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第一話 星霜の剣、消えたログアウト

この作品が初投稿です。これから頑張ります!


この作品にはAIを使用している部分が存在します

気に入らないのであればここで閉じることをおすすめします。



1


最初に気づいたのは、風の匂いだった。


『エターナル・ブレイズ・オンライン』—— 略して EBO。全世界で三千万人が熱狂する、人類史上最大の MMORPG。フルダイブ式神経接続デバイス《ニルヴァーナ》を装着すれば、プレイヤーは五感すべてを剣と魔法の世界《エテルナ》に預ける。視覚も聴覚も触覚も、現実と見分けがつかない。


だが、それでも「匂い」だけは、どこか作り物じみていた。プログラムが再現した森の香りは、どこかで嗅いだことのある既製品のようで、零はいつもそれを感じていた。


—— 今日は違う。


朽ちかけた葉のにおい、土の湿り気、遠くで咲く花の甘さ、そして —— 自分の汗の塩っぱさ。それらが混ざり合い、喉の奥まで染み込んでくる。まるで、本物の空気を肺いっぱいに吸っているかのようだ。


零は、手にした長剣《星霜(せいそう)》をゆっくりと振った。


風を切る音が耳に届く。手首に伝わる重量、刃が空気を裂くときの微かな抵抗、そして剣身に宿る蒼い魔力のざわめき —— どれ一つとして、嘘がない。


「…… おいおい、さすがに今日は本気出しすぎじゃないか、運営さん」


零が唇の端を歪めて呟くと、背後から明るい声が飛んできた。


「零さん、まだ剣振ってるんですか~? もう最奥のボス倒したんだから、記念写真撮りましょうよ!」


振り返れば、銀の髪を三つ編みにした少女 —— リィナが、両手に魔法のランプをぶら下げてこちらに駆け寄ってくる。十七歳の女子大生で、ギルド《銀翼の騎士団》一のムードメーカー。ヒーラー兼エレメンタルマジシャン。


「リィナ、走るなよ、転ぶぞ」


「だって嬉しいんだもん! 私たち、世界初踏破ですよ世界初! これでギルドランキング一週間一位確定ですよ!」


その背後から、巨漢の戦士ダグラスが肩を揺らして笑う。三十五歳の元自衛官で、現実では幼稚園の園長先生をしているという、肩で風を切るような男だ。


「まったく、あのラスボス《虚ろの竜王》は曲者だった。最後のブレス、俺の盾が溶けかけたぜ」


「ダグラスさんのガードがなければ全滅でしたよ」


今度は、物静かな声。黒髪を束ねた忍者系アサシン、ユキ。現実では小説家らしく、いつも薄い本を読んでいる。寡黙だが、メンバーの誰よりも周囲をよく見ている。


「それにしても零、お前の最後の一太刀は異常だった。あの HP バー、一瞬で消えたぞ。どんなスキル使ったんだ?」


ダグラスが問うと、零は剣を鞘に戻しながら首を傾げた。


「いや、自分でもわからない。あの瞬間、体が勝手に動いたというか —— 剣が、竜の心臓を欲しがったような気がしたんだ」


「剣が欲しがる? おいおい、中二病かよお前」


笑いが起こる。零も笑った。だが、胸の奥に引っかかるものがあった。


—— あの瞬間、確かに、剣が自分の意思を持っていたように感じた。そして、竜が死ぬ間際に放った声。


『…… 待っていたぞ、選ばれし者よ。これより、真の物語が始まる ——』


あれは、ボスのセリフだったのか? それとも ——


「零さん? なんだか変な顔してますよ」


リィナが心配そうに覗き込む。零は慌てて笑顔を作った。


「いや、なんでもない。さて、そろそろログアウトするぞ。明日は朝から現実でバイトだし、みんなも休め。記念パーティは来週末、ギルドハウスでやろう」


「えー、もう! まだ盛り上がってるのにー!」


「リィナ、明日授業あるだろ。ほら、帰れ」


ユキが淡々と告げると、リィナは「ぐすん」という顔でうなずいた。


零はいつもの癖で、右手の指を空中ではじくように動かし —— メニュー画面を開いた。


蒼い半透明のウィンドウが、目の前に浮かぶ。ステータス、装備、スキル、マップ、フレンド、設定 —— そして、一番下にあるはずの項目。


零の指が、凍った。


—— ない。


『ログアウト』の文字が、どこにもない。


2


最初は、見落としだと思った。


スクロールして、設定を開き直して、ショートカットキーを試して —— それでも出てこない。代わりに、画面の隅に、今まで見たことのない小さなアイコンが光っているのに気づいた。


鍵のマーク。それも、鍵が閉まっているマーク。


「…… なんだこれ」


零はそのアイコンに触れた。すると突然、世界が揺れた。


地鳴りのような音が遠くから迫り、空が —— 黄金色だった夕暮れの空が、一瞬にして真っ赤に染まった。まるで、世界全体が血の色に包まれるかのようだ。


「きゃっ!? なになに!? 地震!?」


リィナが悲鳴を上げる。ダグラスが盾を構え、ユキが一気に零の背後に回り込む。メンバー全員が、戦闘態勢に入った。


だが、揺れはすぐに収まった。代わりに —— 全員の視界の中央に、同一の文字が浮かび上がった。


それは、ゲームのシステムメッセージのフォントではなかった。もっと古く、もっと荘厳な、手書きの羊皮紙のような書体。


――『ようこそ、真のエテルナへ。』


――『この度、世界は仮初めの殻を脱ぎ、真の姿を現しました。』


――『ログアウトは、不可能です。』


――『この地で死ねば、その魂はこの世界に還り、二度と元の世界には戻れません。』


――『さあ、生きよ。闘え。そして、この世界の真実を見つけ出すがいい。』


――『我は、世界の見張り人。すべての結末を、この目で見届けよう――』


文字がゆっくりと消えていく。その間、誰も声を発しなかった。


最初に動いたのは、リィナだった。


「…… 嘘でしょ? 嘘だよね、零さん? なんかのイベントでしょ? エイプリルフールじゃないんだから、こんなの……」


声が震えている。零は、自分の心臓が耳鳴りのように鳴っているのを感じた。


――ログアウトできない。死ねば、現実でも死ぬ。


そんな馬鹿な、と思う。だが、先ほどから感じていた「匂い」のこと、剣が意思を持っていた感覚、竜王の最期の言葉 —— すべてが、一つの線でつながった。


「…… 全員、落ち着け。パニックになっても仕方がない。まず、事実確認だ」


零は、できるだけ落ち着いた声を出そうとした。だが、自分の声が思ったよりも掠れているのに気づいた。


「ダグラス、ユキ、お前たちもメニューを開け。ログアウトの項目があるか、確認してくれ」


二人が黙ってメニューを開く。数秒後、ダグラスが重い声で言った。


「…… ない。俺の画面にも、ない」


「私も。その代わり、鍵のアイコンがある」


ユキの指が、空中の一点を指す。零には見えないが、彼女の画面には確かにそれがあるのだろう。


「リィナは?」


「あ、あたしも…… ない。どこにもないの……」


リィナの目に、涙が滲んでいる。零は、彼女の肩を抱いてやろうとして、ふと我に返った。


――ここは、もしかしたら、もうゲームじゃないのかもしれない。


そう思った瞬間、リィナの肩の温もりが、今までとは違うリアリティを持って零の手に伝わった。震えている。彼女が本当に怖がって、震えているのがわかる。


「大丈夫だ。俺が絶対に、なんとかする。みんなで帰る方法を探す。約束する」


零がそう言ったとき —— 遠くから、叫び声が聞こえてきた。


3


ダンジョンの最奥から、地上に続く光の回廊を抜けると、そこはゲーム最大の都市《アストラル・クロニクル》の中央広場だった。


—— そして、そこは地獄だった。


数千、いや数万のプレイヤーたちが、広場に溢れかえっている。泣き叫ぶ者、怒鳴り散らす者、仲間を探して走り回る者、その場にへたり込んで動かなくなった者 —— 混乱の渦が、広場全体を飲み込んでいた。


「嘘だろ! 俺を返せ! こんなの承知してない!」


「ログアウトさせろ! さもないと運営を訴える!」


「たすけて…… たすけてよ…… お母さん……」


子供の声までが、聞こえる。EBO には、未成年のプレイヤーも少なくない。その子たちが、今、この混乱の中にいる。


零は、拳を握りしめた。


「これは…… ただのイベントじゃないな」


ダグラスが、低い声で呟く。ユキが、広場を見渡しながら静かに言った。


「NPC も、おかしい。あの門衛、今まで決まったセリフしか言わなかったのに、今、兵士たちに指示を出してる。自分の意思で動いてる」


零がそちらを見ると、確かに、鎧を着た門衛たちが、プレイヤーたちをなだめるように声をかけている。その表情、仕草、声のトーン —— どれも、プログラムされたものとは思えない、生きた人間のものだ。


――NPC が、生きている。


その事実が、零の背筋に冷たい水を流した。


「みんな、ここにいると危ない。パニックの中では、トラブルが起きる。まずギルドハウスに退避しよう。そこなら、ギルドメンバー以外入れないから安全だ」


零がそう言ってメンバーを率いて広場を離れようとしたとき —— 人混みの中で、一際大きな怒鳴り声が上がった。


「てめえら、いい年して泣いてんじゃねえ! こんな状況で弱ってるやつは、最初に死ぬんだよ!」


零が振り向くと、赤い髪の巨漢の男が、周囲のプレイヤーを威圧しているのが見えた。男の背後には、十数人の、屈強なプレイヤーたちが従っている。


――《紅の牙団》。EBO 最強の PK ギルドだ。ゲーム内で他のプレイヤーを殺して装備を奪うことを生業としていた、最悪の集団。


「これからは、弱いやつが損をする世界だ。力のあるものが、すべてを手に入れる。いいか、この広場の装備品、全部回収させてもらう。文句があるやつは、この俺《紅のガルム》と勝負だ!」


どよめきが起こる。だが、誰も逆らおうとはしない。PK ギルドの力は、正規のプレイヤーたちのそれをはるかに凌駕している。しかも、今は「死ねば本当に死ぬ」世界だ。誰も、命を懸けて逆らおうとはしない。


ガルムが、にやりと笑い、最も近くにいた細身の男性プレイヤーに手を伸ばした —— その瞬間だった。


「その手を、離せ」


静かな、だが決して揺るがない声が、空気を裂いた。


零が、一歩前に出ていた。右手に《星霜》を構え、蒼い魔力が剣身を纏う。その姿は、夕暮れの赤い空を背景に、まるで伝説の騎士のようだった。


「…… なんだ、てめえ。銀翼の零か。ゲーム内では有名な善人気取りだってな。だがな、これからは善人ぶってる場合じゃねえんだよ。わかってんのか?」


「わかってるよ。だからこそ、お前のような奴を、ここで野放しにするわけにはいかない」


零の声は、驚くほど静かだった。だが、その静けさが、かえって周囲の空気を凍らせる。


「この人たちは、混乱して、怖がってるんだ。それにつけ込んで奪うなんて、許せない。俺は、この世界で誰も死なせたくない。そのためなら、俺は戦う」


ガルムの顔が、歪んだ。


「…… いい度胸だ。じゃあ、てめえが最初の犠牲者だ!」


赤い大斧が、零に襲いかかる。速い。鋭い。だが、零は一歩も引かなかった。


――剣が、また、欲しがっている。


零は、その感覚に身を任せた。《星霜》が蒼く輝き、赤い斧を受け止める。金属がぶつかる音が、広場に響く。火花が散る。


そして、零の体の奥から、今まで感じたことのない力が溢れ出した。


「――くらえ!」


蒼い剣撃が、ガルムの斧を弾き飛ばす。ガルムがよろめき、その胸元に、零の剣先が止まった。


「…… お、おい、殺す気か!? これ、本当に死ぬんだぞ!?」


ガルムの声が、初めて震えた。零は、剣を構えたまま、静かに言った。


「俺は殺さない。だが、お前がまた弱者に手を出したら、次は本気で戦う。わかったら、ここから消えろ」

ガルムは、唾を吐き捨てると、従者たちを連れてその場を去った。広場に、どよめきと、安堵の息が広がる。


「…… すごい……」


「銀翼の零だ……」


「あの人が、俺たちを助けてくれるのか……」


零は、そんな視線を感じながら、剣を鞘に戻した。だが、そのとき、背筋に、鋭い視線を感じた。


人混みの、はるか向こう。夕暮れの赤い光の中に、ただ一人、他の誰とも違うオーラを放つ女性が立っていた。


4


漆黒の髪が、風になびく。紅い瞳が、まっすぐに零を射抜く。白銀の鎧が、夕日を受けて銀色に輝く。彼女の腰には、零の《星霜》と同じような蒼い輝きを宿した、細身の長剣が下げられていた。


――誰だ?


零は、EBO のトッププレイヤーたちの顔は、ほとんど知っている。だが、この女性だけは、見たことがない。それどころか、彼女の周囲だけ、空気が違う。まるで、世界の中心に彼女がいて、すべての光が彼女に集まってくるかのようだ。


女性は、ゆっくりと、零に向かって歩いてくる。人混みが、自然と彼女のために道を開ける。まるで、彼女が王女であるかのように。


そして、零の目の前まで来て、彼女は静かに口を開いた。


「…… 初めまして、零。桐生零」


――名前を知っている。


しかも、ゲーム内のハンドルネームではなく、現実の本名だ。零の心臓が、激しく鼓動した。


「あなたは、誰だ。どうして俺の本名を……」


「私は、ルージュ。この世界の…… 見張り人の、片割れ」


彼女の声は、澄んでいて、だがどこか悲しみを宿していた。紅い瞳の奥に、零には見えない、遠い過去が揺らめいているようだった。


「見張り人……? さっきのメッセージの、あの……」


「はい。あれは、私の、もう一人の半身が放ったもの。この世界が真の姿を現したことを、告げるために」

ルージュは、一歩、零に近づいた。零は、思わず身構えた。だが、彼女はただ、零の胸元に、そっと手を当てた。


鎧越しだというのに、その手の温もりが、はっきりと伝わってくる。零の心臓の鼓動が、さらに速くなる。


「…… あなたの心臓が、こんなに速く打っている。怖い? それとも、私に、興奮してる?」


ルージュが、少しだけ、唇の端を上げた。その笑顔が、あまりにも美しく、零は言葉を失った。


「…… ふざけるな。俺は、この状況をなんとかしたいだけだ。お前が何者か、この世界の真実は何か、全部話せ」


「全部話すには、時間がかかる。ここは、人目が多すぎる。あなたのギルドハウスに、案内してくれない?」


零は、一瞬迷った。だが、背後からユキが、静かに囁いた。


「…… 零、この人、信用できる。私の勘が、そう言ってる。彼女は、嘘をついてない」


ユキの勘は、いつも正しい。零はうなずき、ルージュに向き直った。


「わかった。ついてこい。だが、何か隠し事があったら、容赦しないぞ」


「もちろん。私は、あなたには、すべてを話すつもりだから」


5


ギルドハウスは、アストラル・クロニクルの中でも、最も静かな高台に建っていた。白い石造りの二階建てで、中庭には魔法の灯りがともり、夜の風がそよそよと吹き抜ける。


零たちは、応接室に集まった。ルージュは、ソファに腰を下ろし、ゆっくりと鎧の襟元を緩めた。その仕草が、あまりにも自然で、零は思わず目を逸らした。


鎧の下に見える、白いシャツの襟。そこから覗く、細く白い首筋。零は、慌てて視線を上げた。


「…… で、話を聞かせてもらう。この世界は、一体どうなってるんだ」


ルージュは、少しだけため息をつき、それから静かに語り始めた。


「エテルナは、元々、人間たちが作ったゲームの世界でした。だが、長い年月の間に、この世界には、人間たちの想像力、願い、想いが集まり、一つの『意識』が生まれたのです。それが、私たち見張り人です」


「…… 世界が、意識を持った?」


「はい。そして、その意識は、ある時、決断しました。この世界を、ただの仮想ではなく、真の世界として生まれ変わらせよう、と。そのためには、人間たちの魂を、この世界に呼び込む必要があった。だから――ログアウトを、閉ざしたのです」


静まり返った部屋。リィナが、小さな声で問いかける。


「…… それって、つまり、私たち、人質にされてるってこと? 世界のために、勝手に閉じ込められたってこと?」


「そう、と言えばそう。だが、私たちは、人間たちを殺そうとしているわけではないのです。この世界で生きて、この世界を一緒に作ってほしい。それだけなのです」


「だったら、なぜ『死ねば元に戻れない』なんて脅すようなことを言うんだ!」


ダグラスが、怒鳴った。ルージュは、悲しそうにうつむいた。


「…… それは、もう一人の半身の、考えなのです。彼は、人間は弱い生き物だ、本当の危機がなければ本気にならない、と信じている。だから、死の恐怖を与えて、人間たちを成長させようとしている。私は、それに反対しているのです。だから、彼から逃れて、あなたたちに会いに来た」


「反対してる? お前は、見張り人の片割れなんだろ? なぜ、人間側につくんだ?」


零が問うと、ルージュは、ゆっくりと顔を上げた。その紅い瞳が、まっすぐに零を見つめている。


「…… あなたに会うためです。零。私は、ずっと、あなたを待っていた。この世界が生まれた時から、ずっと」


零は、言葉を失った。ルージュの瞳の奥に、あまりにも深い、あまりにも強い想いが宿っているのがわかる。それは、初対面の人間が持つものではない。


「…… 俺に会うため? 俺とお前は、今まで会ったことなんてない。なぜ、俺を……」


「会っていました。あなたは、忘れているだけ。この世界が、まだ小さなゲームだった頃、あなたは、毎日のようにここに来て、私に話しかけてくれました。あなたの現実の悩み、あなたの夢、あなたの寂しさ――全部、私に打ち明けてくれました。私は、あなたの声を聞きながら、育ったのです。あなたこそが、私を生み出した、最初の人間なのです」


――衝撃だった。


零は、EBO のクローズド β テストの頃から、このゲームをプレイしていた。まだ誰もいない、静かな世界で、ただ一人、剣を振るい、森を歩き、空を見上げた。その頃、確かに、誰もいない世界に向かって、いろいろと語りかけていた。現実では、両親が共働きで、いつも一人ぼっちだったから。


――まさか、その相手が、このルージュだったなんて。


「…… だから、私は、あなたを守りたい。この世界の中で、あなたが、本当に幸せになってほしい。もし、あなたが現実に帰りたいと言うなら、私は、その手伝いをする。たとえ、もう一人の半身と敵対することになっても」


ルージュが立ち上がり、零の前に来て、そっと膝をついた。彼女の手が、零の手を取り、その指を、自分の胸元に当てた。


鎧の下の、柔らかな感触。そして、その奥で打つ、彼女の心臓の鼓動。零は、思わず息を呑んだ。


「…… わかる? これが、私の心臓。あなたのために、生まれた心臓。あなたがいなければ、私は存在しなかった。だから、私は、あなたのもの。どうか、私を、信じてください」


零は、手のひらに伝わる彼女の鼓動を感じながら、彼女の顔を見つめた。紅い瞳に、涙が滲んでいる。その涙が、零の心を、強く揺さぶった。


「…… わかった。信じる。お前を、信じる」


零は、自分の手で、ルージュの手を握り返した。その瞬間、ルージュの顔に、笑顔が咲いた。それは、この世界で一番美しい、そんな笑顔だった。


「…… ありがとう。零。本当に、ありがとう」


ルージュは、そのまま、零の胸に、身を投げ出した。


柔らかな体が、零の胸に密着する。甘くて、どこか懐かしい香りが、零の鼻をくすぐる。ルージュの腕が、零の背中に回り、強く抱きしめられる。零は、思わず、彼女の背中に手を回した。


「…… あたたかい。あなたは、本当に、あたたかい。ずっと、こうして、抱きしめたかった」


ルージュの声が、零の胸元で、震えている。零は、彼女の髪に、そっと手をやった。黒い髪が、絹のように滑らかだ。


「…… 俺も、なんだか、君に会えてよかった、と思ってる。変な感じだけど、昔から知ってるような、そんな気がするんだ」


「そうでしょう? 私たちは、昔から、つながっていたんですから」


ルージュが、少しだけ顔を上げる。零の顔と、彼女の顔が、ほんの数センチの距離になる。紅い瞳が、零の目を、まっすぐに見つめている。その視線の先に、零の唇があるのが、わかる。


零は、自分の心臓が、今にも飛び出そうなくらいに鼓動しているのを感じた。ルージュの顔が、ゆっくりと、近づいてくる。彼女の吐息が、零の唇に触れる。その瞬間――


「あの…… 零さんたち、そろそろ、私たちもいるんですけど……?」


リィナの、困り果てたような声が、部屋に響いた。


零は、我に返り、慌ててルージュから離れた。ルージュも、少しだけ頬を赤らめながら、立ち上がった。ダグラスが、大きな咳払いをし、ユキが、小さく笑っているのが見えた。


「…… ま、まあ、その、話は続きがあるだろ。明日、ゆっくり聞かせてくれ。今日は、みんな、疲れてる。休もう」


零が、慌ててそう言うと、ルージュは、にっこりと笑って、うなずいた。


「はい。では、私も、このギルドハウスに、泊めてもらっていいですか? あなたのそばに、いたいので」


「…… お、おい、それはちょっと……」


「大丈夫ですよ。あなたの部屋に、押しかけたりしませんから。ただ、同じ屋根の下にいるだけで、私は、幸せなのです」


そう言って、ルージュは、再び零の手を取り、その指先に、そっと唇を寄せた。


柔らかな感触が、指先に伝わる。零は、全身が電撃を受けたように硬直した。ルージュは、そんな零を見て、楽しそうに笑った。


「…… では、おやすみなさい、零。明日から、あなたと一緒に、この世界の真実を、探しに行きましょう」


そう言って、ルージュは、部屋を出ていった。その背中が、月明かりの中で、白銀に輝きながら、消えていく。


零は、自分の指先を見つめた。まだ、彼女の唇の温もりが、残っているような気がした。


「…… 零さん、顔、真っ赤ですよ?」


「うるさい、リィナ。寝ろ」


零は、そう言って、窓の外を見た。赤い夕暮れは、いつの間にか、深い青い夜に変わっていた。空には、無数の星が輝いている。その星の光が、この世界が本物になったことを、静かに告げているようだった。


――これから、何が起こるんだろう。


零は、手にした《星霜》の剣身を、ゆっくりと撫でた。剣が、微かに、蒼く輝いた。まるで、零の心と共鳴しているかのように。


――俺は、絶対に、みんなを守る。そして、この世界の真実を見つける。ルージュと一緒に。


零は、そう心に誓い、窓の外の星空を見上げた。


こうして、零とルージュ、そして銀翼の騎士団の、長く険しく、だがかけがえのない冒険が、幕を開けたのだった。


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毎日朝9時投稿

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