1話
森の中をひとり歩いている。
深い森の奧の奥、森そのものと称される大樹の下へと続く小道は柔らかな室内履きでも楽に歩けた。花嫁を迎えるための緑の道はまるで庭園の整えられた道のように歩きやすい。
離宮を出て、どのくらいの時が経っただろう。空の色が見えないから刻限はわからない。軽い疲れを感じる頃に、道を狭めるようにあった木々が広がり、明るく開けた場所に出た。
緑の道はまだ終わっていない。目をこらしても、木々が遮っているので道の続きがどこまであるのかはわからない。
辺りを見回せば木陰にきらきらと輝く小さな泉があり、座り心地のよさそうな切株もいくつかあった。大樹にたどりつくまでに休憩を取るようにということだろうか。
「まあ、それはご親切に」
わたしは笑みを浮かべて、森の奧に向かって丁寧に一礼すると、切株の一つに腰を下ろした。流したままの黒髪をなでつけ、草のついたドレスの裾を軽く払う。緑のドレスは裾に刺繍があるだけの簡素な形のものだけれど、さらさらと滑らかな布で作られていて動きやすい。何よりも森の木の実から取った糸から作られたものなのだから花嫁衣裳にはふさわしいと思う。
木漏れ日が風に合わせてちらちら踊り、緑のドレスに影を作る。
目を閉じれば、いまでも離宮の森の間にいるようだ。
木漏れ日に似せた淡い緑の光の中、幼かったわたしはよく踊ったものだった。
目を閉じたまま、わたしは立ち上がって一礼する。手を差し伸べて、ステップを踏み、ターンする。
森の間は離宮の中でも、もっとも日当たりの良い一室だった。森に似せた作りにしようとたくさんの香りの良い花が飾られ、天井からは幾多の緑の垂れ布がかけられていた。
垂れ布は同じ緑でもさまざまな色合いをしていて、光を透かすとそれは美しい緑になった。
晴れの日もくもりの日も雨の日も、森の間でひとり、わたしは踊った。
ひとりで踊るのも楽しかったけれど、お兄様と踊るときは特別だった。お兄様と次はいつ会えるのか、いつ踊れるのか、わたしは約束の日を指折り数えて待ったものだ。
女官の弾くピアノに合わせて踊るよりも、わたしたちは歌いながら踊ることを好んだ。
お兄様がふざけて口笛を吹き、口笛を吹けないわたしは息を弾ませながら歌い続ける。思いつきで適当に口にする歌詞に、お兄様は笑って口笛が吹けなくなる。わたしもつられて笑いだして、ついには踊りながら二人で笑い転げてしまい、いつだって、最後までダンスができないのだった。
笑い疲れてダンスを終えると、そのまま森の間でお茶を飲んだ。熱い紅茶に濃いクリーム、何種類もの色鮮やかなジャムや蜂蜜を添えた焼き立てのスコーン、厚く切ったケーキと木の実入りの薄焼きのクッキー。クッキーはつい食べすぎてしまうから、いつもは三枚だけと決めていた。お兄様とダンスのときだけは何枚だって食べていい。
お兄様はそう言い張るわたしを意地っ張りだと笑った。
「そんなに好きなら、いつも好きなだけ食べればいいのに」
「あら、だめよ。お兄様。それではお兄様とご一緒できるこのときが特別にならないわ。いろいろ決まり事があった方が、もっと特別になるし、楽しみになるのよ」
わたしはクリームと木苺のジャムをたっぷりつけたスコーンを頬張ってから、お茶を飲む。
「ねえ、お兄様。わたしはいずれ森の花嫁となるのに、どうしてきちんとしたダンスが必要なのかしら。森はきっとダンスを踊ったりしないわ」
好きに踊っていいお兄様とのダンスは楽しいけれど、教師について行うダンスはあまり好きではない。教えられた通り以外の動きをするたびに、教師は眉をひそめるのだから。
お兄様が口元に運ぶカップの手を止めて、微笑んだ。
「なぜそう思うんだい。小さな姫君。森はいつだってダンスを踊っているだろう。――さあ、おいで」
お兄様は立ち上がって、わたしを窓辺に導く。そのまま大きく窓を開くと、強い風が吹き付けてくる。
森の間は森がもっともよく見える部屋でもあった。深い森を目にすると、いつもわたしはぼうっと見惚れてしまう。
「見てごらん、姫。お前が踊るように、森も踊っているだろう?」
風が渡るたびに、木々はざわめき、踊りだす。葉擦れの音に合わせて、お兄様が口笛を吹く。
「ええ。本当だわ。森はとっても楽しそうに踊っていたのね」
お兄様の口笛に合わせて、わたしは歌い出す。
「ああ。とても、とても楽しそうだね。だから、森の花嫁となるお前も美しく踊れるようにならなければならない。さあ、私の小さな姫君。お手をどうぞ」
お兄様が手を伸べる。
わたしは一礼をして、その手を取る。
窓の向こうでは森が踊り、わたしとお兄様は森の間で踊る。
適当に作った歌を歌いながら踊っているうちに、やっぱり二人で笑い転げてしまったのだけれど。
お兄様とは数えきれないくらい踊ったけれど、ラウルとは一度も踊らなかった。
彼はわたしが踊るのを見たいと言い、請われるたびにわたしは踊った。
青空の下、葉擦れの音を聞きながら、ひとり、ステップを踏む。
ラウルは穏やかにわたしを見て、目が合うたびに微笑を交わした。
お兄様と過ごす時と違って、ラウルと過ごす時は静かで穏やかだった。
――まるで、森の中にいるかのように。
わたしはダンスを終えて、目を開ける。
ダンスの後はお茶を飲むことに決めているのだけれど、さて、どうしたものだろう。
ここに、紅茶の入った水筒と薔薇模様のお気に入りのカップ、たくさんのお菓子をつめたバスケットがあったらどんなにいいだろう。――ああ、何よりも木の実の薄焼きのクッキーがあったなら! 森の中でいただくお茶とお菓子はさぞやおいしかったろうに。
もちろん、どんなに願っても目の前に現れることはない。ため息をついたところで、甘い香りがした。辺りを見回すと、泉の側の木にほんのり虹色に輝く小さな実が生っているのが見えた。
冷たい泉の水をすくって飲んでから、虹色の実をいくつか摘み取り、切株に腰かける。不思議な色合いに惹かれるままに口にすれば、とろけるように甘かった。
わたしは森の奧へを続く道を眺めながら、虹色の実を口にする。
「わたしは森の花嫁となるのよ」
そう言うたびに、お兄様は微笑んで褒めてくれて、ラウルは悲しそうな顔でわたしを見つめた。
彼らの真逆の反応がわたしにはどちらもうれしくて、どちらも悲しい。
今もそうだ。わたしは愛する森の花嫁となれることがうれしいのか悲しいのかよくわからない。