2話
森の花嫁と定められた頃からわたしは自らの命は自らのものではないと教え込まれてきた。
森の花嫁となるわたしの命はこの国を守る森のものであり、民のものである。
だから、わたしは森のために生き、民のためにこの身を捧げる。
いままで数多の姫君たちがその身を捧げてきたのだから、わたしも喜んで森の花嫁になるのだと口にするたびに、お兄様は微笑んで褒めてくれた。
「お前は私の誇りだよ。きっと、お前は幸せな花嫁になるのだろうね」
森の花嫁となるための決まりごとはたくさんあった。
まずは、当然の決まりごと。
森の花嫁となるのなら、森の側で過ごさなければならない。
だから、わたしはお付きの女官たちと共に城の北側にある深い森へと続く離宮で暮らしていた。寂しい暮らしのせめてもの慰めに、庭園には好きな花を植えてもいいとお兄様には言われたけれど、わたしは何でもいいと答えた。
「お兄様にお任せするわ」
「それでいいのかい? お前は花を愛していると思っていたのに」
「ええ。もちろんお花は好きだけれど、特別に好きな花なんてないもの」
「やはり、私たちはきょうだいだ。私にも特別に好きな花はないよ。どれもきれいで、どれも同じで」
不意に途切れた言葉の続きを口にする。
「どれも大好き。――あら、違っていて?」
問いかけると、お兄様は淡く微笑む。
「――いいや。その通りだよ。私のかわいい、小さな姫君」
お兄様はダンスで乱れたわたしの髪をなでつける。わたしの癖のある黒髪はダンスをするたびに、ぴょこぴょこと跳ね上がるのだ。お兄様のまっすぐな黒髪がうらやましい。
「けれど、私たちはそれでいいんだよ。私たちの立場のようなものは、あまり特別なものを作ってはいけないんだ。花であれ、物であれ、人であれ。過度な執着は身を滅ぼしてしまうから」
「過度な、執着?」
お兄様は時々わたしにはわからない言葉を使う。
「私たちはどんなものでも、好きになりすぎたらいけないということだよ。たとえば、お前のこのうつくしい黒髪をさらにうつくしく飾る花があったら、その花があることでいっそうお前が可憐に見えたら、きっと、私はその花の名前を覚えてしまう。王宮の庭で見つけたら、目を止めてしまって、微笑んでしまうかもしれない。それを誰かが見ていて、私の気に入っている花だと知られてしまったら、どうなると思う?」
「そうね。きっと、そのお花がお兄様の部屋に飾られるのだと思うわ」
「それだけではない。もしかしたら、その花を増やすために他の花は邪魔だと切り取られてしまうかもしれない。私が意図しなくとも、周りが勝手に気を利かせて行動してしまう。だから、自らの行動がどう思われるのか、気をつけなければならない。――それに、何より、お前は森の花嫁だ。森の花嫁となるのなら、特別に好きなものを作るべきではないんだよ」
「ええ。お兄様」
わたしがうなずくと、お兄様はさすがは森の花嫁だと褒めてくれた。
決まりごとは他にもあった。
「森は幸せな花嫁を好むのだからね。だから、小さな姫君。お前はいつも笑うようにするんだよ。楽しいことばかり考えて、たとえ悲しいことがあったとしても、すぐに忘れるようにするんだ。もしも、泣きたくなるくらいに悲しいこと、つらいことがあったら、何でも私に話すといいよ。すべて私が楽しいことに変えてあげるから」
「まあ、お兄様。それなら、もしもわたしが寂しいと泣いていたら、すぐに会いに来てくださるの?」
「ああ、来るとも」
「あら、本当に?」
「おや、心外だな。私を疑うのかい? かわいい姫君」
おどけた口調で、お兄様はわたしをのぞきこむ。
きちんとした決まりごとの外にある、決して口に出さないわたしとお兄様の決まりごと。
わたしとお兄様には偽りなどありえなかった。
深い森の緑をそのまま映したような瞳を互いにのぞきこめば、ひとめで真実がわかった。
「かわいいお前が泣いていたら、どこにいたって私は駆けつけるよ。小さな姫君」
だから、お兄様はわたしをだました振りをして、
「まあ、うれしいわ。約束よ。お兄様」
わたしはだまされた振りをする。
わたしがどんなに泣いたって、お忙しいお兄様がわたしの下に駆けつけてくれることはない。そんなことわたしにはよくわかっていた。それでもいいのだ。お兄様がそう言ってくださるだけでも、わたしはうれしかったのだから。
それから、これも大切な決まりごと。
森の花嫁となるのなら、国でも最高の教養を身に着ける必要があるのだからと、わたしにはダンス以外にもたくさんの教師がつけられていた。詩や語学、地理、数学、歴史、帝国語の勉強を終えて――森の花嫁となるのに、どうして遠くにある帝国の言葉まで必要なのかわからないけれど、帝国の姫君にも匹敵するような教養が必要だとお兄様が言ったから――さらには刺繍やピアノ、歌のレッスンまでこなした後、お茶を終えてから日が落ちるまでの短い刻限がわたしの自由になる時間だった。
ひとりきりの時間、わたしは森の間で踊ったり、天気が良ければ裏庭へと走り、ラウルの姿を探したりした。
ラウル。
わたしの庭師で、唯一のお友達。
ラウルと初めて会ったのは離宮に来て間もない頃だった。自由な時間ができたからと離宮の庭に走り出たとき、呼び止める者があったのだ。
日よけの帽子をかぶって礼を取る背の高い姿を、わたしはぽかんと見上げた。
「僕はきみの庭師のラウルだよ。ラウルと呼んでくれるかい?」
いたずらっぽく笑って、ラウルは自分の帽子をわたしにかぶせる。
「……でも」
気安く名前で呼ぶなんて。
ためらうわたしに、彼はなおも笑いかける。
「いいんだよ。名前で呼んで。僕もエミリアと呼ぶから」
「まあ、本当に?」
「ああ。エミリア」
――エミリア。
自分の名前をこんなに優しく呼ばれるなんて、初めてのことだったかもしれない。
あの日、ラウルに名前を呼ばれた日から、わたしは王女であり、エミリアになった。
「ねえ、エミリア。僕たち友達になろうよ。何でも話せる、大切な友達に」
「ええ。なりたいわ。とても。わたし、ずっとお友達が欲しかったの。――けれど、そんなこと許されるのかしら」
「だれかに許しを求める必要なんてないよ。どうせ、きみと会えるのは僕がたまたまここにいて、きみが庭にいられるこのときだけなんだ。だから、二人だけの秘密でいいよ。だれにも内緒にしていようよ。――たとえば、きみの大切なお兄様にも」
ラウルは声をひそめて笑う。
「まあ、大切で大好きなお兄様にも内緒にするの?」
わたしも一緒に声をひそめると、ラウルはわたしから帽子を取り返す。
「そうだよ。かわいそうなエミリア。さあ、僕が庭を案内してあげるよ」
彼は帽子を深くかぶりながら、わたしの手を取る。
「ねえ、ラウル。どうしてわたしがかわいそうなの?」
「きみが森の花嫁になるからだよ。森の花嫁となればきみは生きていられない」
「あら、そんなの当たり前のことでしょう?」
「けれど、生きていられないのは悲しいことだ」
「だって、仕方のないことなのよ。人の身のままでは森が寂しがるわ。わたしがこの身を捨てて森の花嫁となることで、森は寂しくなくなるのでしょう? そうしなければお日様が隠されてしまうのよ」
「そうだよ。エミリア。きみはそう言い聞かされて育ったんだし、きみの言うことは誰もが正しいと言うだろう。けれど、それでも」
彼は静かに言う。
「僕は悲しいことだと思う。人として生きていられないことは、とても悲しいことなんだ」
ラウルに会えることはめったになかった。他の庭師たちに時折会うことはあったけれど、遠くから丁寧に礼を取る彼らにうなずいて見せるだけで、ラウルのことを尋ねるわけにはいかなかった。
わたしは空いた時間を見つけては窓辺に座って庭を眺め続けた。いつものように森を眺めているのだと誰もが思っていただろう。
わたしはずっと庭を歩く彼の姿が見えないかと探していたのだ。彼の日よけ帽子を見かけたら、何かと口実を作って庭に下りた。
そのまま歩いて、人目につかないような生垣を探す。
隠れていると、ラウルがやってくる。そうして、驚いたように挨拶するのだ。
挨拶をして、わたしはラウルに「森の花嫁になるのよ」と言い、「かわいそうに」とラウルが返す。
なぜ彼が悲しむのか、わたしにはどうしても理解できなかった。
森の花嫁として、この国のために、皆のためにこの身を森に捧げるのは当然のことなのに。
わたしはラウルを言い負かそうと必死だったけれど、ラウルはただ「かわいそうに」と静かに言うだけだった。
それから、ラウルの話を聞いた。
ラウルは花が好きだった。いつでも、必ず好きな花の話をしてくれた。
「エミリアの好きな花は何だい?」
「特にないの」
「ああ、この庭にはたくさん花があるからね。きっとお城の中にもうつくしい花々が飾られているんだろう? ひとつに決めかねるのもわかる気がするよ」
ラウルは考え込むように言って、「きみの好きな色は?」と尋ねてくる。
「緑が好きだわ。森のような暗い緑が」
「ああ、ここの森は深いから、深い緑に見えるんだね。だけれど、ほら、今日は天気がいいから、あのあたりの緑だと光が透けて、明るい色になるだろう?」
ラウルの言うとおり、暗い緑に見えた森は明るい緑色にも見えた。
「緑に似合う色は何だろう。たとえば、白や淡い紅色。ああ、これはどうかな」
ラウルはそう言って、白い花を摘み取った。
差し出された一輪の花は可憐な形をしていて、わたしはその花が好きになった。
それからは、森に行くまで、通り過ぎるだけだった庭をゆっくりと歩くようになった。
歩きながら目を向ければ、見慣れていたはずの庭にも日々新たな発見があるのだった。
ラウルのくれた白い花、その隣に咲く淡い紅色の花、花々にまとわりつく青い蝶々。細い枝に止まってはにぎやかにおしゃべりする白い小鳥たち。
「きみは小鳥が好きなんだね」
「あら、好きではないわ」
傍らを歩くラウルを見ると、彼は不思議そうな顔になる。
「いいや、好きだろう?。小鳥を見るたびに花のような笑顔を浮かべているじゃないか。それから花々や蝶々も」
「まあ、それはよくないことだわ」
わたしは思わず頬に手を当てる。
「何がよくないの?」
「わたしのような立場の者は、特別に好きなものを作ってはいけないのよ」
「なぜ?」
「なぜって――」
お兄様が以前言ったことをそのまま理由にしようとして、わたしは言葉につまった。
「ああ、きみの大切なお兄様がそう言ったから? 素直なのはいいけれど、きみはお兄様の言うことを聞きすぎる。時には逆らってもいいんだよ」
「まあ、とんでもないことだわ、ラウル。お兄様はわたしのためを思って言ってくださっているのよ。それに、わたしは森の花嫁となるのだから、森以上に好きなものを作ってはいけないわ」
「きみは森が好きなのかい?」
「ええ。当たり前でしょう。わたしは森の花嫁となるのだから。――わたし、森のことが、とても、とても、好きだわ。見ていると落ち着くし、側にいると離れがたくなるの」
それから、黙ってざわめく森を眺めた。
葉擦れに紛れるようにラウルが言う。
「そんなにも森が好きなら、その他に好きなものを作ってもかまわないんじゃないのかな。要するに、森以上に好きにならなければいいんだろう?」
「そう――かしら」
「そうだよ。好きなものを好きではないと思い込む方がつらいことのように思えるよ。きみのお兄様は、きみにひどいことばかり言う人なんだね」
「そんなことを言わないで、ラウル。お兄様はとてもお優しい方なのよ」
「エミリア。きみはとても、とても、いい子だね」
ラウルは深く帽子をかぶって、わたしの手を取る。
「風が冷たくなってきたよ。もう、行こう、エミリア」
「ねえ、ラウル」
わたしは手を引かれながら、森を振り返る。
「でも、心配なことが一つあるの。わたしは森の花嫁となるようにがんばっているけれど、森がわたしを気に入らなかったらどうしたらいいのかしら。気に入ってもらえるように、お願いしたらいいと思う?」
「そんな必要はないよ。エミリア」
彼はわたしを引き寄せて、軽く抱きしめる。
「きっと、だれもがきみを好きになる。たとえそれが森だとしても変わらないだろう。きみを好きにならない人なんて、どこにもいないと思うよ」
「そうかしら」
「おや、信じられないのなら、きみの大好きなお兄様にも聞いてごらん。きっと同じことを言うだろうから」
「もう、ラウルったら」
わたしがすねて見せると、彼は笑う。
「もう行かなくちゃ。またね。エミリア」
わたしはラウルの姿が消えるまで見送って、夕暮れ色の空を見上げる。
――きみを好きにならない人なんて、どこにもいないと思うよ。
それなら、ラウルはわたしを好きだろうか。
わたしはなぜか苦しくなって、思わず胸元を押さえる。
わたしは――ラウルを好きだろうか。