▲子守唄を唄うのは。
最古の記憶は、まだ食事も己で取れないほど昔の頃。
穏やかな笑みと優しい子守唄。 後に写真で母だと教えられた、その女の人がくれていた愛の記憶。
小さな私は、すべての赤ん坊がそうするように、ただ明日を信じ安らぎの中で目を閉じた。
…しかし、母の記憶は、それが最初で最後。
それから私は、闇と絶望の内で人生を過ごし、若い身空で死ぬ事になる。 しかし、あまりその時の事は書きたくない。 読んでもつまらない物だし、不快感を与えるだろうから。 だから私は、今の事。 未来の事を書こうと思う。 今の事はそれほど嫌いではないから。
私が生まれた日は、まとわりつくような熱帯夜だったらしい。
妹が生まれた日に話を聞いていたら、そんな事を言われた。
妹が生まれた日は、光降り注ぐ冬の朝だった。 雲ひとつない真っ青な空と、空気が肺を刺す程寒かったのを覚えている。 当時、私は五歳だった。 村にたった一つだけある診療所に二人して泊まりこんで、前夜からえっちらおっちらと今生の母は頑張っていた。 立ち会える家族唯一の男としてずっと出産に付き合っていたが、ひどく眠かった事しか覚えていない。 少々ばかり恥ずかしいが、子供とはそんなものだろう。
私の父親はどこに居るのか、そもそも誰なのかわからない。 母は、あんちくしょうは逃げやがったのさと笑っていた。 しかし妹の父親はわかっている。 この村にたどり着いた時になにくれと世話を焼いてくれたあげく、稀有なことに母に求婚した素朴な男だ。
母は諦めさせるために全ての事情を話したが、その男は母の話が終わった直後にさらに燃え上がった。 いわく、貴方は僕が守ります、と。 それで仕事を頑張りすぎて妹の出産に立ち会えなかったのだから、本当に世話がない。
ただ、本当に稀有な事に、彼は他の男の種でできている上に不気味な雰囲気を醸し出している(なにせ普通の子供のように可愛げも無ければわがままも言わない)私ですらかわいがってくれる。 場所が場所なら聖人にでもなっていたのではなかろうかという程、彼は優しい性格をしている。 母の居ない所で虐待するという事もない。 それどころか、彼は母が居ないとすぐにベタベタに甘やかそうとしてくる。 私は自制が効いているからいいが、人生経験のない妹はすぐ陥落するだろう。
故にその事を母に言ったのだが、じゃああんたが躾けてねと丸投げされた。 たしかに義父は頼れないし母も甘やかすタイプだが、だからといって未だ五歳程度の子供にそこまでさせるのはいかがなものか。 そう諌めると母は、あんた私より賢いじゃんと言った。 …まさかこんな所で、普通の子のように振舞おうとしなかったツケが出てくるとは思っていなかった。 一応そういう問題ではないとは言っておいたが、母は耳を貸さなかった。
…しかたがないので、頑張った。
家事手伝いの合間に、いろんな事をした。 妹を周りの街まで連れ出し人を見る目を鍛えさせ、数学や前世の言葉を教え込み知識を蓄えさせ、応用問題を出し考える力を養わせた。 興味を持った他の子供達も取り込み、協力とはどのようにするべきかを覚えさせた。 こちらの歴史や文字を教える事はできなかったが(知らない事は教えられないから)、あちらの世界ではまあまあ通用するであろうレベルまでは妹と一部の子供達を育て上げた。 発音や文法はまだまだ怪しい所もあるが、それはしょうがない。 第一ヶ国語でもないのに完璧にしろというほど、私は非情ではない。
その結果、少数精鋭な魔術師私団ができてしまった。
…魔術とは、言葉である。 子供達の一人が、ある魔術師に師事した際に知った事だ。
大勢がその言葉を知り、使うほど、その言葉は力を持つ。 そうした言葉にほんの少量魔力を載せれば、魔術とする事ができる。 言葉の力が強ければ強いほどできる事も増えていく。 その代わり、言葉が知られているが故に、対抗もされやすく打ち破られやすい。
そこに出てきたのが、私の元の世界の言葉だ。 元の世界の言葉は、何千何万、何億人もの人間がその言葉を知っていながらも、この世界では誰も知らないから対抗のしようがない。 そうして人は、皆少なからず魔力を持っている。 私達も例外ではない。
この危うさが、わかるだろうか。 私には分かる。 だから私は、私の世界の言は緊急事態以外では使うなと皆に厳命した。 大きすぎる力は、例外なく恐れを引き起こすものだから。
ただ、もう、その時点では遅すぎた。 私と皆は、殺された。 まず、首謀者として私は、喉と両手足を潰され椅子に縛り付けられた。 当時はたかが13歳の子供だったのだが、そこまでするほど怖かったらしい。 そして皆、目の前で殺されていった。 常時耳元で、お前のせいで全員死ぬんだぞ、と囁かれながら。
私はそんな洗脳に負けるほどやわな精神はしていないのだが、さすがに家族の番ともなると心が痛んだ。 首謀者の家族だから加担していたんだろうと勘ぐられ、共に処刑される事になったのである。 妹は皆の前で犯されながらも必死に抵抗し、また会おうねと唇で語りながら切り刻まれた。 母は、あんたを愛しているよと言いながら首を刎ねられた。 義父は、次も一緒に幸せになろうなと言いながら自決した。 本当に私には勿体無いほど素晴らしい家族である。 どうして私程度の者にこんな幸せが来たのか理解に苦しむ。
そんな事を考えていると、いよいよ私の番が来た。 話を聞くに、この上さらに私のせいとやらで殺された子供達の親族の前に放り出すらしい。 見せしめとして使われる事は覚悟していたが、それはさすがに嫌すぎる。 奴らに私のせいだと信じさせられた(ある意味その通りなのだが)上に集団心理のおかげで理性のタガが外れている。 どんな目に合わされるかわかったものではない。
だから私は、私自身の魔力(内部にあるものならば言葉を使わずとも好きに動かせるので)を暴走させ自分を殺した。 いわゆる自殺である。
この自体を想定すらしていなかった者達に対する意趣返しにはなっただろう。 なにせ高めに高めた感情の行き場がなくなったのだから。
そうして私は、今現在ペットとなっている。 何故か、前の記憶を二つとも持ったまま。
人間ではなく、獣でもなく、亜人。 半獣人と言ったほうが正しいか。 何が悲しくてケモっ子にならねばならなかったのか心の底から理解に苦しむが、まあ求めるもの選ぶべからずともいうし住めば都。 最近は慣れてきた。 魔物としての生き方も、最近堂に入ってきた…と思う。
私の種族は猫。 猫耳としっぽだけだが、人間ではない事を回りに知らしめるには十分だ。 奇しくも私の好みである長毛種で、目鼻立ちは結構キリッとしている。 毛並みは時折金に光るこげ茶色だ。 普通のサイズの猫になれる能力も、なかなかに使いやすい。 そういえば、今生の私は最初と同じように女である。 ようやく男の生き方に慣れてきた所だったのだが、これはまあしょうがない。
今生の母は、私を産み落とした際に死亡したらしい。 孤児院のヒト達が教えてくれた。 彼らは愛情たっぷりで毎日笑顔という訳ではなかったが、それでも虐待はなかったし擦り寄れば撫でてくれた。 父親? 知るものか。
そして成人し仕事を見つけ、さて穏やかな日々を見つけるかと思った矢先に私はとっ捕まった。
最初に生を受けた世界のせいで、とっさに保健所かと思ってしまったのはないしょである。
目覚めた時には、ガタンゴトンと音を立てる馬車の薄暗い中で、両手足を縛られ転がされていた。 猿轡もばっちりである。 そして周りには私のようにされているヒト達がいた。 絶望している目や、声も出せずに泣いている子。 さらに、ただでさえ蒸し暑くジメジメしているこの地域なのに、こんな狭い場所に密集している私達。 ドナドナを歌いたくなったのは想像に難くないだろう。
どれくらいたったのか、ざわめきが増えてきた。 道もどうやら舗装されているらしく体が跳ねなくなってきたので、街に近いのだなと分かった。 さて、どうしたものか。 私は難民ではなく、敗戦国の住民でもない。 何日間も気絶していたならともかく、動いていた距離からしてもいまだ国内だろう。 故に、これはおそらくではあるが、違法な奴隷売買だろう。
一旦猫になりまた元に戻れば、声を出して助けを求めることができる。 しかし、ここはまだ黙っておいたほうがいいだろう。 するべき所は、関門。 兵士が積荷の確認をする時に暴れれば、どさくさに紛れて逃げ出す事ができる。 保護されればそれに越した事はないが、邪魔をしたとしてそうなる前に殺される可能性もある。 よって、ここは逃走が安定だ。
そうと決まれば早いもので、私はもう縄からすり抜け元の姿に戻っていた。 他のヒト達が自分も助けてくれと訴えてくるが、縄が外れていると反抗の首謀者として殺される可能性があると言うと皆諦めた。 しかし、その瞳には光が戻っていた。
ガタンゴトン、ガタンゴト…
馬車が止まり、声が聞こえる。 私の耳は、兵士と密輸入者が話す声を聴きとった。
―今だ。
思い切りドロッとした空気を吸い込み、叫ぶ。 助けを求める。 魔力を乗せて、遠く遠くまで届くように。 そうしてそれは、澄んだ鐘の音のように響き渡った。 おそらく今日も抜けるような晴天である、馬車の外の世界を想い詠った。 ついでに回りにいるヒト達の苦痛も、狭い所に閉じ込めやがって蒸し暑いんだよという私の八つ当たりも、その詩に乗せた。
…何かが魔術の目をこちらに伸ばしてきたが、見つかる前に詩が終わった。 まあ、別段隠される事もないだろうし、誰だか知らないが気になるなら自分で情報を得るだろう。
それ以上何もしなかった理由は、これだけでも十分な混乱を齎せるだろうと思ったからだ。 なにせ、魔物なのに魔術を使ったのだ。 だれかが不審に思い覗きに来るだろう。 なので猫型に戻り、馬車の扉が開けられた際に飛びかかれるように準備をした。 そしてその時が来た瞬間、私は何が起こったのかも分からぬまま空を舞っていた。
後日聞いた話では、今の主がとっさに反応した結果投げ飛ばされたとの事だ。
そして私はびっくりしたままではあるが華麗な着地を見せつけ、そのまま街の中に逃げていった。 主いわく、一瞬でいなくなったので幽霊か何かかと再び相見えるまで思っていたらしい。 主は時折、本当に可愛らしい考え方をする。
…と、まあこれが主と私が最初に出会った話である。 そういえば書き忘れていたのだが、魔物は基本的に魔術を使えない。 器用さも集中力もないためである。 主のような魔族ならばそうでもないのだが。
そんな事をしているうちに夜になった。 とぼとぼと歩きながらゴミ箱を片っ端から漁ったお陰で餓死する事はないだろうが、やはり寝る時はふわふわなベッドの上で寝たい。 そんな事を願いつつ愛想を振りまいては撫でられ、しかし追い出され。 そのパターンをくり返しながらあわや街の中で野宿かと思った矢先にそこはあった。
高い高い壁に空いた穴の向こうに見えた、綺麗なガーデン。 芝生が生い茂り、花の甘い香りが鼻孔をくすぐる。 服を持ってこれていないせいで野宿確定とはいえ、こんな所で寝れるならむしろ本望ではないか。 一瞬で心を決めた私は、頑張れば通れるその穴にむりやり体をねじ込んだ。
その後は天国だった。 主にガーデンにはつきものの虫やソファー付きのテラスがあったせいだが。 年中蒸し暑いこの地域の気候では凍える事を心配する必要もなく、私は軽く腹ごしらえをした後いそいそとソファーを登り(外なのに無防備過ぎると今更ながら思うが)、安心しきって眠りに落ちた。
…自分の家のベッドより、悲しい事ではあるが、はるかにそれは柔らかかった。
そして起きた時には、イケメンが目の前にいた。 彼こそが現在の主である。
主は漆黒の長髪と同じ色の切れ長の瞳を持ち、いつも見ている方が暑苦しい闇色のローブを重ねたものと黄金色の装飾を纏っている。 上着まで(着る必要がないと思うのだが)真っ黒なのだ、とても徹底している。 黒が好きなのだろうか。 背はかなり高い。 羨ましい限りである。
そして当時の主は、微かな笑みと氷のように凍える手で私の腹毛を撫でていた。 そりゃ一番柔らかい所なのだ、気持ちも良かろうて。 主の手は今と変わらずとても冷たく、長毛種である私にはむしろ歓迎できるものだった。 しかし主は私が起きた事になぜか酷く狼狽し、手を引っ込めようとした。 当時はなぜだかまったく分からなかったが、そんな事はお構いなしに寝ぼけ半分だった私は、はしたなくもようやく手に入れた涼しさに飛びかかった。
今でもその事は心の底から反省している。 しかもその直後に私の冷たいのをとらないで、と要求した挙句再び眠りはじめたのだ。 考えるたびに顔から火が出る思いである。 主が笑って許してくれたのが唯一の救いだ。 彼の方の膝の上で寝覚めた直後にテラスの床に飛び降り、猫の身ではあるが土下座をしたのが効いたのだろうか。 兎にも角にも、このような醜態は二度と晒したくはない。
猫かわいいよ猫。
突発的に猫になりたいと思い書きました。
この後はよくある恋愛物になります。