじゃないか。お前が誰かに怒りをあらわにすることなんて、いままでなかっただろう? これからは、皇子殿下だけではない。お前の好きだと思う者たちに、好きに怒ったり、笑ったりすればいい。でも、そうだね。どうしても、無理だと思うなら、好きだという振りでもいい。好きな振りをして、そう振る舞っていれば、それがいつか真実となる。――そうだな。ごっこ遊びのようなものだよ」
お兄様は優しく微笑む。
――初めて会ったときと同じように。
『自分のことを最初は王女様だと思えなくても、王女様の振りをしてみたらどうかな。ごっこ遊びのようなものだよ』
泣き出しそうなわたしに、そう笑いかけてくれたあのときのまま。
「お前はごっこ遊びが得意だった。ごっこ遊びを続けたおかげで、いまでは誰もが疑わない、本物の王女様だ。私のかわいい妹にもなってくれた。だから、今度は幸せな花嫁となるんだ。森の花嫁ではない。本物の花嫁になるんだよ。最初はそう思えなくてもいい。振りだけでもいい。そう思って振る舞っていれば、いつか、必ず幸せな花嫁となれる。小さな姫。お前には生きてほしい。幸せな花嫁となってほしいんだ」
「それで、わたしは幸せな花嫁となって――お兄様は、死ぬの?」
「いいや。死ぬんじゃないよ。この身を捨てて、森の一部となるだけだ。それはとても幸せなことなんだよ」
「いいえ。幸せなことではないわ!」
わたしは悲鳴のように声を上げる。
「悲しいことだわ! 生きていられないことはとても悲しいことなのよ!」
「そうだね。小さな姫君。愛する人が命を奪われることは、人として生きていられないことは、とても悲しいことだ。それなら、その悲しみを、痛みを私に与えないでくれないか。お前を失わずにすむのなら、私はこの身を捨てることなど少しも苦痛ではないんだよ」
「――いやよ。お兄様!」
わたしは幼い子どものように首を振る。勢いよく首を振ったせいで、こらえていた涙がぼろぼろとこぼれた。
「わたし、帝国になんて行かないわ。お兄様。森の花嫁にはわたしがなるのよ。だって、本当に森に行ってみなければわからないじゃない。森だってわたしでいいって言ってくれるかもしれないでしょう?」
なだめるように抱き寄せられて、何度も優しく髪をなでられる。
「私の大切な小さな姫君。これが、私の最後の願いだ。お前には帝国で幸せな花嫁になってほしい。それが、私のただ一つの願いなんだよ」
「いや! いやよ! お兄様!」
何度髪をなでられても、わたしは癇癪を起した幼い子どものようにいやだと繰り返した。
「さあ、そろそろ行かなければ。お前の苦しみも悲しみもすべてここに置いておいで。お前は楽しいことだけ考えて、幸せな花嫁となるんだ。お前が本当に私を好きだと思ってくれているのなら、どうか、私の願いを叶えてくれないか」
――本当に好きだと思ってくれているのなら。
髪をなでていた優しい手が離れるのを感じて、わたしはようやく口を開いた。
「わかったわ。お兄様」
だって、わたし、お兄様が好きだもの。本当に本当に好きだもの。
「わたし――お兄様の言う通りにするわ」
これ以上、お兄様を困らせるわけにはいかなかった。
わたしはどうしてもお兄様には逆らえない。お兄様の望みなら、どんなことでも叶えるしかないのだ。
「よく言ってくれたね。ありがとう。姫」
お兄様は微笑んで立ち上がる。
「それでは、失礼するよ。小さな姫。王様になるというのも厄介なものだね。仕事が山積みなんだ。肩が凝って仕方ないよ」
冗談めかして言いながら、背を向けるお兄様の上着の袖を思わずつかんだ。
「待って、お兄様。お兄様の願いはわかったわ。でも、ラウルは?」
お兄様が振り返る。
「ラウルの望みは?」
深い緑の瞳でわたしを見て、見続けて、ほとんどにらむようにわたしを見て――それから目をそらした。
「――ラウルなんて、いない。もう、どこにもいないんだよ。姫」
お兄様はわたしの手を取って、袖から引き離した。
「忘れたのかい、姫。お前がそう望んだんだろう?」
――いつまでもわたしのお兄様でいてくださるわね
お兄様の言う通りだ。わたしがそれを願ったのだ。だから、ラウルはいなくなって、お兄様は離れていく。
わたしから、離れていく。
帝国へ嫁ぐ日まで、せめて、住み慣れた北の離宮で過ごしたいとわたしは願い、室内で過ごすことを条件にそれは許された。その代わり、お兄様に会うことはできなかった。お兄様がわたしの下を訪れてくれることはなく、多忙を理由にこちらから会いに行くことも許されなかった。どんなに願ってもだめだった。
だから、わたしは森の間でひとり過ごした。
森を模した部屋の中で、わたしは森を眺めながら踊り続ける。
よく晴れた青空の下、森は深く暗い緑に見えた。空にはお日様を隠すような雲一つすらない。当たり前だ。日が隠れるのは二十日後なのだから。
明日の朝には帝国へと発つだろう。そうして、わたしはこの森から、お兄様から離れて生きるのだ。
ああ――森が遠い。どうして、あんなに遠くにあるのだろう。外に出ることさえできたなら、日が隠れる前だって駆け出しただろう。
森に一歩でも足を踏み入れれば、わたしが森の花嫁となれたかもしれないのに。
そんなことを考えてはひとり首を振る。
それはお兄様の望みではない。お兄様はわたしが帝国へ行って、幸せな花嫁となることを望んだのだ。お兄様のためにも、国のためにも、わたしは森を忘れて生きていかなければならない。
わたしがステップの足を止めると、森はざわめいたようだった。まるで、わたしが踊ることを促しているように見えて、微笑みながらまた踊り出す。
遠くから森が見ている。
踊るわたしを見ている。
けれど、本当に森は遠いのだろうか。
かつて、この国はすべて緑の中にあった。深い森の中にあったのだ。それなら、わたしがいるこの離宮も、この部屋だって、森につながっているのではないか。
すべて、森の中にあるのなら、わたしはこのままで森の花嫁となれるはずなのだ。
わたしは踊るのをやめて、窓辺に近づく。
お兄様は気づいていない。
わたしは思わず微笑んだ。
気づいているのは――わたしだけだ。
「わたし、森の花嫁になるわ」
最初から、日が隠れるのを待つ必要なんてなかったのだ。ダンスに誘うように手を伸べると、森が答えるようにざわめいた。
不意に雲が差したように空が暗くなった。
雲一つない空に浮かんだお日様が消え始める。青空が色彩を失い始める頃、誰かの悲鳴が聞こえた。
わたしは部屋を飛び出して、走り出す。女官の止める声がしたし、衛士がわたしの腕をつかんだ。けれど、わたしの足は止まらない。
彼らはわたしを捕まえようとするたびに、力を失ったように立ち尽くす。
室内履きのまま庭に飛び出した。
日の光はすべて失われ、空が灰色から闇色へと変わっていく。
ああ、ようやく、森の花嫁となる日が来たのだ。あの暗い緑の中に溶け込んで、わたしは永遠にお兄様の側で生きるのだ。
「姫!」
どこからかお兄様の声が聞こえる。
「だめだ、姫、行くな! 行ってはいけない! 行くんじゃない!」
それでもわたしの足は止まらない。
――お兄様に逆らって。お兄様の言うことを聞かないで。
お兄様の心を痛めて、お兄様を悲しませながら、どうしてわたしは笑っているのだろう。
「――エミリア!」
悲鳴のように名前を呼ばれて、ようやくわたしは振り返る。黒髪を乱して、助けを求めるように手を伸ばしたまま、お兄様は立ち尽くしている。
「わたし、森の花嫁になるわ。さようなら、ラウルお兄様」
お兄様へ笑顔を向けると、わたしは森へと走り出す。
やがて空が真っ暗になるころに、わたしは森の小道へとたどりついた。
森はわたしを迎えて、閉じてしまった。
そうして、日の光も届かない森の中をわたしはひとり歩き始める。