In the mist.
課題用に書いた作品です。
作品全体の雰囲気が何色をイメージしているか、考えながら読んでください。
解答はあとがきにて。
目の前が霧で覆われている。
いつからこの霧が立ち込めていたのか、まるで覚えがない。
一寸先も見えないほどに濃い霧だ。見ているだけで息が詰まるような色をしていて、臓腑の奥まで毒されてしまいそうに感じる。
一歩踏み出してみると、ずるりと何かを引きずる気配がした。足のあたりに何かがまとわりついている。歩を進めるごとにそれは引きずられ、次第に重さを増していく。前に進んでも、霧はそれ以上濃くならず、かといって薄くもならなかった。ただ、そこに漂っているばかり。
足を止めて目をこする。なんだか眠くなってきた気がする。瞼が重い。ぼんやりとたなびくこの霧のせいだろうか。体の力も抜けてきて、いよいよその場に座り込む。地面はひんやりと冷たくて、同時にほのかに暖かかった。
足のあたりをわさわさと探ると、何かが急いで離れていった。あれがまとわりついていたために重く感じたのだろう。一体それが何であったか確認はできなかったが、別に気にならなかった。
憂鬱な感じのする霧を払おうと手を動かしたり、息を吐いたりしてみる。けれど霧は何ともないようだった。
膝を抱えて体を丸めると、なんだか気持ちが落ち着いてきた。伸ばせば手も足も見えなくなりそうな霧の中、自分という存在だけが確かにここにいる。自分以外は何もない。否、何かあるかもしれない。三歩進んだら何かが落ちていたり、走ってみたらその先には誰かがいたり。しかしどうでもいいことだ。自分がここにいる。それさえわかれば、何の問題もない。
眠い。頭を膝小僧に預けて目を閉じる。辺りに音はない。もやもやと霧が動いている気配だけを感じる。
何かが体に触れる。先ほど離れていったものだろうか。別のものだろうか。今度は気になる気持ちが生まれなかったわけではないが、瞼が重くて持ち上げられなかった。ひゅう、と霧を吸い込んでしまい、吐き出すように咳き込む。ああ、苦しい、眠たい。楽になってしまいたいけれど、どうすれば楽になれるのか分からない。
目を閉じたままゆっくりと立ち上がり、歩き出す。ずるりと何かを引きずる。
引きずる音と足音とを交互に繰り返しながら、霧の中を突き進む。目は閉じたままだが、霧はまだ晴れていないように感じる。頬のあたりを何かが撫ぜた。小さく呼吸するたびに、毒気づいたあの霧が自分の体を侵していっている気がした。じくじくと不快なものが鳩尾に溜まっていくような、そんな感覚。
また足が重くなってきた。立ち止まって、まとわりつくものを蹴散らすように足を動かすと少し軽くなる。
うっすらと目を開けながら歩き出す。相変わらず、数歩先も見えない状態だ。一体この霧は何なのだろう。
両手を前に突き出してみる。真っ直ぐ伸ばしているはずなのに、手首から先はぼやけてもう見えない。肘を曲げると、掌は簡単に戻ってきた。ああ、よかった。ちゃんとある。安心して両手の指先を組んだ。
すん、と匂いを嗅ぐ。特別な匂いはしない。ただ、無臭という感じでもない。言い表せないけれど、何かの匂いがしている。臭くはない。淡泊な、かすかな、匂い。もう一度鼻から空気を吸い込むと、喉の奥に霧が張り付いて咳が出た。
そのまましゃがみ込んで、ごろりと横になる。これだけ姿勢を低くしても、霧の濃度は一向に変わらない。これは本当に霧なのだろうか。
耳を地面にぴたりとくっつけると、地鳴りのような音がした。果てしなく霧に覆われた地が続いているように思えるけれども、どこかにはつながっているようだ。そこでは霧が晴れているだろうか。歩き続けていたら、そこにたどり着けるだろうか。
体を起こし、両手を大きく振り回し、霧をかき乱した。少しでも、消えてなくなるように。
立ち上がろうとすると、足に何かが引っついてきた。ああ、また先ほどのものたちか。それでも構わず前に向けて踏み出す。ずるり、ずるり。一歩ごとに足取りが重くなる。たとえわずかでも、前に進みたい。その一心で足を動かし続ける。
足に絡みつくそれらは、いつの間にか腰のあたりまで登ってきていた。重いどころの話じゃなく、もはや四つん這いになっている。二本の腕で這って、下半身を引きずるように。ただ、前へ、前へ。それだけを胸に抱いて。
霧の色が濃くなっている。霧自体が濃くなったわけではない。その色合いは毒々しさを増し、どこか神秘的で厳かであった辺りの雰囲気は一変していた。心なしか呼吸が荒くなり、心に不安が募っていく。
少し先で地面に触れているはずの手も、振り返って見た腰も、深みを増した霧にすっかり飲み込まれて見えなくなっていた。目に刺さるような派手さではなく、陰鬱としたほの暗さをまとっている。どうにも前に進む気力が奪われる。爪を立てて体を運ぼうとするけれど、すぐに力が抜けてしまう。
このままじゃ自分が保てなくなる。自分という存在が霧の中に消えてしまう。下半身にしがみついている何かは、きっと自分を取り込もうとしているのだ。
息苦しかった。けれどいつの間にか霧は晴れ、辺りは明るくなっていた。それなのに、肺が押しつぶされているかのようにたどたどしい呼吸しかできない。
首をひねって足元に目をやると、そこには何もいなかった。当然あるはずの重さもない。その場で上体を起こし、両の掌を地につけてみる。温度はない。霧をすべて吸い込んだかのような色をしていた。
期待していたほど、景色はよくない。どこまでも同じ色の地面が続いている。霧ではないけれど、天を覆う色も地と同じだ。不安な、けれどどこか落ち着いた印象が体中に染み渡る。
立ち上がって歩いてみると、何かを引きずるような鈍い音はもうしなかった。裸足の足が立てる音だけが耳に届く。
目の前に、ぽっかりと穴が開いていた。
大きな口をあけた丸い穴が地面に鎮座している。こんなもの、あっただろうか。上から覗き込んでも、何も見えない。
穴から視線を外し、辺りを見回す。もしかするとあの霧は、この穴の中に吸い込まれてしまったのかもしれない。
もう一度穴に視線を落とす。しゃがみ込んで手をかざしてみても、風の流れは感じられない。何だろう。一体これは、何なのだろう。
唐突に、むせ返るほど立ち込めていた霧が恋しくなって、あの毒気づいた粒子の中にとけてしまいたいと思った。
課題用のものに微修正を加えました。
ちなみに、この作品は「古代紫」色をイメージして書きました。




