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森の花嫁  作者: 枳殻
最後の花嫁
4/7

3話

 過ぎていく日々はわたしの背を伸ばし、癖のある黒髪は飛び跳ねながらも豊かに波打つようになった。


 やがてわたしは髪を結い上げることを許される十五歳になった。


 森の花嫁となる年になっても、日々は変わらなかった。唯一変わったことがあるとすれば、流したままだった黒髪を毎朝女官が結い上げるだけである。慣れない髪型に落ち着かない気分を味わいながらも、わたしは森の側の離宮で勉強に励み、森の間や森の側でひとり踊った。


 王太子たるお兄様はますます忙しくなり、わたしの下を訪れることは少なくなった。ラウルに最後に会ったのは、わたしが十五歳になったばかりの頃、お祝いを言いに訪れてくれた、そのときだけ。


 思い出して、唇にそっと指を当ててみる。きっと、もう彼に会うことはないだろう。


 どうしようもなく寂しくなれば、わたしは目を閉じる。たとえ一緒にいたって、目を閉じてしまえば同じことだ。もう一度目を開けたとき、本当にそこにいてくれるかどうかはわからない。それなら、目を閉じているときはいつだって、ラウルやお兄様がわたしの側にいてくれるのだと思えばいい。


 幼かったあの頃とは違う。もうわたしはひとりきりではないのだ。それに、この寂しさだって、降り積もった雪と共にいずれ消えてなくなるだろう。長く冷たい冬が終われば、わたしは森の花嫁となるのだから。


 わたしはそれを疑いもしなかったのに、凍えるような冬のある日、国王陛下が離宮にやってきた。


 人払いをされた離宮の一室で国王陛下と二人きりで飲んだ熱い紅茶はその香りや味を楽しむためではなく、のどを潤すためだけにあった。大好きな木の実入りのクッキーだって、手に取ることすらできなかった。


 国王陛下もまた、並べられた焼き菓子に手をつけようともせず、少し紅茶を飲んだだけだった。静かに語り続けた後、わたしがうなずき、深く頭を下げるのを見て満足げに微笑んだ。


 国王陛下が立ち去った後も、ただ、呆然と座り込むわたしを女官が心配したのかもしれない。


 夜の中、息せき切ってお兄様が現れた。女官と押し問答をする声が聞こえて、何事かとわたしは寝間着にショールを羽織って顔を出す。


 こんな姿のお兄様を見るのは初めてだった。常にきちんと結われているはずの黒髪は乱れて頬にかかっているし、表情は強張っている。


「何かあったの。お兄様。あの、もしかして、国王陛下に、何か――」

 血の気を引くのを感じて、わたしは口元に手を当てる。

「いや、いいや。違うんだ。父上には何もないよ。何もない」

「それなら、お兄様。どうかなさったの? 何か困ったことでもあったのかしら」

 わたしは女官にお茶を命じて、お兄様に椅子を勧める。

「いいや。ただ、お前に会いたかっただけだ。すまなかったね。こんな時間に」

「お兄様が来てくださるのならいつだってうれしいわ。わたしは、その、こんな格好で申し訳ないけれど」

 いまさらながらに落ち着かない気分になり、わたしは編んだ髪を整えてショールを巻きつける。

「ああ、用がすめばすぐに帰る。心配いらないよ」

 女官がお茶の支度をすると、お兄様は下がるように合図した。

「眠っていたのかい?」

「いいえ。本を読んでいたの。眠る前にきれいな物語を読むと、とても良い夢が見られるから」

「そうだね。それは良い習慣だ。眠るのは恐ろしいことだからね」

「あら、どうして?」

「眠れば時間があっという間に流れてしまう。明日がやってくると思うと、時として恐ろしくなるよ」

「きっと、お疲れになっているのね。お兄様。国王陛下から伺ったけれど、今日も隣国に行って来られたのでしょう?」

「ああ。そうだよ。城の側にそれはうつくしい湖のある国でね。お前にも見せてやりたかった」

「まあ、どんな風景なのかしら?」

「目を閉じてごらん」

 お兄様の言うままに、わたしは目を閉じる。

「裏庭に池があるだろう。まずはそれを思い浮かべて――そうだな。それから、庭いっぱいに広げてごらん」

「水面はきらきらしているのでしょうね。きっと、まぶしいくらいだわ」

「ああ。そうだよ。打ち寄せる波はお前の真っ白なドレスのレースのように、白い泡が重なっては消えていく。波はわかるかな。風が吹くと、池の表面がさざ波が立つんだが、大きな湖だとそれが自然に起こるんだよ」

 わたしは思わず微笑んだ。

「何だか本を読むよりも、お兄様のお話を聞いている方がよく眠れるようだわ」

「そうだね。お前が望むのなら、夜ごと物語を語ることにしようか。お前がいつでも良い夢が見られるように」

 わたしは目を開ける。紅茶は二つとも、手をつけられないまま、冷めていく。

「それで、お兄様。わたしに何をお聞きになりたいの?」

「父上がこちらに来られたそうだね」

「ええ。お茶を飲みにいらしたの。森の間と迷ったのだけれど、特別なときに使う居間にお通ししたわ」

「どんな話をしたんだい?」

「お体の具合がよろしくないと伺ったわ。――来年まで、生きられるかどうかわからないって。だから、いままで会いに来られなかったけれど、これからは、もっとわたしに会いに来てくださるって――」

「それだけかい?」

 お兄様がわたしを見据える。

「ええ。それだけよ」


 わたしは平然とうなずいて見せたが、お兄様は苦い笑みを浮かべる。

 きっと、嘘だとわかったのだろう。お兄様には決して嘘はつけない。


「――まったく、本当に、あの人は」

 苦い笑みが歪んだものに変わった途端、お兄様は拳でテーブルを激しく叩いた。

「いまさら何を言っているんだ。いまさら!」

 もう一度、激しく叩く。紅茶が勢いよく跳ねて、真っ白なテーブルクロスに染みができる。

「何のつもりで! お前に! これ以上余計なものを背負わせるんだ!」

「やめて、お兄様。そんなことをしたら、手を痛めてしまうわ」

 それでも叩きつける手を止めないお兄様に驚いて、わたしは立ち上がる。


 お兄様の腕に手をかけると、ようやくその手が止まった。


「お兄様が怒ってくださる必要はないのよ。国王陛下はわたしのような者にわざわざ頭を下げて、謝ってくださったのだから」

「わたしのような者? お前は何を言っている。お前は私の大切な妹だ。卑下する必要など、どこにある。だいたい、あの人がお前に何を謝るというんだ」

 お兄様は立ち上がる。

「あの人はお前に謝る権利すらないだろう? お前にこれだけの役目を負わせて、さんざん放っておいたあげく、自分の死期を悟った途端に懺悔だと!? 許されるとでも思っているのか!? しかも私がいないときに! 私がいないときを狙って! お前に! お前に会って話すだと!? どの面提げて、そんな恥知らずなことができるんだ!」

「お兄様! もう、やめて! お兄様!」


 わたしが落ち着かせるようにお兄様の両手を取ると、お兄様は泣き出しそうな顔でわたしを見下ろす。


 同じ色の瞳。わたしの瞳も緑色だけれど、お兄様の方がもっと深い。

 同じ色の髪。わたしの髪は癖があるけれど、お兄様の髪はさらさらと流れている。

 顔立ちだってまるで違う。


 それなのに、わたしたちはお互いが考えていることがわかる。――わかってしまう。


 本当の――きょうだいではないのに。


「もういいのよ。悲しまないで、お兄様。国王陛下はこれからはご自分のことを父と呼ぶようにおっしゃってくださったわ。それに、もったいなくも、わたしに申し訳ないことをしたと謝ってくださったの。わたしが森の花嫁となるのは、何も国王陛下がお一人が決められたことではないのでしょう? ずっと昔からの習わしで、お日様が隠されるたびに繰り返されてきた決まりごとなんだもの。お父様を責めたって仕方ないわ。わたしが行かなくたって、だれかが行かなくてはならないのだもの」

「それなら、姫。私を責めてくれ。私を恨んでくれ。私を――」


 お兄様は手を伸ばして、わたしの頬に触れる。その指が頬をたどり、唇をたどって止まる。


「お兄様」


 指がゆっくりと唇をたどるのを止めようとわたしは言う。


「お兄様はわたしの大切なお兄様だわ。だから、わたし、お兄様を責めたりも恨んだりもしないわ。国王陛下のこともよ。だって、わたしが森の花嫁に選ばれなければ、こうしてお兄様のお側にいられることもなかったでしょう。いくら王家の血を引く血筋だと言っても、貴族とは名ばかりの家に生まれたのだもの。この髪と目の色が違っていたら、それでも選んでもらえなかったかもしれないわ」


 話していても指は止まらない。わたしを眺めながら、指はわたしの頬をすべり、唇をたどり続ける。


「姫。私の、いとしい小さな姫君」

 低い声がわたしを促してもわたしは目を伏せたままだった。


 手が伸びてきて、引き寄せられる。――抱きしめられる。


 かすれた声がわたしの名を呼ぶ。


――ああ、わたしの名前を呼んでいいのはラウルだけなのに。どうしてお兄様がわたしの名を口にするのだろう。


 請うように、祈るように、何度も、何度も。


 それなら、ここにいるのはお兄様ではないのだ。


 わたしの顎に手がかかったとき、確かめるように窓を見る。


 真っ暗な闇を映す窓の中、鏡のように映し出された姿にわたしは微笑む。


「――ご覧になって。お兄様。ラウルがいるわ」


 わたしが指し示すように片手を伸べると、お兄様も窓を見た。それから力を失ったように両手がだらりと下がる。


「お兄様。どうしてラウルがいるのかしら。ラウルは、こんな夜遅くに出歩いたりしないでしょうに」

「そうだね。小さな姫君」

 お兄様は力なく微笑む。

「お兄様はわたしが森の花嫁となったとき、血のつながりはなくともきょうだいだと、わたしのお兄様になってくださると、そう言ってくださったわ。わたしは森の花嫁となるのよ」

「――ああ、そうだったね。私の姫君」

 わたしは再び引き寄せられて、優しく抱きしめられる。

「声を荒げてすまなかったね。もう大丈夫だ。怖かったかい?」

「いいえ。――ただ、お兄様が」

「私なら大丈夫だよ」

「お兄様。いつまでもわたしのお兄様でいてくださるわね」

「ああ。いるとも。私のかわいい小さな姫君」



 国王陛下が崩御されたのは、その三日後のことだった。



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